第54話 新しい家
ヴァンニ辺境伯領はダンメルス王国の南西部にある領地で、メルロー男爵領から南に2つの領地を越えた先にあり、南の隣国であるヴォルテルス王国と接している領地の1つでもある。
そして、この領地には国防の拠点になっている領都ヴァニカティルと農業生産の中心になっている副都レーヴェンスタットがある。
領都と副都に分けられているのは、領主館と領軍の本部がヴァニカティルに置かれているのに対し、行政館と辺境伯邸はレーヴェンスタットに置かれているからだ。
ちょっと分かりにくいけど、辺境伯邸というのは辺境伯の家族が住む私邸のことで、領主館というのは領主が執務を執り行う建物のことで、行政館は領政に携わる役人が使う建物ということになっている。
一般的にはそれら全てを合わせて領主邸と呼ばれるんだけど、ヴァンニ辺境伯領ではヴァニカティルとレーヴェンスタットに分けられている。
なぜそんな面倒なことをするかと言えば、単純に危険だからだ。
そもそも、侵攻される可能性が高い国境の町に領主の家族を住まわせたり、領政の中心になる行政館を置いて危険にさらす理由がない。
この話を聞いた時に『むしろレーヴェンスタットを領都にすれば良いのでは?』と思ったんだけど、ヴァニカティルで領軍の指揮を執らないと国境砦や監視塔に迅速な指示が出せないし、領主館を前線に置くことで『ヴァンニ辺境伯は国防に尽力している』と示すことができるんだとか。
つまり、軍事的措置と矜持の結果だ。
まあそれはともかく、僕たちが住むことになるのは副都レーヴェンスタットの方で、この町は東にあるレーヴ湖から水を引き込んでいるため、水が豊富で農業が盛んな町になっている。
町の形状はレーヴ湖に沿うように南北に長く造られていて、レーヴ湖から引き込んだ水を外堀や内堀だけでなく、地区分けにも使っている。
この地区分けに使われている水路は最初に建造された町の外堀だったらしく、北と南に町を拡張した際の名残なんだとか。
そして町を拡張し住み分けを行った結果、最初に建造された町は中央区と呼ばれ、行政館と辺境伯邸を中心に貴族や富豪の住居が集まる富貴地区となり、北に拡張された部分は北区と呼ばれ、商会や宿屋などが集まる商業地区となり、南に拡張された部分は南区と呼ばれ、工房が集まる生産地区となった。
そうした町の情報を母さんが教えてくれたんだけど、ヴェッセルさんの婚約者だった時に知った情報だと思うと複雑な気持ちになる。
まあ、それはそれとして、ヴェッセルさんが用意してくれた家は中央区の東部にあったんだけど、想像していた以上の豪邸だった。
敷地面積は学校のグラウンドぐらいで、周囲はレンガの壁で囲まれている。
門を開けて中に入ると正面に体育館ほどの大きさがある母屋があり、右手側に使用人用の共同宿舎と馬車の車体を格納できる倉庫に小さい牧場を備えた厩舎まであった。
この屋敷は商会の会長が別宅として建てたらしく、これでも他の屋敷と比べると小さい方なんだとか。
しかし、いくら小さいとは言っても、4人で住むにはこの屋敷は大きすぎる。
そのことを母さんに聞いたら、爵位を賜った以上はそれに相応しい屋敷に住まないと爵位を与えた人が『卑賎に爵位を与える愚者』と侮られてしまうんだとか。
それに大きい屋敷に住んで使用人を雇用することも、吏爵になった母さんの役目だと言っていた。
貴族的な思考だけど、雇用を創出して経済に貢献するという意味では理に適っていると思う。
それはともかく、肝心の母屋は商人が建てただけあって庶民が好む内廊下式の構造になっていて、内装は豪華ではないけど丁寧な造りになっている。
また、母屋は大まかに4つの区画に分けられていて、1階の左手側は執務室や会議室などがある執務区画で右手側は食堂やお風呂などの設備がある生活区画、2階の左手側が来客用の客室区画で右手側が家主用の住居区画になっている。
住居に職場と宿屋を詰め込んだような雑多な屋敷だけど、この屋敷を一発で気に入った理由がある。
それは、――お風呂だ。
この規模の屋敷なら浴槽を設置したお風呂があってもおかしくはないんだけど、普通は1人用の浴槽を設置する程度だ。
それにも関わらず、この屋敷のお風呂場には一度に複数人が入れるほど大きな埋め込み式の浴槽が設置されていた。
しかも、お湯を沸かす魔道具を設置するほど、こだわった造りになっている。
「おぉー、すごい!」
ということで、引っ越しの荷解きを終わらせて、早速みんなでお風呂に入りに来た。
「アル、ちゃんと洗い場で体を洗ってからお湯につかるのよ」
「はーい」
お風呂場に入って一直線に湯船を見に行ったら母さんに怒られた。
「アルテュール様はおのが洗うですよー」
「え、いや、自分で洗えるよ?!」
「つまり、アルテュール様はおのが要らないです? そうなると、おのは奴隷ですから1人寂しく屋敷の外で体を洗うしかないです……オヨヨ」
「くっ、卑怯な」
ただの泣きまねだというのは分かっているけど、実際のところ奴隷のステファナとルジェナをお風呂に入れるには周囲を納得させる理由が必要になる。
かと言って、家族のように思っているから、外の洗い場で水浴びをさせるつもりはない。
結局、2人をお風呂に入れるには湯女として、主人に同行させるのが手っ取り早い。
ただ、湯女というのは……。
「ぬぅ、……はぁ、分かった」
「ぬふふ、任せるです」
僕はルジェナに手を引かれて壁際にある洗い場に向かった。
洗い場には背もたれが無い低い椅子と手桶が2つ置いてあって、もう1つの洗い場との間には、一時的にお湯を溜めておく湯桶が置いてある。
「お湯をかけるですよ」
ルジェナは湯桶から手桶でお湯を掬い、背後から左手を回してお湯が目に入らないように僕の目を押さえて、頭からお湯をかけた。
次にもう1つの手桶にお湯を入れて固形石鹸を入れて石鹸水を作り、髪に少しずつかけて泡立てながら洗う。
ちなみに、固形石鹸は教会で神官にお布施を渡すと、神の祝福として貰うことができる。
はっきり言えば、教会が石鹸を販売しているという話なんだけど、あくまで『神の祝福』だから教会以外で販売すれば神への冒涜となる……らしい。
「流すですよー」
髪を洗い終わったら次は体を洗う。
石鹸水が入った手桶にタオルを入れて泡立てると、後ろから前まで全身隈なく洗われた。
「洗い終わったですよ」
「ありがとー」
体を洗い終わったから、待望の湯船に向かう。
浴槽の縁は10cmぐらい高くなっていて、浴槽の中は幅が広い階段状になっている。
僕は階段を2段下りて、腰のあたりまでが浸かる深さの場所に座った。
「はぁー、あぁぁ、……いい」
湯船に浸かるのは久しぶりだ。
町にも湯屋があるんだけど、あれはお湯で体を洗うだけの施設だから湯船が無いんだよね。
「うふふ、お風呂は気持ちがいいわね」
まったりとお湯に浸かっていたら、母さんが湯船に入って来て一番深い場所に座った。
その後、ルジェナとステファナも体を洗い終わって、湯船に入って来た。
――慣れているけど、さすがに目のやり場に困る。
「……ねぇ、母さん」
「なぁに?」
「あれは何?」
なるべく見ないように誰もいない洗い場に視線を向けたら、洗い場から少し離れた場所に、高さが30cmで光沢のある黒い石の台があった。
「あれは美容台ね」
「美容台?」
美容台の表面には楕円形の浅い窪みがあって、お湯を張って体を温めながら垢すりを受けたり、香油を使ったマッサージを受けたりするらしい。
「へぇー、商人の別宅って言ってたのに、すごく豪華だね」
「そうねぇ、屋敷を建てた商人のことは聞いてないから憶測になるけれど、このお屋敷はお客様を歓待するために建てたのではないかしら?」
そう言われて思い返せば、玄関ホールはテーブルセットが設置されていてホテルのような雰囲気だったし、客室区画には10畳ぐらいの個室が3つと、居間と寝室が繋がっているスイートタイプの客室まであった。
「なるほど、それでこのお屋敷は客室が多いのですね」
「それでも2階の半分を客室にするのは、やり過ぎです」
ステファナは納得したように頷いたけど、ルジェナはやり過ぎだと呆れていた。
「この屋敷がある中央区の東部は商業活動禁止区域だから、商業活動を除外すると、家族や懇意にしている取引相手を歓待するために建てたとしか考えられないのよね」
中央区の西部は西大門があるから商業活動が許されているけど、中央区の東部は大門がなく完全な住宅街になっているから商業活動が許されてない。
確かに、それを考慮すれば母さんが言うような使い道しか思いつかない。
「気になるのでしたら、行政館に確認しに行きますが?」
「不備がある訳でもないのだから、そこまでする必要はないわ」
母さんが言うように、客室が多いだけで住むのに問題はないから、わざわざ調べる必要もない。
「アル、そろそろ上がりなさい」
「ん、うん」
湯船から上がったら、体が赤くなっていて少し体が重く感じた。
久しぶりの湯船は気持ち良くて、ちょっと長湯をしてしまったみたいだ。
「アルテュール様、おのも行くです」
立ち上がった時にちょっとふらついたみたいで、ルジェナが付き添ってくれた。
その後、寝巻着に着替えてベッドに入ると、旅の疲れもあってすぐに眠りについた。




