第53話 引っ越し
母さんが吏爵を授かってから9ヵ月、今は冬が明ける直前の3月の終わり。
例年ならこの時期は野菜の種蒔きに忙しい時期なんだけど、僕たちは護衛の冒険者たちに囲まれて馬車に乗って街道を東へと進んでいる。
僕たちがなぜ東へ向かっているのかと言えば、引越しの最中だからだ。
カウペルス子爵の件で、ヴァンニ辺境伯家から吏爵を授かって母さんはフェルデ吏爵家の女当主になった。
吏爵とはいえヴァンニ辺境伯から爵位を与えられたからには、主家となる辺境伯家に貢献する必要がある。
そのことと引っ越しはあまり関係がないんだけど、貴族位ではないとは言え、爵位を授かった母さんが村に住めば、村の管理を任されている村長さんより立場が上になってしまう。そうなると、村の運営に悪影響を及ぼす可能性がある。
それに、懇意にしているからこそ、メルロー男爵領に住むことで男爵家に不用意に干渉してしまうことも避けたい。
そういった理由があって、ヴァンニ辺境伯領に生活の場を移すことになった。
ちなみに、この馬車はカウスタットで購入したもので、カウスタットからの帰りは急ぐ必要がないし、今後も必要になるからと幌馬車の車体のみを購入した。
もちろん、馬車を引くのは僕たちがカウスタットに乗って行った馬だ。
「子爵様のことはあれで良かったです?」
馬車の後ろで通り過ぎた街道を眺めていたら、隣に座っていたルジェナが話しかけてきた。
「いいんじゃない?」
「なんか、もっと追い詰めるかと思ってたです(……ティーネ様が)」
「別にいいのよ。わたしは過去の清算をしてほしいのでなく、後顧の憂いを断っておきたいだけなのだから」
ルジェナの発言を聞いて、今度は母さんが会話に入って来た。
母さんは子爵邸を去る時に、子爵のことを『カウペルス子爵閣下』と呼んだ。それは、『これからは親子ではない』と母さんが宣言したに等しい。
子爵に横柄な態度をとられても、ディトネルに悪態をつかれても、母さんにとって彼らは人生の大半を一緒に過ごしてきた家族なんだから。縁を切るのは辛いはずだ。
子爵邸をあとにするときに母さんは、本邸に向かって頭を下げていた。その先にある窓辺には母さんの母親、ヘラルダ・カウペルスが居た。
だから、母さんも報復なんて望んでないと思う。
「アルテュール様もです?」
冷たいかもしれないけど、僕にとってカウペルス家の人たちは始めから家族じゃない。
籍に入ってないというのもあるけど、家族というのは支え合う存在だと思っている。
同じ家に住んでいなくても支え合っている人たちはいるし、同じ家に住んでいても支え合わない人たちもいる。
だから僕は、血縁があってもカウペルス家の人たちを家族だとは思ってない。
それに、優しい人たちじゃなかったけど、虐待されたわけでもないから、何かをしようとするほどの好意も敵意も湧いてこない。
「僕はあの人たちに興味はないよ。だから、わざわざ何かをする気もない」
子爵は僕に『この技術に興味はないか?』と言った。
母さんの婚姻を断わって子爵家に留めようとしたのは、母さんを子爵家に残せば僕に研究を手伝わせることができると思ったからだろう。
もしも切り札を用意してなかったら、そうなっていた可能性はある。
それができなくなったから僕に直接言ってきたんだろうけど、劇薬を使うような実験には近づきたくないし、それ以前に解決できるとも思えないから、はっきりと断わった。
それでも爵位を笠に着て強要したりはしなかったから、欲は深くても最低限の節度はあるんだろう。
まあ、ヴェッセルさんの前で権力を持ちだしたら大変なことになるから、自重しただけかもしれないけど。
「どのみち、資金繰りが厳しいなら、子爵家が研究を続けるのは難しいと思う」
ざっと見ただけでもかなりの規模の工場が必要になるのは想像がついたし、溶解液や中和剤を大量に用意するのにもかなりのお金がかかるはず。
サンデルス商会がどこまで出してくれるのか分からないけど、借金が増える前に手を引いた方が無難だと思う。
「もしかして、子爵家は潰れるです?」
「普通に領地を運営していれば潰れることはありませんよ」
母さんが言うように、領地貴族はそう簡単に潰れることはない。
何と言っても税収が大きく、国が決めた国税に領税を加えて徴収しているから、子爵でも法衣の上級貴族より収入がある。
だから、借金の返済が終われば立ち直るのは簡単だ。
「……おのは釈然としないです」
「ルジェナ、そんなことより、これからのことを考えよう」
「これからです?」
「そう、僕たちは新しい土地で生活を始めるんだから、どうでもいい人たちのことを考えるぐらいなら、これから何をするのかを考えよう」
「おお、そうです。まだ途中だったものが幾つもあるです」
ガラスやレンズのことはメルロー男爵家に渡してあるから、あとは時々状況を聞いて必要なら助言をすれば良い。
蜘蛛糸はまだちゃんとした布にできてないから、これは引っ越しが終わってから再開する予定だ。
自転車についてはちょっと検討中。やたらと自転車を普及させると事故が増えそうで怖いからね。
「引っ越し先はヴェッセル様が用意してくれてるですよね?」
「ええ、ヴェルに心当たりがあるみたいだったから任せたのよ」
メルエスタットに帰ってから、母さんがヴァンニ辺境伯領に行くことを伝えると、ヴェッセルさんが『それなら住む家は用意しておく』と言ってくれた。
母さんは吏爵になったから、今まで住んでいた家よりは大きい家に住む必要があるらしく、ヴェッセルさんには家賃の上限を提示して『寝具だけは入れておいてほしい』とお願いしていた。
この世界では、他の町へ引っ越すのはとても手間がかかる。
引っ越しをするときは、家具とかの大きなものは運ぶよりも、引っ越し先で購入した方が安く済むから、家具屋に引き取ってもらうか、そのまま家に残しておくのが当たり前で、必要なものは引っ越し先でもう一度購入する。
家も同様で、引っ越し先に到着してから家を探すのが当たり前だから、住む家だけでも決まっていれば、それだけでも大いに手間が省ける。
「どんな家か楽しみです」
「それに町も大きいって聞いたから、僕はそれも楽しみだよ」
ヴェッセルさんは、これから僕たちが住むレーヴェンスタットはヴァンニ辺境伯領の副都で領内で一番大きい町だと言っていた。
領都のヴァニカティルは城塞都市で、南の隣国ヴォルテルス王国から国を守る要衝になっているから、大きさよりも堅牢さを重視した造りになっていて、辺境伯軍が常駐しているらしい。
そして、その領都ヴァニカティルを支えるために造られたのが、副都レーヴェンスタットだと教えてくれた。
副都レーヴェンスタットまではメルエスタットから馬車で1ヵ月かかり、予定ではあと数日で町に着くことになっている。
「ヴァンニ辺境伯領の副都レーヴェンスタット、どんなところなんだろう?」
僕は新しい町に心を躍らせながら、再び流れていく街道を眺め続けた。
これにて、「第1章 ヘルベンドルプでの暮らし」は終了になります。
次章からはレーヴェンスタットを中心にしたお話になる予定なのですが、執筆が追いついていないので投稿は少しお休みをさせていただきます。




