第61話 工房探し
1回目の糸液の検証が終わってから1週間後、ヴァイト・スパイダーの腹部が届いたので再び糸液の混合実験を行った。
その結果『A液は混ぜることができるが、B液は混ぜると糸化しない』という結論に至った。
この結論を得たことにより糸液の検証を終了とし、採取難度や依頼料などを加味した結果、冒険者ギルドに出す指定量採取依頼はアンブッシュ・スパイダーに決定した。
と、まあ、そんな感じで工房を立ち上げるための条件が揃ったので、今日は工房を紹介してもらうためにルジェナを連れて行政館に来た。
行政館を囲む内堀に架かる橋を渡り、石造りの正門を通って敷地内に入ると、正面にレンガ造りで3階建の建物が見える。
慌ただしく行き交う人たちを横目に行政館に入ると、館内も外と同じように色々な人たちが行き交っていて、母さんが『とても忙しい』と言っていたことが実感できる。
僕たちは納税で混雑している1階の受付を避けるように移動し、階段を昇って2階にある事業課に向かった。
「こんにちは、ヘンドリカさん」
「はい、――あら、アルくん、久しぶりね」
僕が声をかけたのは事業課の受付をしているヘンドリカさん。
事業課と雇用課は隣り同士なので、母さんが雇用課で面接をしている間に何度か話し相手をしてもらったことがある。
「お久しぶりです。それで、今日は事業課の方に用事があるんですけど、まずはこれを読んでもらえますか?」
ヘンドリカさんに渡したのはヴェッセルさんに書いて貰った委任状で『業務代理として弟子のアルテュールに一任する』と書かれている。
今でも訓練を受けているので肩書きを弟子としたんだけど、……間違っていない、はず。
「――ヴェッ?!」
委任状に書かれていた名前を叫びそうになったヘンドリカさんは、両手で自分の口を塞ぎ周囲に視線を巡らせた。
「ど、どういう事よ?!」
「落ち着いてください。それと声も押さえてください」
ヘンドリカさんが受付カウンターから身を乗り出して顔を寄せてきたので手で遮った。
「うっ、ご、ごめんね」
ヘンドリカさんが深呼吸して落ち着くのを待ってから、『母との関係からヴェッセルさんの弟子になり、事業を手伝うことになった』という表向きの理由を伝えた。
「あのヴェッセル様が事業?」
その言葉でヴェッセルさんがどう思われているのかが分かる気がする。
「ヴェッセルさんは忙しい人ですから、僕が代わりを任されたんです。それでですね、今日ここに来たのは工房の紹介をしてほしいからなんです」
これ以上不審に思われる前に、工房の条件などを並べ立ててヘンドリカさんの気をそらした。
僕が希望した条件は製糸から仕立てまでを一環して行える工房で、全てが揃っている必要は無いけど、機織り機を複数台設置できる広さがほしい、と伝えた。
「んー、工房区で空いているのは――」
ヘンドリカさんは書類の束をめくって条件に合う空き工房を探し始めた。
「条件に合いそうな空き工房が3軒あったわ」
そう言ってヘンドリカさんは3枚の書類を僕の前に並べた。
書類には所在地と以前の用途に階数や部屋数などが文字で書かれていた。
所在地はともかく、間取り図ではなく文字で書かれているからイメージが湧かない。
「……えっと、その3軒の工房を見学することはできますか?」
「もちろんよ。行きたいなら鍵を持って来るけど?」
「はい、お願いします」
ヘンドリカさんは受付を他の人に代わってもらい、3軒分の鍵束と工房の書類を持って受付カウンターから出てきた。
そして僕たちはヘンドリカさんと一緒に行政館を出て、行政館の門前広場から巡回馬車に乗り南区の中央広場に向かった。
「まずはここね」
「――でかっ」
中央広場から少し奥まった場所まで歩いて行くと、そこには3階建ての大きな建物があった。
階数が違うから分かり辛いけど、延べ面積ならうちの母屋と同じぐらいはありそうだ。
「以前は服飾店で1階が店舗で2階が仕立て工房だったのよ」
いわゆる店舗併設型の工房だったらしく、3階には事務所と工房長の住居もあり、正面からは見えないけど、工房の裏には従業員用の宿舎と倉庫もあった。
「ここの1階に機織り機を入れて紡織工房にすれば条件に合うと思うわよ?」
販売スペースは無くなるけど、これだけの広さがあれば機織り機を4台は入れることはできそうだ。
でも、建物が大きい上に南区の中心地が近いこともあって賃料が高いことが難点だ。
「……ヘンドリカさんここは分かったので、次をお願いします」
一通り建物を見て納得できたので次の物件へ向かう。
まずは中央広場まで戻り、再び巡回馬車に乗って南大門まで行き、そこから外壁に沿って30分ほど歩いた。
そこにあった建物はヘルベンドルプの自宅と同じL字型の2階建てで、2階の建物が無い部分が全てベランダという少々変わった造りになっている。
「ここは染色ができる紡織工房だったから2階の半分を干場にしていたのよ」
それに加えて染色には水を大量に使うので、取水と排水を考慮して外壁近くに建て、水を浄化してから排水する設備まで設置されていた。
「仕立て用の部屋は無いけど、庭が広いから多少の増設はできるわよ」
工房の前は広い庭になっているから、追加で建物を建てることはできると思う。
でも、それより気になっているのは『いつから放置されていた?』と聞きたくなるほどに雑草が生えていることや、手入れが滞って壁に穴が空いていたりすることだ。
「……まあ、どのみち修理しないと使えないから『ついで』という考え方もある、かな?」
「その分、賃料が安いわよ?」
賃料は契約時の土地代と建物代の合算なので、この工房のように劣化して建物の価値が低くなれば、その分だけ賃料も安くなる。
ここで重要なのは契約時という部分で、これにより契約後に修理や建て増して建物の評価が上がっても契約時の賃料で済むということであり、空いた土地を契約して自費で建物を建てれば賃料が土地代だけで済む、ということでもある。
それはさておき、染色の設備があることは悪くはないけど、使うとなれば専門の職人が必要になるし、道具や染料のことを考えると染色には手を出したくない。
「すみません、ここも保留で」
「まあ、仕方ないわね。じゃあ最後の工房に行きましょう」
最後に向かったのは南区の東外壁の近くにある工房で、やたらと広い敷地に同じ形状の建物が等間隔に並んでいる。
「――っ?! おのはここが良いと思うです!」
「は?」
何を思ったのか、敷地に入って周囲を見渡しただけでルジェナが即決した。
「ふふふ、さすがですね」
なぜかヘンドリカさんも同意している。
「あの、何の話ですか?」
「アルくんに分からないのも無理はありません」
「はいです、ここの良さは大人にしか分からないです」
敷地面積は今までの工房と比べて一番広く、入口の近くには倉庫と平屋の建物があり、奥には2階建ての建物が隣接しないように間隔を開けて6棟並んでいる。
工房と呼ぶには規模が大きいけど、これといった特徴が無く何が良いのか分からない。
「それで、ここの何が良いの?」
「匂いを嗅ぐです」
「匂い?」
ルジェナに言われて匂いに集中すると、微かに甘い香りがすることに気が付いた。
「甘い香り、……花?」
「違うです、これはレヴェリルの香りです」
「正解です。ここは半年前までレヴェリルの研究施設だったんです」
レヴェリルというのはリルラントという洋ナシに似た果物から作られるレーヴェンスタット特産のお酒のことで、商会で勧められたのでルジェナのご褒美用に小樽をいくつか購入してある。
このお酒は10年ほど前から販売されている新しいお酒で、販売開始後もここで研究を続けていたらしい。
ちなみに、現在のレヴェリルの製造はレーヴ湖の北に新しい村を造ってリルラントの栽培から醸造までを一貫して行っていて、関係者以外立ち入り禁止の村になっているとのことだ。
「……ヘンドリカさん、案内をお願いします」
「えっ、あ、うん」
くだらない理由でここに決めたルジェナは放っておいて、僕はヘンドリカさんの手を引いて見学を始めた。
最初に見学した平屋の建物は研究員用の宿舎で個室が5つと会議室や食堂などの共同施設があり、倉庫の方には地下に大きな酒樽の貯蔵庫があった。
また、残り6つの建物は醸造研究用の施設で、外観が格納庫のようになっていて重量物に耐えられるようにレンガ敷の床になっていることが特徴的だった。
「ここで最後だけど、どうする?」
「んー、ちょっと考えさせてください」
僕はルジェナを連れてヘンドリカさんから少し離れた。
「ねぇ、建物の改修について聞きたいんだけど――」
ルジェナに3軒それぞれの改修や増築にかかる費用の概算を聞き、初期投資の費用や維持費用などを考慮した結果……。
「むぅ、なんてこった」
「くふふ、おのはアルテュール様の判断を尊重するです」
勝ち誇った表情で言われるとルジェナに騙されている気持ちになるんだけど、理屈は通っているし反論するだけの理由が無い。
僕はヘンドリカさんのところに戻って、ここを借りることを告げた。
「あら、2軒目じゃなくて良かったの?」
「新しい工房を立ち上げるなら初期投資がかからない方が良いという結論になったので」
ここは南区の中心から遠く、巡回馬車も来ない場所だから元々土地の評価が低い上に、研究施設として建てられた建物は内装が乏しく経年劣化もあるのでこちらの評価も低く、賃料が3軒の中で最も安かった。
それに加えて道を挟んだ南側に領軍の練兵場があるおかげで周囲の治安が良く、何かあった時に領軍に助けを求められる状況が、他の2軒には無い強みに思えた。
「了解よ。それじゃ戻って契約の説明をするわね」
ここを工房として稼働させるのは大変だけど、事が進むと楽しくなってくる。




