3話 手作りクッキーと不可解な視線
「…………行っちゃった」
呆気にとられて呟く俺の隣で、結衣は肩を震わせながら、ついに堪えきれずに笑い出した。
「ぶふっ……! あははは! なに今の! 会長、キャラ崩壊しすぎでしょ!」
「笑いすぎだろ、お前……」
「だって、面白すぎるんだもん! あの完璧な西村会長が、健司の前だとポンコツになる呪いにでもかかってるんじゃない?」
「んなわけあるか」
俺は溜息をつき、手の中に残された紙袋に目を落とした。可愛らしいリボンを解くと、中から出てきたのは、透明な袋に入った数枚のクッキー。形は少しだけいびつで、焼き色にも若干のムラがある。いかにも手作り、という感じだ。
「へえ、手作りクッキーだって。すごいじゃん、健司」
結衣が隣から覗き込んでくる。その声には、からかい半分、そしてほんの少しだけ、棘のようなものが混じっている気がした。
「……食べるのか?」
「そりゃ、もらったんだし……」
俺は袋を開け、一枚つまんで口に放り込んだ。サクッとした食感。バターの風味が口の中に広がる。甘さは控えめだ。
「……うまい」
思わず呟くと、結衣がじーっと俺の顔を見てきた。
「……ふーん。よかったね」
「お、お前も食べるか?」
なんとなく、そう聞かなければいけないような気がして尋ねると、結衣は一瞬驚いた顔をして、それからプイッとそっぽを向いた。
「いらない! 健司のためにもらったんでしょ!」
「……そうだけど」
「じゃあ、あんたが全部食べなさいよ!」
なんだか、結衣の機嫌が悪くなったような……? 気のせいか?
俺は釈然としないまま、残りのクッキーを紙袋に戻した。手作りのお菓子なんて、家族以外からもらうのは初めてかもしれない。しかも、あの西村会長から。わけがわからない。
午後の授業が始まっても、俺の混乱は続いていた。チラリと前の席の方に視線を送ると、西村会長の背中が見える。姿勢の良い、完璧な後ろ姿。昼休みのアレが嘘のようだ。
……いや、嘘じゃなかった。
ふと、会長がノートを取る手を止め、ほんの少しだけ、本当に僅かに、こちらを振り返ったような気がした。目が合ったわけじゃない。でも、確かに俺の方を意識しているような……そんな気配を感じた。
そして、すぐにまた前を向き、何事もなかったかのように授業に集中し始める。
(気のせい……じゃないよな、今の)
その後も、何度か同じような気配を感じた。会長は、俺のことを気にしている? でも、目が合いそうになると、サッと視線を逸らす。まるで、見たいけど見られたくない、みたいな……。
(なんなんだ、一体……)
俺が西村会長に対して抱く感情は、もはや単なる「高嶺の花への畏敬」だけではなくなっていた。「不可解な行動への混乱」と、そしてほんの少しの「好奇心」。なぜ、俺にだけあんな態度を? 手作りのお菓子までくれる理由は?
授業が終わり、帰り道。
いつものように、俺と結衣は並んで歩いていた。
「なあ、結衣」
「んー?」
「西村会長って、普段からあんな感じ……なわけないよな?」
「ないない。超クールビューティーじゃん。男子も女子も憧れの、完璧生徒会長様だよ。……健司の前以外ではね」
結衣は面白そうに付け加える。
「なんで、俺の前でだけ……」
「さあ? 健司が気づいてないだけで、昔なんかしたんじゃないの? 例えば、会長のピンチを偶然救ったとか、そういうベタなやつ」
「はあ? 俺が? あの会長を? 無い無い」
俺は即座に否定した。そんなヒーローみたいな経験、俺にあるわけがない。
「ま、どっちにしろ、あの会長が健司のこと意識してるのは間違いないと思うけどねー」
「意識って……どういう意味でだよ」
「さあ? それは、これからのお楽しみってことで」
結衣は意味深な笑みを浮かべて、俺の家の前で「じゃあね!」と手を振って自分の家に入っていった。
俺は自宅の玄関ドアに手をかけ、ふと、隣ではないが、そう遠くない一角にある、少し大きな家を無意識に目で追っていた。西村会長の家は、たしかあっちの方角だったはずだ。
(これからのお楽しみ、か……)
手の中には、まだクッキーの感触が残っている気がした。
西村あかりという完璧な少女が見せる、不可解なポンコツ。その理由を知りたい。そんな気持ちが、確かに俺の中で芽生え始めている。