2話 お礼と不自然な距離感
昨日の今日だというのに、西村会長はいつも通り、完璧な生徒会長として学校に君臨していた。朝の挨拶運動では、凛とした声で生徒たちに声をかけ、授業中は模範的な態度で先生の質問に的確に答える。
昨日、俺の前で盛大にプリントをぶちまけた姿など、まるで幻だったかのようだ。
(……やっぱり、きのうのは偶然だよな。たまたま調子が悪かったとか)
俺は自分の席で、そんな風に結論づけようとしていた。じゃないと、あの完璧な会長が、俺なんかの前でだけテンパる理由が説明できない。
「おはよー、健司! 昨日、なんか面白いことあったんだって?」
隣の席の結衣が、ニヤニヤしながら話しかけてきた。噂はあっという間に広まるものだ。まあ、クラス中の前での出来事だったしな。
「面白いことって……会長が転んだだけだろ」
「それだけじゃなくてさー。あんたが助け起こした時の、会長の顔! 見た? 真っ赤だったよ! 絶対なんかあるって!」
「ねーよ、そんなの。俺はただプリント拾っただけ」
「ふーん……?」
結衣はまだ何か言いたげだったが、ちょうど予鈴が鳴ったので、口をつぐんだ。
こいつの勘は妙に鋭いから困る。
そして、昼休み。
俺と結衣は、特に約束するでもなく、いつも通り一緒に購買へパンを買いに行き、中庭のベンチで昼食をとることにした。ポカポカで気持ちがいい。
「あー、焼きそばパンうまっ!」
結衣が大きな口でパンにかぶりつく。行儀はあまり良くないが、それが結衣らしい。
俺も自分のメロンパンを齧りながら、午後の授業だるいなー、なんて考えていた。
その時だった。
「……あのっ!」
すぐ近くから、少し上擦った声が聞こえた。
顔を上げると、そこには信じられない人物が立っていた。
西村会長だ。
手には、小さな紙袋を大事そうに抱えている。
「に、西村会長……? どうかしました?」
俺が驚いて尋ねると、会長は一瞬ビクッとして、それから意を決したように口を開いた。
「さ、佐藤くん! き、昨日は、その……助けてくれて、ありがとう……ございました!」
深々と頭を下げる会長。その丁寧すぎるお礼に、俺は逆に恐縮してしまう。
「い、いや、たいしたことじゃないんで、頭上げてください!」
「う、うん……。それで、これ……」
会長は、持っていた紙袋を俺の目の前にスッと差し出した。可愛らしいラッピングが施されている。
「お礼、です。その……迷惑じゃなかったら、受け取って……ください」
え? お礼? あのプリントを拾っただけで?
なんだか申し訳なくなってくる。
「え、いや、本当に気にしないでください! こんな……」
「だ、ダメ……かな?」
会長が不安そうに、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。そんな顔されると断れないじゃないか! 普段のクールな姿とのギャップがすごい。
「……あ、ありがとうございます。いただきます」
俺が根負けして紙袋を受け取ると、会長はパアッと顔を輝かせた。子犬みたいだ。いや、相手は完璧生徒会長様なんだけど。
「よ、よかった……! あのね、それ、私が……」
会長が何かを言いかけた、その時。
ガシャァァン!!
すぐそばで、大きな音が響いた。
見ると、会長が持っていたらしい未開封のジュースの缶が地面に転がり、中身が派手に噴き出していた。どうやら、俺に紙袋を渡すことに集中するあまり、手に持っていた缶を落としてしまったらしい。しかも、落とした衝撃でプルタブが開いてしまったようだ。
「ひゃあっ!?」
会長は素っ頓狂な声を上げ、噴き出すジュースの泡を呆然と見つめている。
白いブラウスには、すでにオレンジ色のシミが点々と……。
「……ぷっ」
隣から、結衣が吹き出すのを堪える声が聞こえた。俺も、正直、笑いを堪えるのに必死だった。
完璧な会長はいったいどこへ……?
「だ、大丈夫ですか、会長!?」
俺は慌ててハンカチを取り出し、会長のブラウスのシミを拭こうと手を伸ばした。
「あ……! さ、触らないでっ!」
パシッ!
会長は、俺の手を反射的に、しかし結構な強さで叩き落とした。
そして、ハッとした顔で俺と自分の手を見比べる。
「あ……ご、ごめんなさい! ちがっ……! その、汚れるから……!」
しどろもどろになりながら弁解する会長。顔はまたしても真っ赤だ。
叩かれた俺の手の甲が、じんわりと熱い。
「……西村会長、佐藤くんのこと、嫌いなの?」
今まで黙って様子を見ていた結衣が、少し意地の悪い笑みを浮かべて口を挟んだ。
「ち、違うっ! 嫌いとか、そんなんじゃ、全然、まったく、断じてなくて……!!」
会長は、ブンブンと首と手を横に振って、全力で否定する。その慌てっぷりは、やはり尋常じゃない。
(なんで、こんなに必死に……?)
俺の疑問は深まるばかりだ。
西村会長は、結局「ご、ごめんなさいっ!」と一言だけ叫ぶと、ジュースの缶もそのままに、猛ダッシュでその場から逃げ去ってしまった。完璧なフォームとは言い難い、なんだかバタバタした走り方で。
残されたのは、呆然とする俺とニヤニヤが止まらない結衣、そして、地面に転がったオレンジジュースの缶と、俺の手に残された可愛らしい紙袋だけだった。
紙袋の中には、少し不格好だけど、手作りっぽいクッキーが入っていた。