<ステータス・クローズ>
ステータスオープン!
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「お嬢様、婚約者殿がいらっしゃいました」
「そう、お通しして」
いつからだろう。私達の世界で、魔法が生活必需となったのは。
「ジュネ!会いたかったですよ!」
「ご無沙汰しております、ハンク様。お元気でしたか?」
「ええ!君は……〈分析〉!」
いつからだろう。相手の体調を調べるのに、魔法で診察するのが当たり前になったのは。
「ふむふむ。あれ、少しHPが減っていますね。何かありましたか?」
「……ちょっとお腹が痛いだけです」
いつからだろう――
「君はHPが30しかないのですから、気を付けないと。ほら、この携帯ポーションで回復してください」
――ステータスの数字だけで、人が人を測るようになったのは。
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子供の頃から、魔法とステータスと共に生きてきた。でもずっと一緒であることが、好感を抱くことには繋がらない。
努力をしても「賢さが2上がって偉いぞ」と数字で褒められた。私には物事を組み立てる頭があるのに、目に見えない論理立てよりも"賢さ"の数字しか見ない今の世界が嫌いだった。
他の子よりも早く月を迎えたときも、母に内緒で伝えるよりも先に、父の分析魔法で看破された。父の手で裸に剥かれたみたいで、嫌悪のあまり鳥肌が立った。
「……〈情報開示〉」
ジュネ・ジャンメール。レベル10、HP17、MP34、力14、賢さ22、魔力43、素早さ12、運20、そしてスキル適性は、たぶん【魔法使い】。
この生まれつき高いレベルと魔力、それに比して低過ぎるHPのせいで、私は自由に体を動かすことが出来なかった。外で走り回りたくても、HPが少ないのだからと阻止され続けてきた。宝石のように、あるいは落とせば割れるガラスのように、大事に大事に育てられていた。
それが私であり、私自身の価値だった。見てくれるのはあくまで目に見えるステータス値であって、目に見えないものに価値はなかった。
「……魔法もステータスも、この世から無くなればいいのに」
だけど魔法が無くなった世の中で、私は生きていけるのだろうか。領民はどうなのだ。魔王が魔物を従えて好き勝手暴れている世の中で、魔法無しで生きていくには何が必要なのだろう。
女である自分が領主になる未来なんて無いのに、自分が統治するならどうするだろうかと、統治教育の真似事ばかりしていた。だけど火を灯す時も、水を撒くときも、人々が使うのは魔法であり、それ以外の方法を知らなかった。
MPが無い人もいるのに、魔法に頼りきってていいわけがないのに。……そんな風に考える自分は、きっと一生この世界の人々には認めてもらえないだろうと、悲観もしていた。
「<本>」
ぽんっという音とともに、魔力変換して保存していた読みかけの本が現れる。挟んでいたしおりも元通りの場所に挟まっているのに、汚れや折り目は綺麗に直る、とても便利な魔法だ。
でもこれを使えるようになった日から、私の部屋から無駄な本棚は取り上げられてしまった。読み終えた本の数々を眺めたり、背表紙を見て読み直すのが好きだったのに、それも理解してもらえない。
「世の中が便利になればなるほど、大切な別の何かを同時に失っていくような気がするわ……。なんで魔法が使えるんだろう。私には要らないものなのに。……〈解除〉」
愛読書だったものを魔力に戻した私は、習慣だったはずの読書すら放棄して、ベッドへと向かった。こんな生活でも、ベッドだけはささやかな安らぎを感じさせてくれる。唯一夢の中だけは、魔法と向き合わなくて済むから。
その日もいつも通り、漠然とした不安と不満を抱いたまま、眠りにつくはずだった。
「え?え!?う、うわ!?」
ドサリという音とともに、少年の悲鳴が聞こえさえしなければ。
「…………へ!?」
彼は突然現れた。薄い寝巻姿だった、私の目の前に。
「…………きゃあああっ!?だ、誰!?」
「え?え!?あの、す、すみません!ここはどこでしょうか?」
「はぁ!?どこって、ここ、私の部屋なんだけど!?貴方こそどこから入ってきたのよ!?」
「貴方の部屋!?家の中ってこと!?なんで!?だって俺、さっきまで山に!木が倒れて!ていうかここ、本当に日本ですか!?」
最初は不審者、いや泥棒かと思った。だけどあまりにも彼の様子が変で、まるで本当に見知らぬ土地に飛ばされてきたように見えた。
「や、山って……貴方、何者よ?さっきから言ってることの意味がわからないわ。ここは山じゃないし、ニホン?でもないわよ」
「……えっ」
よく見ると私達とは服装も違うし、顔立ちもどこかあっさりしてて丸っこい。東国の特徴と少し似ていたが、その割には流暢な発音で母国語を話している。こんな人は見たことがなかった。
「まずは名乗って。さもなくばすぐにでも憲兵に引き渡すわよ」
「……えっと……お、俺はカミザワ・シュウと言います。お父さんの仕事……ていうか林業の手伝いをしてたら、倒れてきた杉に巻き込まれてしまって……気付いたら、ここに」
カミザワ・シュウ。彼との出会いが、私の人生を大きく変えた。
彼の生い立ちはあまりに特殊だった。私の世界の常識が何一つ通用しない。国王が支配していない国で、魔法も無くて、ステータス画面も開けない。そんな国が本当に実在するなんて、信じられなかった。
「――魔法無しでどうやって生活してきたの!?火はどうやって起こすのよ!?」
「火?火はガスコンロとかライターを使えば――」
「清浄魔法も使えないんだよね!?あ、えっと、体とか服はどうやって綺麗にしてるの!?無理じゃない!?」
「体はお風呂に入れば綺麗になるでしょ……?服は確か、いつも母さんが水と洗剤を洗濯機に入れて――」
「じゃあ、じゃあ!」
「まってまって!さっきから魔法ってなんのことさ!?」
魔法が無いことを当たり前に受け入れてて、私の疑念に対してさも問題なさそうに答える彼に対して、これまで感じたことのない高揚感を感じていた。私は間違っていなかったのかという、どこかしら安心感も感じていた。
彼の存在は貴重だった。人は魔法とステータスが無くても生きていけると、その身で証明してくれていたのだから。
「――じゃあ、貴方は本当に魔法も、ステータスも無い世界からやってきたのね」
「うん。むしろ俺の方こそ、ここが剣と魔法の世界だってことが実感出来てないけどね……しかも魔王と魔物って……マジかよ……」
青い顔をしながら、彼は私に教わった通りに手を前に出して、呪文を唱えた。
「<情報開示>。……うわ、本当に出た。レベル001って、まるっきりゲームの世界じゃないか」
「ゲーム?」
「いや、なんでもない!それより君が知ってる魔法を、俺にも教えてくれないかな。今の俺は頼れる人もいないし、こっちで生きていく方法が欲しいんだ」
「えー……」
正直、魔法を教えるのは気が進まなかった。せっかく魔法無しで生きてきた子に出会えたのに、自分の手でそれを汚してしまうような気がしたから。
「駄目……かな?」
「駄目じゃないけど……」
……男の子の上目遣いってずるいと思った。
でもこの時にはもう、彼が生きてきた世界の事をもっと近くで知りたくなっていた。とりあえず傍に置いておけば、もっと彼から色んな話を聞けるんじゃないかって。
子供らしい好奇心と、浅はかな打算が、私と彼の運命を決めた。
「もう……わかったわ、教えてあげる。それとお父様に言って、私の使用人としてここに住まわせてあげるわ。行くところもお金も、ないんでしょ?」
「ほんと!?ありがとう!でも、使用人ってなに?」
「ううーん、召使いっていうか、家来かしら」
「家来!?」
「仕方ないでしょ。魔法が使えない平民が貴族と住む理由なんて、侍女か使用人くらいしか思いつかないわ」
「~~~っ、う、うん、いいよ!住むところがあるだけでも今はありがたい!ありがとう!えーっと」
「ジュネよ。でも皆の前ではお嬢様と呼んでね、シュウ」
「わかったよ、ジュネ!」
謎の異邦人との共同生活。私が彼に魔法を教えて、彼は私に魔法を使わない生活方法を教える日々が始まった。
「でも夜の不法侵入者は紹介できないわ。今日はベッドの下に隠れて、朝まで待ってなさい。ほら、早く隠れて」
「いっ!?ちょ、ちょっと、狭っ!?」
「じゃ、おやすみなさい。貴方も寝ていいわよ」
「はぁ!?……こ……ここで寝ろって……?女の子が寝てる、すぐ下で……!?」
「……Zzz」
「ね……眠れるわけ、ないだろ……」
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翌朝。私は町で拾った孤児という設定を作り上げて、シュウを父に紹介した。家来宣言の次に孤児扱いされてシュウは嫌そうにしていたけど、私にはそれ以外に上手い設定が思いつかなかった。
「〈分析〉。……ふん、LV1か。各種ステータスは可もなく不可もなし……スキルも基本的なパッシブだけ。なるほど、凡庸な平民と見て間違いないな」
「私の使用人にしてよろしいでしょうか?」
「まあレベル差もあることだし、この程度のステータスならお前を害することも出来まい。好きに飼うがいい」
父はそれだけ言うと興味を失ったのか、自分の執務室へと帰っていった。相変わらずの数値主義に嫌悪感が止まらないが、そのおかげで彼を傍に置けるのだから、ここは飲み込まないといけない。
「ごめんなさい。ここの人達、あんなのばっかりなの」
「でもジュネは違うでしょ」
「そうね、そうだと思いたいわ。でも、おかしいところは言って。自分でも気付いてないことも多そうだから」
「うーん……男子がベッド下で寝てるのに、平気で寝息立てるところとか?」
「叩かれたいの?」
ヒソヒソと話しながら廊下を歩く私達を見て、嘲笑している侍女たちが見えた。いや、嘲笑っているのはシュウに対してか。父の分析結果がここまで早く伝播するとは驚きだ。その割には昨晩の騒ぎには気付かなかったみたいだが。
「おい、レベル1。……おいっ」
私に対して後ろから声を掛ける無作法者は、この屋敷にはいないと思っていたけど、レベルが低い相手には例外なのだろうか。呼び止めてきたのは父の執事、セルジュだった。
「……え、俺ですか?」
「他に誰がいる」
レベル1。まさかそれを彼のあだ名にするつもりか。
「旦那様より、お前に使用人としての仕事を最低限教えるようにとのご指示を受けた。気は進まないが、お嬢様にご迷惑をお掛けするわけにはいかんからな。拒否はさせんぞ」
「……ジュネ、様。俺はどうしたらいいですか?」
父は私に恩を着せているつもりなのか、それとも娘のペットを躾けているような感覚なのか。正直言って何を考えているかは分からないが、提案内容としては悪くない。
「仕事を覚えれば、貴方もこの世界でお金を稼げるようになるわ。この機に頑張って学んで頂戴」
「は、はい!がんばります!」
「お願いね。それよりも……セルジュ!!」
しかし、こっちに関しては看過できない。
「は、はい!?なんでしょう、お嬢様!?」
どうして私が怒ってるのか、いい齢した大人がわからないのか。これだから、人をステータスでしか見ない連中は度し難いのよ。
「彼の名前は"シュウ"よ。もし彼のことをまたレベルで呼んだら、私も貴方たちの名前を忘れることにするわ」
「で、ですがお嬢様!今どき平民の幼児でもレベル3ぐらいは普通で、レベル1なんて彼以外には誰も――」
こいつ、私の言っていることがまだ理解できないのか。こいつの"賢さ"は屋敷の中でも上位だったはずだ。やはりステータス値なんて、何の役にも立たない。
そもそも令嬢の使用人候補を馬鹿にする時点で、この男が賢いはずがないのだ。
「まだわからないの?私は自分の使用人に貴方ではなく、シュウを選んだの。私にとってシュウの代わりは居ないけど、レベル15の代わりは探せば幾らでもいるのよ。……周りで笑ってた貴女達もそうよッ!もしレベル1の子供よりも仕事ができないと査定されたら、相応の給金が用意されるものと覚悟なさいッ!!」
何を言われているのかようやく理解できたのか、レベル15以上の無能達は何度も頭を下げてから、逃げるように去っていった。給金を下げる権利なんて私にはないが、良い牽制にはなっただろう。
「……ジュネ、ごめん。さっきから俺、君に守られてばかりだ」
「それだけ貴方には価値があると思って頂戴。それよりお仕事頑張ってね。立派な使用人になってくれたら、私も嬉しいから」
「うん!俺、頑張るよ!」
その日から、シュウは使用人見習いとしての勉強を始めた。私もシュウに付き合えるところは付き合った。
護身術としての剣を二人一緒に習い、シュウがまだ買えない勉強道具も共有した。寝る時以外は同じ空間、同じ時間を過ごした。
遅くにできた幼馴染みたいな、奇妙だけど心地よい関係。
それは唐突に始まった日々だったけど、毎日を暗鬱として過ごしていた私にとっては、掛け替えのない宝物だった。
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シュウと出会って一年。使用人としてはそこそこ……ううん、まずまず……とにかく色んなところに目を瞑れば使えな……くもないようになってきたけども、相変わらずレベルは1のままで、魔法も一切覚えられなかった。こればかりは才能がものを言う部分も大きいので仕方ない。
それに勉強の結果が振るわなかったとしても、15歳で迎える神託と呼ばれる儀式に参加すれば、女神よりスキルを賜ることがある。【魔法使い】の適正を得ることが出来れば、その場で複数の魔法を得ることも出来る……かもしれない。魔法が身に着かない以上、望み薄と分かっていてもそれに賭けるしかなかった。
ただ……シュウはとても残念がったけど、私は内心ほっとしていた。だって彼が元の世界に戻った時、魔法が使えるようになっていたら、きっと大変なことになる。シュウの世界を魔法で汚すことになるんじゃないかって、ちょっと怖くなっていた部分もあった。
一方で魔法習得の見込みが無いと見るや、セルジュや侍女の指導は苛烈さを増していった。
「シュウ、お茶の時間に遅れるぞ!急げ、未熟を理由にお嬢様を困らせるな!」
「はい!ただいま伺います!」
「15時の紅茶葉はこれじゃなくて、右から三番目の茶葉よ!早く交換して!」
「すみません!」
あの日以来、セルジュとその部下たちが表立って彼を嗤うことは無かった。しかし1年経ってもまだレベル2になれないからか、どこか見下した態度を取り続けているようにも見えていた。
仕事の覚えが悪いとぼやく彼らに、激しい憤りを覚えることもあった。だけど――
「……頑張って、シュウ」
残念ながら、それら全部を正すように指導することは出来ない。彼らは私の部下ではなく、あくまで父の部下であり、父は魔法とステータスの信徒だった。それに給金が父の金庫から出ている以上、勤務態度に対して過度に干渉する資格もなかった。
「遅い!!物の配置を把握していないから準備に時間がかかるんだ!!目を瞑ってても道具の場所がわかるようにしておけ!!」
「申し訳ありません!!」
「こら!もっと手際よく、丁寧に運びなさい!!カートを使い分けろといつも言っているでしょう!!グズはグズなりに頭を使いなさい!!雑な仕事のまま一人前になれると思わないで!!」
「はい!!」
何よ、一々小煩いわね。そんな細かいところ、私は気にしな――
「ちゃんと手を洗ってからカートに触れといつも言っているだろうがーー!!色々付いた汚い手でお茶を運ぶな、不潔だ!!今すぐ洗ってこい!!」
「ズボンで手を拭いては駄目と何度言えば分かるの!?いい加減ハンカチを使うことを覚えなさい!!前に渡したハンカチはどこへやったのよ!?」
「はいいいい!!すみませんんん!!!」
………こま……かいわけでも、ないのかしら?
「……レベル2は、遠そうね……」
――だけど彼らは、シュウを侮りはしても仕事を怠けたりはしなかった。
「……ふん、まあ先月よりはマシな味だな。侍女長はどう思う」
「ほんとですか!?」
「基礎は出来てますが、まだ茶葉に対する知識が足りません。シュウ、この茶葉は少し熱めの湯じゃないと香りが立たないのよ。ポットを貸しなさい、手本を見せるわ」
「は、はい!」
叱責はしても暴力は振るわず、褒めるときもレベルを引き合いには出さなかった。指導の領域を超えて、シュウを追い込むような真似はしないでくれていた。
今思い返してみればの話だが、ステータス至上主義の中で育った彼らなりに、最大限私の価値観に寄り添ってくれようとしていたのかもしれない。もし彼らが私を気遣っていなかったなら、彼を叱る時にもっとステータス値で嘲笑っていたはずだから。
当時の私はそのことに気付かず、ただ理不尽に怒鳴られているシュウを痛ましく思い、執事や侍女たちに苛立ちを覚えていた。シュウの主人であることに対して、過度なプライドと傲慢があった。
それだけ、彼との時間を守りたかったのだと思う。あるいは私以外の人から色々と教わる彼を見て、独占したい気持ちが強くなっていたのかもしれない。
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12歳になってからは、護身術の訓練も本格的になっていた。指導役は執事であるはずのセルジュが兼務している。私とシュウに本格的な指導は必要ないだろうという、父の采配だった。
ただし、父の采配が常に正しいとは限らない。セルジュ流の訓練は、とても執事のものとは思えないほど厳しいものだった。後から知ったのだが、セルジュは子供の頃、ジャンメール家の兵士長を目指していた時期があったのだという。残念ながらスキル適性が【執事】だったので、諦めざるを得なかったのだが。
「では、素振り100回で今日の稽古は終いとします。お二人共、はじめ!」
「1っ、2っ、3っ、4っ」
護身術の稽古では、シュウの素振りに合わせて、私も刃を潰した鉄剣を振るう。流石にカッツバルゲルではなく片手剣の両手持ちだが、それでも女子供の手で振るのは最初かなり辛かった。素振りの後で痛みを感じなくなるまでに、手の皮を3回ほど張り替える必要があったほどだ。今でも薄皮が剥がれては、侍女長の回復魔法で治してもらっている。
だが一方で、父の命令によって回復魔法を使ってもらえない平民の方が早く手が出来上がっていた。回復魔法は自己治癒力の促進だと考えられているが、もしかしたら別の作用が働いているのかもしれない。それを解明する知識は残念ながら私には無かったし、誰もその点に疑問を抱いてはいなかった。
そもそも何故私達が魔法を使えるようになったのか、その起源すら解明されていないのだ。女神の慈悲であるとされているが、それなら魔物や魔族は何故使えるのか。いずれ勇者が討伐すると噂される魔王も、私達と同じ魔法を使うのか。それさえもわかっていない。成り立ちも、仕組みもよく理解できていないまま、私達は魔法を使って便利な生活を送り、ステータスという明確な数値だけで人の価値を判じてきたということだ。
同時にそのお陰で発展できた側面もある。魔法やステータスと共に刻んできた歴史のお陰で今があり、軽視はできない。貴族教育が進むにつれて、私もそう考えざるを得なくなっていた。
どっちが正しいのだろう。やっぱり私が間違っているのだろうか。世界に対する不信感と敬意が綯い交ぜになって、小さな頭は爆発しそうになっていた。
……彼は、どう思っているのだろう。何かを求めるようにふと横を見ると、雑念だらけの私と違って一心不乱で素振りに集中する姿があった。
いつだって、彼は一所懸命だった。
「30っ!31っ!32っ!」
すぐ横の少年は魔法に頼らず、レベルも上がっていないというのに、見違えるほど逞しくなっていた。外で働くことも多い彼の肌は薄っすら小麦色に焼けていて、大人用の鉄剣を私と変わらない速さで振り続けている。素早くキレのある素振りによって、流れる汗が光り、そして弾けていた。
その時になって初めて、2年という月日は、彼を少しずつ大人にしているのだと知った。
「……背、伸びたね」
「え、なに?」
「ううん、なんでもない。33!34!」
毎日見ている光景のはずなのに、何故か気になって仕方なくなっていた。目が離せなくなっていた。目が離せないのに、目を合わせるのが時々とても恥ずかしかった。
「99っ!100っ!」
気が付けば、あっという間に100回を振り終えていた。どうやら私の体力も、順調についてきているようね。
「よし!それまで!お嬢様もそろそろ型の練習に入っても良さそうですね。それとシュウも、剣筋が見れるものになってきたな。これなら護身術どころか、お嬢様の護衛も目指せるんじゃないか?」
「本当ですか!?」
「ああ。レベル1のままだというのに、大したものだな……あっ!こ、これは!?」
しまった!という顔を隠さないセルジュに、不思議と頬が緩んだ。
「今のが皮肉じゃないことくらいわかるわよ。でも実際、不思議だわ。確かに力の値は伸びてないのよね?」
彼のステータスを確認するとき、私は〈分析〉を使わない。あの不快感を彼に強要するのは、絶対に御免だった。
「〈情報開示〉。……ええ、俺のレベルは1のままですね。力も初期値のままです。セルジュ先生、何かわかりますか?」
彼がセルジュを先生と呼ぶようになったのは、いつからだろう。何かと不出来な部下を怒鳴り散らす無能という印象が強かったが、意外と面倒見の方は良いらしい。
「ステータス値が同じでも、膂力差が生まれることはあるぞ」
「あら、どういう時に?」
「私は専門家ではありませんので詳しくはわかりませんが、一説によるとステータス値というものはあくまで上限値に過ぎず、さらに言えば実力が上限値に至っているとは限らないそうです」
「何よそれ。じゃあステータス値なんて最初からアテにならないじゃない」
そんなあやふやな値を神聖視するなんて、この世界は本当にどうかしてるんじゃないか。
「上限値が分かれば十分です。潜在能力を測れますから」
「じゃあ例えば俺と先生が腕相撲して勝ったら、先生の潜在能力がいくら高くても、実力は実質レベル1以下ってことになるんですか?」
「お、お前は……!」
セルジュから一瞬だけ怒気が溢れたが、シュウの目に一切の嘲笑がないのを確認すると、巨大なため息と共にそれを吐き捨てた。
「……ああ、そうなるんじゃないか。よかったな。それで、なんだ?先生を馬鹿にして楽しいのか?ん?」
「い、いえ!ていうか、すみません!俺、今とんでもないこと言いましたよね!?」
「ああ、わかってるわかってる。罰として素振りを追加500回と片付けだ。一人でな」
「ゲェッ!?」
「ふふっ……今のは貴方が悪いわ、シュウ。先生の言いつけを守りなさい。先に部屋へ戻ってるわよ」
ショボンとしたシュウはすぐに剣を握り直し、また1から数え直し始めた。セルジュはそれを鼻で笑うと、監督するつもりはないのか、私と並んで稽古場から出た。どうやら見ていなくてもやりきると、お互いに信じているらしい。
いつの間にか随分と信頼しあっているのだなと感心していたが、扉を閉めた直後に彼の口から出た言葉は、無視できない重さを伴っていた。
「……お嬢様、お耳に入れておきたいことがあります。しかしどうか旦那様と、シュウのやつにはご内密に」
「……何かしら?」
彼が私だけに秘密を求めるのは、これが初めてだ。
「先程の話です。お嬢様の言う通り、彼の膂力は初期値のそれではありません。おそらく既にお嬢様よりも遥かに上です。しかしお嬢様とのレベル差を考えると、仮にスキル適性が戦士であっても、実力差の説明が付きません。ステータス値に男女比は考慮されませんから」
私の当時のレベルは15。レベルの割に非力な部類ではあるものの、それでも力の数値は彼よりも10以上上回っていた。
「驚いたわ……」
「何にですか」
「貴方がそこに気付いたことによ」
一日に二人の子供から小馬鹿にされたと感じたのか、彼の顔が渋くなった。
「心外ですな。これでもお嬢様に次ぐほど、彼を見てきたつもりですぞ」
「そう思われても仕方ないくらい、貴方達はレベルしか見てこなかったじゃない」
「……返す言葉もありませんな。しかしやつと貴女を同時に稽古していれば、嫌でも違いには気付きます。あの剣筋は技術だけでは成し得ません。どう考えても彼は数値以上の膂力があります」
「まあ!やっと貴方もステータスなんて飾りだと理解したのね!」
「いいえ」
ちょっと見直したと思ったらそこは即答だったので、思わず鼻白んだ。ここまで判断材料が揃っているのに、まだステータスを信じているなんて。
「が、頑固者!石頭!ステータス教!」
「そうではありません。お嬢様、彼のレベルはいくつですか?」
「だから、1なんでしょ!?稽古場でも確認したじゃない、まだそんなことにこだわっているの!?」
「……その前提が間違っているのかもしれないのです」
それはステータスを信じていない私でも気付けないことだった。あるいは彼の場合、私よりも魔法とステータスを信仰していたが故に、逆に気付けたのかもしれない。
「彼はレベル001です。我々と異なり、力や賢さも同様、頭に0が付いています。もし0の先にまだ数字が並ぶとするなら……一体彼のレベルは、幾つなのでしょうか」
稽古場から、彼が150の数字を叫ぶのが聞こえてきた。既に合計250回以上続けて振り続けているのに、彼のペースと風切り音は一切衰えていない。
鳥肌が立った。月のものを看破された時とはまた別の、強烈な寒気とともに。
「……レベルが1001を超えているかもしれないとでも言いたいの?」
「あくまでも仮説です。しかしやつの力が、既に初期値から大きく外れているのも確かなのです。救いがあるとするなら、シュウのやつにその自覚がないことですが、それもいつまで保つかわかりません」
「…………恐れ過ぎよ」
そう言った私の声は、掠れてはいなかったか。しかしその後に流れ出た言葉に、迷いは無かった。
「もし本当に千や万を超える数値を持っていても、そんな簡単に上限には達しないわ。それくらい途方も無い数値だもの。だったら今の彼は底力を計測できないだけで、今までの彼と何も変わらないわ。努力をした分だけ強くなっている……それは、人間として普通のことじゃないの?」
もし本当にシュウが私の100倍近い力を持っているとするなら、取っ組み合いの喧嘩をした日に私は絶命していたはずだ。私が原型を留めていること、それ自体が彼の安全性を証明している。
「……レベルがいくら上がろうと、シュウはシュウよ。それでいいじゃない」
そんな風に考えてしまう私を、彼は嫌わないでくれるだろうか。
「ええ、おっしゃる通りかもしれません。実は私もそこはあまり心配していないのです。しかしお嬢様、ステータスの中で2つだけ、努力とは関係なく実力と上限値が同じものが存在します。私が恐れているのは、むしろそちらなのです」
「……努力と、関係なく?……まさか!?」
今度の鳥肌は、目眩を伴った。
「……そう、HPとMPです。私の懸念が正しければ、彼のHPは015……つまり少なくとも累計ダメージが1015、あるいは10015かもしれませんが、それ以上を超えなければ、死ねないのです。MPを使う術はありませんが、ほぼ無尽蔵に吸い出すことなら出来ます」
――歴史上、最も大きなダメージとして記録されている数値は500だ。その戦士は魔物の一撃によって下半身を失ったのだが、幸か不幸かHPが僅かに残っていたため、直ちに魔法処置を施したことで蘇生に成功している。
もちろん、腰から下も全て元通りに出来たのだが、あまりに強いショックを受けたためか、その戦士は蘇生後も廃人同様になってしまっており、二度と正気を取り戻すことはなかったという。
そんな500ダメージを2回続けて受けても、シュウは死ねないのかもしれないのだ。恐らく首だけになってもしばらく生き続けてしまうだろう。死にたいと願ってもHPが0にならない限り、死ぬことを世界が許さないから。
そしてMP吸収魔法の方は……たとえ100程度の吸収量でも、死にたくなるほどの不快感を伴うという。通常ならMPが0になった時点で狂死するというが、彼の場合はMPが無尽蔵なのでそれすらも叶わない。
死ぬほどの不快感を10回、あるいは100回を超えて喰らっても狂死すら許されず、正常な精神のまま、ほぼ無制限に心を削られ続けることになるのだ。
「そんな……!そんなことが!?どうしてシュウなの!?シュウが何をしたのよ!?」
「お嬢様、落ち着いてください。……よろしいですか、この件は絶対に、旦那様とシュウに知られてはいけませんぞ。旦那様が最も欲しいものは、高いステータスと、ご自身が魔法を使うためのMPです。そんな旦那様がシュウをどう扱うか、想像するのも恐ろしい……」
「……セルジュ……もしかして、あなたは……」
「そして、どうあっても死ねないことを悟ったシュウ自身が、その無尽蔵の生命力で何を仕出かすのかもわかりません。人は心から裏切られた時、何をするかわからないものです。魔法も、ステータスも関係無く、人の心とはそういうものなのですよ」
セルジュの声には憂いと畏怖がたっぷりと含まれていた。恐ろしい未来……考えうる最悪の結末を語った彼だが、ここに来て一つ大きな矛盾を抱えている。
それは――
--------
「どあー!疲れたー!全くあのおっさん、人をなんだと思ってるんだ!あれは鬼だ、鬼!」
私の部屋に入って早々、使用人見習いは私のベッドに倒れ込んでいた。彼と過ごしてまだ一年しか経っていないが、二人だけの秘密を共有しているからか、変な仲間意識みたいなものがある。それが、お互いから遠慮を奪っていた。
「おっさんじゃなくて、先生でしょ。ていうか、私のベッドを汗臭くしたら怒るわよ?」
「ジュネまで俺を不潔扱いするの!?しっかり水浴びしたから汚くないって!ていうかジュネと二人きりの時くらい素顔でいさせてくれよ!くそー訓練の締めにカッツバルゲルで素振り650回とか、冗談じゃないよったくー!絶対明日筋肉痛だよ!いつか演習でボコボコにしてやる!」
他の誰にも見せない、少年そのものの彼の姿に、私の中にあった憂慮が少しずつ薄れていった。眼の前にいる彼は、世界から見ればレベル1001を超える怪物なのかもしれない。やろうと思えば、いつでも私を害することができるのかもしれない。
でも、そんなの関係ない。やっぱりシュウは、シュウのままだ。何度も喧嘩して、仲直りして、時に肩を貸しあった友達じゃないか。今まで大丈夫だったんだ、きっとこれからも大丈夫。
それに――
『……セルジュ。そんな危険な彼に、どうして貴方は稽古をつけてくれているの?旦那様にこの事を話せば、きっと貴方の地位と給金は盤石になるというのに。それに今の状況は、旦那様を危険に晒していることになるんじゃないの』
『そうですね……私も何故そうしないのか、自分でもよくわかりません。ただ……』
『……ただ?』
『やつがもう少し可愛い性格をしていれば、ここまで本気で色々教えたりはしなかった気がします。生意気なガキですが、男として友人を持つとするならば、意外とああいうのが一番よかったりするのですよ』
――ステータスに縛られた彼の心を動かしたシュウが、力を悪事に使うことはない。なんの根拠も無かったけども、そう信じてみたいと思った。
「ねえ。シュウは大人になったら、どうしたいの?」
「え、何だよ急に?……うーん……大人になる前には、元の世界に帰りたいかな。親父と母さんも心配してるだろうし」
……そっか。それは、そうだよね。
「でも、こっちでの生活も楽しいんだよな。ジュネもいるし、おっさんもああ見えて結構面白いしさ。だから、もしこっちで大人になるんだったら……その……」
「……大人になるなら?」
彼はちょっとだけ恥ずかしそうにしながら、頭を掻いていた。
「す、好きな女の子と、ずっと一緒に暮らせたらいいかなって……変かな……?」
それはもったいぶる割には、平凡な夢だった。というより彼のそれは夢ではなく、人生設計といってよいものだった。
同じ年代の子供とは思えない妙に現実的なプランに、私はついつい笑ってしまった。
「……ぷっふふふ!あっははは!なによそれ、普通の家庭を築きたいってこと?男の子なのに、意外と夢がないのねー」
この時、心の底からホッとしたのを覚えている。当時は何に対しての安堵かわからなかったけど、今ならなんとなく分かる気がする。
「ふ、普通でいいんだよ、普通で!どうせ俺は頑張ってもレベル1のままだし!身の丈に合った生活ってやつで良かったりするの!」
私はきっと、怖かったんだ。もちろん、彼のレベルにではない。
「ぷ!?ふ、ふふふ!ねぇ、その言い草、セルジュの影響を受けてるんじゃない?」
「お、おっさんの影響を受けている!?この俺が!?ま、まさか、いやでも……あ……!〜〜〜っ!つ、疲れた!俺はもう寝る!おやすみ!」
「は!?ちょっと、そこ私のベッドよ!使用人のくせにご主人様のものを使うんじゃないわよ!おい、こら!起きろーー!!」
彼がずっと遠いところに行ってしまわないかって、すごく不安だったんだ。
――そして、さらに年月は流れた。
--------
それから3年。私とシュウが15歳を迎えた日に、転機は訪れた。貴族令嬢なら避けては通れない通過儀礼……婚約の顔合わせである。
「まさかジュネと結婚したい人が現れるなんてなー」
この頃のシュウと私はすっかり親友というか、ちょっとした悪友のような関係になっていた。お互いに皮肉を言い合って、お互いに気持ちよく嗤い合う、そんな奇妙な関係に。
使用人修行の方も、一年前にギリギリ合格を貰えている。そんな彼は皮肉を言いつつも、お茶を淹れる手を止めていなかった。
「趣味が良いのか悪いのか」
「趣味が悪いとしたら、勝手に婚約を決めた両家の父ね。先方は私じゃなくても、ジャンメール家と結婚出来ればそれでいいのよ」
「なんだよそれ。じゃあジュネに妹かお姉さんがいたら、そっちでもいいってことか?」
「家同士のパイプが繋がるならね」
ただしお目当ては家の土地や富ではない。もっと高尚で、崇高で、かつ下らないものだ。
「それが貴族の常識ってやつよ。あちらとこちらでレベルとステータスも釣り合うし、身分も同格なの。ま、悪くない条件ってとこね」
そんな下らないもので、世の中がうまく回ってしまうのだから面白い。伊達に何百年もそれで歴史を刻んできた訳ではないということだわ。
「ふーん……悪くない条件、か」
「何よ?言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
「ジュネが婚約を受け入れているのが意外でさ。魔法とステータスは否定するのに、貴族の常識は受け入れるんだなと思って」
胸の何処かで痛みが走った。彼の指摘は、私が幼かった頃なら絶対に認めないことだったから。
だけど15歳にもなれば、少しずつ現実を受け入れるしかなくなってくる。個人的に魔法とステータスを嫌っていたとしても、それと家の存続を天秤に掛けた時に、どちらを優先すべきかなんて論ずるべくもない。
論ずるべくもないと思ってしまうくらいには、私も世界を認め始めてしまっていた。一人で反骨し続けることに、疲れ始めていた。
「ジュネも大人になったって訳か」
彼の声には感情が乗ってなかった。淡々と事実確認をしているだけに聞こえる。それが妙に腹立たしく、そして不安にさせた。
「……貴方こそ、さっさと結婚相手を見つけなさいよ。平民でも貴族の使用人なら割と高給取りなんだし、引く手あまたじゃない」
「俺はまだ良いんだよ、好きな子と一緒になれればそれで」
「あっそ、子供の頃の夢を大事にしてるみたいで結構だわ。で、その好きな子はどこにいるのかしらね?未だ私はお目にかかったことがないけど?」
「探せばどこかにいるよ、きっと」
「なにそれ」
シュウの口ぶりは軽い。いつもの軽口、いつものジョークにしか聞こえなかった。だけどこの時は、私の方が少しおかしかったのかもしれない。
「……それで?慣習に従わない場合はどうするのよ」
「どういう意味だよ」
「いいから貴方の考えを聞かせて。私にどうしてほしいのかしら?」
当時は自然体のまま喋っていたけど、言っていることは意図不明だった。今思い返しても、何故こんなことを口走ったのかは分からない。
ただ、この時はそれを聞きたくて仕方が無かったのだと思う。それはきっと、私と彼が、同じ答えを持っていたから。お互いに同じ答えを持っていることを、確認したくて仕方が無かったからだ。
「……」
「…………っ」
心臓の音がうるさいと感じたのも、その日が初めてだった。
……見つめ合ったと表現するにはあまりに短く、それでも充分以上に重苦しい時間を破ったのは、彼の方だった。
「俺の世界じゃ、お見合いする方が珍しくなってたんだよな。お互いに好きな人同士で結婚してたよ。両親もそうだった」
いつも通りの優しい声。だけど、私の質問にはちゃんと答えてはくれなかった。
「恋愛結婚ってこと?別に禁止はされてないし、平民同士ならよくあるわね。貴族では珍しいとは思うけど」
ううん、それが答えだった。
「そっか、珍しいのか」
それが、当時の私たちに出せる、精いっぱいの答えだった。
「ええ」
それ以降、私と彼がこの話題に触れることは無かった。私の胸に残されたのは、寂しいような、苦しいような、表現しがたい居心地の悪さ。今すぐこの場から逃げ出して、身分も何もかも捨てて自由になりたいと、喉を掻きむしりたくなるほど息苦しくなっていた。
何故か、早く結婚して楽になりたいとは、思わなかった。
「……そういえば貴方も神託を受けるのよね?15歳になったら、異国からの平民でも強制参加だったはずよ」
「神託って、スキル適性を調べてもらうやつだっけ。気が進まないなぁ……どうせレベル1ってだけで周りに笑われるんだろうし、サボろうと思ってたんだけど」
「情けないわね、もっと堂々としてなさいよ。いっそ教会のど真ん中で、奇跡のレベル1爆誕!史上最強のレベル1にして最弱の15歳!!とでも叫んでやればいいじゃない、ダメ元で。私も隣に付き添ってあげるからさ」
「お嬢様。それはダメ元ではなく、ただのダメです。お考え直しください」
「……急に使用人モードに入らないでよ。恥ずかしくなるでしょ」
いつもの軽口。いつもの嗤い合い。なのにどうして、こんなに息苦しくて、辛くて、切ない気分になるのだろう。どうしてこんなにも、彼を離さないでいたいと思うのだろう。モヤモヤとした胸の内と、まともに纏まらない頭の中が、不安という形を取りながら増大していくのを感じていた。
「神託……か。気が進まないな……」
もしかしたら、彼とのお別れがすぐ近くまでやってきていることを、私自身予感していたからかもしれない。
--------
婚約者様との初顔合わせは、ジャンメール家の屋敷で行われた。理由は簡単。お互いに身分は同じだけど、相手の父親よりも私の父の方が、合計ステータス値でやや上回っていたから。
「やあ、ジュネ・ジャンメール嬢!はじめまして!リューブル伯爵家の長男、ハンク・リューブルと申します!」
ハンク様は……元気な人だった。そのせいかやや素朴な印象を与えつつも下品に見えないのは、彼の身だしなみと所作がしっかりしているからだろう。声がやたら大きい以外はマナーも完璧。貴族の中でも優等生、というより私なんかにはちょっともったいない人だと思った。
「……お初にお目にかかります。ジュネ・ジャンメールです。まずは自己紹介を――」
だけどその好印象は、一瞬にして崩れ去った。
「いえいえ、それには及びません!〈詳細分析〉!」
「ッッ!!」
私の臓腑まで深々と、そして隅々まで魔力が染み渡るのを感じた。
服も、肉も、骨も暴かれていくようなおぞましさ。
それはあの日、父に秘密を暴かれた時以上の――
「ふむふむ、よくわかりました!さあ、ジュネ嬢も私を分析なさってください!お互いにステータス値も近く、きっと明るい夫婦生活を送れることが予感できるでしょうから!」
頭が痛くなるほどの不快感が、強烈な吐き気と共に復活した。腹からこみ上げてきたものをゴクリという音を立てて飲み込み直したが、先方がそれをどう受け取ったかは分からない。少なくとも、肯定的にとらえているようだった。
本来なら、それは相手の人柄の良さを示すものだろう。貴族の中で言えば善い人に違いないのだ。でもその善意は、私にとって――。
「はっはっは!君は面白いな、ハンク君。ところで君の<詳細分析>は、ずいぶんと消費MPが少ないように見えるな――」
「なんと、無詠唱で分析を使えるのですか!これは恐れ入りました!ええ、あれは私の得意なスキルでして、通常の詠唱ではなく――」
「そんな方法でMP消費低減していたのか!君は本当に素晴らしいな!もしや君こそが、5年前に転移してきたはずと噂される勇者様ではないのかな?」
「いやいやいや、ジャンメール伯もお上手ですね!もしそうなら、伯爵は勇者の義父上ということになりますよ!ハッハッハ!」
「…………っ!」
初顔合わせを終えた後、私は顔を青くしたまま居室へと戻り、激しく嘔吐した。腹に何も入って無いので、胃液や茶くらいしか出てこなかったが。
その背中には、逆に顔を赤くした使用人の手が添えられている。
「ジュネ、大丈夫か」
「……ええ。床を汚して、ごめんなさい」
「拭けばいいだけだよ。それよりなんなんだ、あの軽薄な男は!ジュネに断りもしないで、いきなり分析しやがって!」
本当にそのとおりだ。全くもって笑えない。
「落ち着いて。あれが貴族の普通なのよ。自己紹介の手間を省くことが、相手に対する心遣いだと信じられているの」
「なんだよそれ……!?馬鹿げてる!結婚ってのは、もっとお互いを大事にするもんじゃないのか!?」
全くの正論だわ。私も同感よ。
「違うわ、家同士を繋げるために結婚するの。大事にするのはお互いの家であって、結婚する当事者同士じゃないわ。むしろハンク様は、私を気遣ってくれてたでしょ。一般的に見れば、愛のある生活を送れる条件はそろっているわ」
「ジュネはそれでいいのかよ!?貴族の常識に従うって、そういうことなのかよ!」
良い訳がない……!
「……良いかどうかの問題じゃないわ。この世界では、より多くのスキルと、より高いステータスを持っていることが全てなの。そしてより高いステータスの男女が結婚して、より強い子供を残して、家を繁栄させていくことが、正義なのよ」
喉から飛び出そうになる本音を必死で飲み込み、努めて冷静に返したつもりだったけど、それが却って彼の怒りを高めてしまったらしい。彼は私の肩を優しく抱きつつ、しかし怒気を抑えることが出来ずにいた。
「ステータスがなんだってんだよ、馬鹿馬鹿しいッ!こんな数値が生きてく上で何の役に立つってんだッ!!こんな結婚は――」
その直後、扉の外に人の気配を感じた。まずい、私を心配した誰かが追ってきていたのか……!?
「言葉が過ぎるわよ、使用人風情がッ!!」
「ジュネ!?」
「ただの平民である貴方に、私の結婚に意見する権利は無いわ!身の程を弁えることね!!」
私の怒声を浴びた彼の顔は、私以上に青褪めていたかもしれない。それを見るのが辛くて、私は彼を無理やり抱き寄せて、その胸の中に自らの顔を埋めた。
出会ってから5年という月日は、彼の身体を私よりも遥かに大きくしていた。
「……扉の外に、誰かいるわ。侍女かもしれない」
「えっ?」
「この話を誰かに聞かれたら、貴方の立場が危うくなる。お願い、こらえて……!」
「ジュネ……」
胸板の温かさで溶かされた心が、堪えきれずに目から溢れ出していた。
「い……嫌よ……嫌に決まってるじゃない、あんなのと結婚なんて……!でも、どうしようもないの……!これが、この世界で結婚するってことなのよ……!」
血の滴るような声と流れ落ちた涙は、外に漏れることなく彼の胸の中に消えていった。
「……こんな世界、大っ嫌い……!」
世界の仕組みを、人間の手で曲げることなんて出来ない。ましてや人々の規範であらねばならない、貴族である私に出来るはずが無かった。私にできることなんて、世界の片隅で愚痴を吐き続けることだけだ。
悲壮感が強すぎて、私の意思と関係なく涙が流れ落ちていく。喉の痛みが強くなり、しゃくり上げることしかできなくなった。やはり私みたいな人間は、この世界のはみ出し者に過ぎないのだろうか。
「……なあ。俺がこの前、女神の声を聴いたって言ったら、どう思う?」
「……無意味な質問だわ」
「いいから、答えてくれよ」
「だから、なんなの?そんなこと、どうでもいいわよ……もう……どうだって……っ!」
「俺が、全部なんとかするよ。神託を受けて、ジュネがもう、泣かなくていいようにするから。だから――」
だから、俺の話を聞いてくれ。
そう言った彼は、無感動に、しかし私にも負けない大きな悲壮感とともに語りだした。
女神より託された任務と、世界の残酷な真実を。
--------
初顔合わせから数日後、私と彼は、城下町の教会で神託を受け入れた。私のスキル適性は、やっぱり【魔法使い】。神託を受けたと同時に、今まで知らなかった魔法やスキルが、次々と私のステータス画面に刻み込まれていく。訓練の成果によって他の貴族令嬢よりもレベルが少し高かったためか、習得したスキルの数とレア度は今日一番のものだった。
「よくここまでレベルを上げたな。偉いぞ、ジュネ」
父は満足そうに笑いながら私の事を褒めてくれた。……嬉しくなかったと言えば噓になるが、相変わらず分析結果画面しか見ていないことを再確認させられたようで、複雑な気分になる。
そして、彼の番がやってきた――
「こ、これは……!おお、女神よ……!貴女様は、我々を見放してはいなかったのですね……!」
「如何した、神託の使徒よ」
「頭を下げるのです、伯爵殿!陛下もです!!か、彼の者は……彼の者の適性は、【女神の勇者】です!!か、彼こそが、5年前に姿を見せなかった、伝説の勇者その人です!!き、奇跡が起こったのです!!」
使徒が叫ぶと同時に、シュウの体が虹色に輝きだした。全方位から無遠慮な分析が飛び交う中、彼はそれを一顧だにしないまま泰然としていた。
私はそれを、ただ後ろから見ているしかなかった。
「……今まで何も知らせずに雌伏を続けてきたこと、心からお詫びする。しかしまだ幼い身では戦いに臨めず、魔王に見つかるわけにもいかなかった。神託が下りるこの日まで、皆に正体を明かすわけにはいかなかったのだ。……女神から魔王を滅する力を賜る、この神託の日まで!!」
それはまるで、生まれた時からずっと勇者だったかのような威厳だった。彼は堂々と、大仰な仕草でステータスを周囲に公開する。
そこにはレベル5001、5万を超えるHPとMP、そして1万を超えるどころではない膨大な各ステータス値と、女神より与えられし伝説級スキルの数々が表示されていた。
その全ての値は、3桁までであればレベル1相当と誤認出来る数値だった。まさに神の御業、世界を救う奇跡の所業と言ってよかった。
だが私の目には、女神が彼を死地へ送り込むために仕込んだ、偽装工作の痕跡にしか映らなかった。
魔王を倒す役目を彼だけに押し付けた女神に、初めて怒りと憎しみを抱いた。
……彼を救ってあげられない自分の弱さを、呪った。
「は……!?ば、馬鹿な……!!あの凡庸な平民が……ジュネの使用人に過ぎないガキが、勇者だとおおお!?」
「しかと見よ!これまで女神は周囲の目を欺くため、ステータス表記を3桁に抑えていた!だが女神の力そのものをこの身に刻んだ今、もはや雌伏の必要は無い!!俺は――」
「…………シュウっ」
一瞬だけ、私と彼の目線が交わった。彼の瞳は5年前に出会った時と同じく揺れていて、不安でいっぱいのようにしか見えない。私たちが出会ったあの日、訳も分からずこの世界に落とされた時と、同じ弱い瞳だった。
あの日と同じ、優しい瞳だった。
「……俺は、この圧倒的なレベルとステータスを行使し、魔王を討滅して世界を救う!!もう二度と、魔法で戦う必要の無い世界を作り上げてみせる!!みんな、俺に力を貸してくれ!!」
割れんばかりの歓声が教会の中を渦巻き、教会の外からも地鳴りに等しい歓声が上がる。
私はこの期に及んでも、ただ涙を流すことしか、出来なかった。
--------
シュウが【女神の勇者】だと知ってからの父は、終始上機嫌だった。普段よりも2倍の酒を飲み、3倍の肉を食ってなお、シュウへの称賛と歓待を止めようとしない。魔王との戦いに終止符を打つ男を保護していたという事実もあるので、無理からぬことかもしれなかった。
「旦那様、一つ大事なお話がございます。どうかお耳をお貸しください」
「なんだね、シュウ君!?うわははは!!勇者殿から旦那様と呼ばれるのは、なんだかこそばゆい気分になるな!おお、それで話とは?」
そう、大事な話だった。そして同時に、この時にしか話すタイミングは無かった。もしもこの時に父が酒に酔っていなければ、もっと違う未来があったのだろうかと夢想することがある。
「魔王を倒したら、魔法が世界から無くなります」
それは、この世界の残酷な真実の一端だった。
「うん?どういう意味かな?」
「魔法とは、魔王が世界に授けた、元々は存在しない力です。ステータス値も同様です。女神の希望は、世界から魔法とステータスを無くし、元の世界に戻すことなのです。この件は既に陛下にはご報告してありますし、間もなく布告もされることでしょう。ジャンメール伯爵も、魔王討滅後の統治について今すぐ考えていただきたいのです」
――シュウが魔王討伐へ向かうに当たり、必要なものが2つあった。
1つは国王陛下の理解。しかし一番困難だったはずのこれは、一番最初にクリアできている。もちろん何度も説明を求められたようだったが、シュウが魔法無しで発展した世界からやってきたという事実と、女神の意思に反して勇者を滅ぼした後のリスクを考えれば、元々飲むしかない条件だった。それに魔法と引き換えに魔王と魔物を世界から消せるというのは、国王から見ても割の良い取引だった。
2つ目は、父への説得。いくら国王が魔王討滅後の世界について説いたところで、地方領主がそれに向けて準備しないことには意味がない。戦後の混乱を考えれば他の領主よりも早く、それも今すぐ準備してほしかった。過剰なほど魔法とステータスに頼り、娘の声に耳を傾けない父を説得できるのは、絶対的なステータスを持つ勇者以外に他なかった。
何度も想像したものだ。この時、父がシュウの話に少しでも耳を傾けてくれていたら、どれだけ幸せで明るい未来があったかと。しかし想像の世界でいくら明るい未来を描いたところで、現実がそれに追いつくことは無い。
「わっはははは!!勇者殿は冗談のレベルも高いな!!魔法は女神の加護であり、祝福そのもの!!魔王を倒した暁には魔物も静まり、全世界が女神の力によってより強く、大きく発展するに決まっているだろう!心配には及ばん、勇者殿は魔王討滅に専念すればそれで良いのだ!わーっはははは!!!」
まさにこの瞬間をもって、ジャンメール領の未来は決定したと言って良かった。
--------
【女神の勇者】を保護し、立派に育て上げた偉大なる領主様は、実に多忙な日々を送っていた。そのスケジュールの大半は王城で勲章を授かったり、夜会で貴族たちからのインタビューに答えたりといった類のものだったが、勇者様の説得に耳を貸す時間が無くなったという意味では同じことだった。
そんなお忙しい父に代わり、私と侍女たちは魔王討滅の旅に出る勇者様の見送りをしていた。
「うっ……!ううっ……!!シュウ……げ、元気で、風邪なんかひいては、だめよぉぉぉ!!」
一癖も二癖もある侍女たちがそろって涙を流す中、あろうことか一番別れを惜しんで涙していたのは、セルジュと共に怒鳴り散らしていた、あの侍女長だった。
可愛い子にほど厳しくするタイプの人だったのだろうか。うちで働く人たちは誤解されやすい人間が多いようで、困ったものだ。
そんな困った人の筆頭であった男の姿は、なかった。
「まさかあの使用人見習いが、勇者様だったなんてね。全く完全に騙されていたわ」
「騙してたつもりはありませんってば。誠心誠意、お嬢様にお仕えしてましたし」
「ホントだわね。あはは……」
「……うん」
「……っ」
軽口が弾まない。あれが使用人の態度だったのかと、そう嗤ってやりたかったのに、口角が上がってくれない。
結局、それ以上自分を騙すことは、出来なかった。
「……ねえ、嘘って言ってよ」
「……ごめん」
また喉が熱く、目が痛くなってきた。
「……貴方が、勇者なわけ、ないじゃない。そうでしょう?」
「ジュネ……」
「だってあんな寂しそうな目をして……!初めて会った時だってそうだったじゃない!本当は怖いんでしょう!?戦いたくないんでしょ!?不安でいっぱいのくせに、強がって!!貴方みたいな臆病者が、勇者なわけないッ!!私は認めないわッ!!」
「言っただろ、俺はずっと前に女神の声だって聞いてたんだ。どうか世界を救ってほしい、女神の加護を宿した俺にしか倒せないって。だから、俺がやらないと――!?」
気が付けば、彼の頬を思い切り殴っていた。身長差があるせいで角度が合わなかったが、それでも確かにシュウの頬を打っていた。
「ふんっ……どうよ、勇者様。ただの魔法使いが放った一撃は、痛かったかしら?」
「ジュネ!!て、手が!?早く治療しないと――」
「痛かったかって聞いてるのよ!!」
右手から鋭い痛みが走り続けている。もしかしたら無理に殴ったから、どこか折れたのかもしれない。慌てて治癒魔法を掛けようとした侍女長の手を振り払って、折れてない方の手で無理矢理シュウの頭を引き寄せた。そして――
「……〈分析〉!!」
生涯最初で最後の〈分析〉を、彼に放った。
「……1ダメージよ」
「……っ」
「私の一撃は、たったの1ダメージなのよ。……どう、痛かった?」
「……痛かった。今までで一番痛かったよ。もう、二度と嫌だな」
「そう、すごく痛かったのね。でも、あなたは私の拳をあと5万回喰らっても、死ぬことが出来ないのよ」
彼の顔が強張った。
「わかってるの……!?貴方は死ににくいだけで痛みはあるのよ!!魔王は私よりもずっと強いし、きっと残酷だわ!!貴方の腕が飛ぼうが、脚が飛ぼうが、頭だけになろうと関係ないのよ!!痛くても、苦しくても、死ぬまで何度でも、貴方のHPが尽きるまで攻撃するに決まってる!!それでも行くって言うの!?」
「……うん、行く」
「そんな……どうして……!旅をしてれば、同じ人間同士で戦うことだってあるかもしれないのよ!?優しい貴方に人を殺せる訳ないじゃない!?」
「…………それでも、俺にしか出来ないことだから」
折れた方の手も彼の首に回して、思い切り引き寄せた。殴っても止まらないのに、こんなことで止まるわけがない。だけど、もうそんなことも分からなくなっていた。
「どうしたら、行かないでくれるのよ……!どうしたら思い留まってくれるのよ……!貴方を行かせたくないの……危険な目に合わせたくない、だけなのに……!」
彼が私に合わせるように、あるいは姫に忠誠を誓う騎士のように、片膝を付いた。
手の痛みよりも、喉と頭の熱さよりも、胸の痛みのほうがずっとつらかった。
「私のために行かないでって言ってるの!なんで聞いてくれないのよぉ!!」
この涙が止まる日なんて、来るのだろうか。
「うっ……ううっ……!行かないでよ……!世界のために、戦ってほしいなんて、私頼んでない……!」
「ありがとう、ジュネ。でも、これだけは聞けない。だけど約束するよ、絶対に帰ってくる」
「……友達に隠し事するような人のことなんて、信じられない!」
「ごめん。一生のお願いだから」
彼はちょっとだけ困った顔で、首を傾けた。
「駄目……かな?」
……男の子の上目遣いって、本当にずるいと思った。
「……駄目……なんて、言えない。言えるわけないわ。あの日、私も魔法を教える約束を果たせなかったもの。でも、貴方は約束を守らないと駄目だからね」
「それはあんまりですよ、お嬢様」
「使用人が口答えしないで。……さあ、目を瞑りなさい」
私は左手の指に唇を当ててから、その指を彼の唇に当てた。彼はその意味がわかったみたいだけど、終わるまで目は開けないでくれた。
「誓いの儀式よ。でもこれはまだ半分……無事に帰ってきたら、残り半分をしてあげるわ」
「……痛みが全部飛んでしまいましたよ。回復したか<分析>して頂けませんか?」
「絶対に嫌。確認してほしいなら、帰ってきた時に自分で<情報開示>なさい。……いい?本当に帰ってくるのよ。それまでは独身のまま待っててあげるわ」
「わかった。絶対に帰ってくる。だから、ジュネの方も」
「ええ、こっちは任せなさい」
そう、私にもやるべきことがある。今度こそ、彼との約束を守らないといけなかった。
これが、昨日までの出来事だ。
そしてこれからは、私も前を向かないといけないんだ。
横を向いても、もう誰もいないのだから。
この折れた右手に誓って、彼と私の未来のために。
「一人で旅立ちとは、随分と寂しいことになってるじゃないか。人望の無さの表れだな」
「やあ、先生。……まさか見送るのが恥ずかしくて、こんなところで待ち伏せを?」
「まさかだな。ほら、俺の背嚢も背負え。さっさと魔王倒して、お嬢様の下へ帰るぞ」
「は?はあああ!?お、重っ!?ていうかでかっ!?何入ってるんですか、これ!?」
「野宿用の道具一式、食料と水、あと金だ。ついでに俺の武器も全部入っている」
「じゃあほとんど武器じゃないですか!!ていうか、仕事はどうしたんですか!?」
「さっき退職届を雇用主の机に置いてきた。お忙しい様子だったのでな」
「……よろしかったのですか?」
「お嬢様には悪いが、俺には執事よりも勇者の下っ端の方が向いてそうだ。レベル15の年老いた従者じゃ、旅の途中でくたばりそうだが」
「……はっ!俺とジュネの先生を死なせてたまるかよ!よーし、じゃあ行くとしましょうか!異世界転生勇者が女神のチートで最強無敵ってところ、世界中にとくと見せつけてやる!」
「はいはい、わかったわかった。じゃ、レベル5001の最強勇者様には、今日から素振り5000回からスタートにするぞ。一日ごとに100本増やすから、なる早で旅を進めることだな」
「ゲェッ!?」
――いってらっしゃい、シュウ。私、待ってるから。
--------
春の花が散るのを見送り、夏の暑さに耐え、秋の彩りにあの日を思い、冬の寒さに友の旅を憂う。そんな儚い日々を私が送ることになるなんて、夢にも思わなかった。絶対に似合わないと思ってたもの。
16歳になった私は、彼らが旅立った後もセルジュ流の厳しい稽古を一人続けた結果、非戦闘員としては異例のレベル20に達していた。セルジュよりもレベルが高くなった理由は、年若い内に経験値を多く獲得出来たかららしい。この辺の仕組みは、私にもよくわからない。
それに興味もなかった。私にとっての訓練とレベル上げは、ここでセルジュに習いながらシュウと過ごした日々を思い出す為の、自慰に過ぎなかったのだから。
ただ、そんな自慰行為でも続けた意味はあったらしい。
「今日も訓練ですか、ジュネ嬢!流石、自己研鑽に余念がありませんね!」
それは毎日の日課である素振りとシャドウファイトを終えるところでのことだった。普段私一人しかいないのに、その日は本当に珍しいことに、来客があった。
「ハンク様?まさか訓練場へお越しにいらっしゃるなんて……事前にお便りをくだされば、お茶をご用意しましたのに」
「まあ、そうなんでしょうけどね!……どれどれ」
おもむろに持ち上げたのは、彼が使わなくなった鉄剣だった。体格の良くなったシュウにはやや小さいという理由だったが、片手剣としての重さは十分に備わっている。
「……え、あの!?」
ハンク様はそれを両手で握りしめ――
「ふんっ!んぐっ!?」
――思い切り振り下ろしたが、剣の重さに負けて地面に叩きつけてしまっていた。
「痛ぅ……!」
「だ、大丈夫ですか!?それすごく重いんですから、最初は木剣から始めないと!」
「ははははっ!婚約者の身を案じるよりも、訓練方法の誤りを正すのが先なのですね!」
「あっ!すみません!すぐに治癒士をお呼びます!」
「いえいえ、それには及びません!<治癒>!」
「あ……」
『――痛っててて!手が滑った!』
『もう、何やってるのよ!滑り止め塗り忘れたんでしょ!?』
『そんなに怒らないでよ、うっかりしてたんだって!それより俺の心配しないの?』
『とりあえず唾でも付けときなさい!ほら、さっさと手を洗いに行くわよ!』
『こ、根性論……!?君ってとことん魔法使い向きじゃないよね――』
事もなげに自らの手を癒すハンク様の姿は、シュウとは真逆だった。それなのに何故か、シュウが怪我した時のことを思い出して、胸が痛かった。
「……アナライズ、お嫌いだったのですね」
「……え?」
ハンク様が何を言ってるのかを理解できたのは、その言葉を2回ほど反芻した後だった。
「先日、貴方の侍女から教えてもらいました。世の中には握手やハグを嫌うような方もいるのかと、少々驚かされましたよ。夜会では、お互いに<分析>を掛けることで身分証明することが通例でしたから」
「……申し訳ありません」
「何故貴方が謝るのです?謝るのは、私の方です。……断りも無く分析したこと、誠に申し訳ありませんでした。どうか、この通りです」
「ハンク様……」
「貴方のステータスを隅々まで見たというのに、私は何も分かっていなかった。貴方がどういう気持ちであの場にいたのか、どうして無口のままでいたのかも、ステータス画面は何も教えてくれませんでした。……ステータスを見ても分かるのは数値だけ。そんなことは、私が一番よく分かっているべきだったというのに」
「私の方こそ、お会いする前にお手紙でお伝えすべきことでした。大変申し訳――」
「ジュネ嬢」
この時のハンク様は、どこまで私のことを分かっていたのだろうか。
「彼を、愛しているのですか?」
どうして、私よりも分かっていたのだろうか。
「勇者殿が屋敷からいなくなってから、元気がありませんでしたから。しかし、やはりそうでしたか」
「そんな……ことは……」
「ははっ、否定しなくとも。しかし罪作りな方だ。私という婚約者がいながら、別の男に心を寄せているなんて。……いや、私の方が後から割って入ったのかな」
ハンク様は一つ大きな溜息を吐いて、もう一度力なく笑った。
「勇者様が相手では、私では分が悪そうだ」
「ハンク様……」
「良いでしょう、ジュネ嬢!貴方の愛する人の帰りを、私も待って差し上げます!ただし――」
ハンク様は再び剣を手に取ると、もう一度剣を振った。今度は地面を叩かないよう横に振りぬいているが、体幹が弱いので足元がふらついている。
「婚約破棄の条件は、彼が帰ってきた時に貴方のレベルが私よりも高い時だけです!!」
私は何も言えなかった。彼のレベルは18で、私よりも2低い。LV1を4にするよりも、LV18を21にする方がはるかに時間が掛かる。危険な冒険者業に手を付けるならまだしも、これから日常鍛錬だけで追いつくことは出来ないはずだった。
それに魔王が倒されれば、レベルなんて考え方も無くなるはずなのに。
……この方もそれを分かっていて、絶対に勝てないだろう挑戦状を叩きつけてくれていたのだ。
「婚約を破棄されたかったら、ここで研鑽を続けることです!……では、ご機嫌よう」
そう言うとハンク様は、シュウの鉄剣を丁寧に立て掛けて、訓練場から去っていった。"婚約を破棄する"とこの場で言わなかったハンク様の優しさが、罪悪感などという言葉では安すぎるほどの痛みを私の胸に残していた。
もしも出会い方が違ったら、私とハンク様の未来はもっと明るく、幸せなものになっていたのだろうか。私が魔法とステータスを受け入れていれば、シュウに心惹かれる事も無く、あの方との結婚生活の中で愛情を見出せるようになっていたのだろうか。
「ごめんなさい、それでも私は……」
それは無意味な仮定だった。現実の私は魔法とステータスを否定し、ハンク様ではなくシュウを選んでしまっている。初めから私にはハンク様との未来は無かったのだ。私自身がそう決めつけなくては、ハンク様に対してあまりにも失礼じゃないか。
……そう頭では分かっていても、耐え難い胸の痛みが消えることはなかった。
「……ごめんなさいっ……!」
誰もいなくなった訓練場の真ん中で、この場にいないあの人に、ただ謝ることしか出来なかった。
--------
勇者様が旅立ってから2年。勇者様の快進撃は続き、魔王によって苦しめられてきた生活から解放される日が近いことを、人々が予感し始めていた頃だった。
就寝前に食堂へ呼ばれた私は、こんな夜更けに赤ワインを楽しんでいる父に思わず眉を寄せた。しかし父が酒を飲み過ぎている理由は、簡単に予想がつくものだった。
「勇者殿が魔王領に到着したとのことだ。まもなくだな」
シュウが、父に手紙を送ったらしい。手紙が前線からここまで届くまでに所要する時間を考えると、既に魔王と交戦している可能性が高い。最大の障害を排除出来たとあれば、当然魔王は世界中を支配しようと動き出すだろう。
どうせ勝つしかないなら討伐してから報告すれば良いのに、彼は敢えてそれをしなかったということだ。しかも褒美を貰えるわけでもないのに、わざわざ父に報告している。
つまりこれは父に対してではなく、私に向けてのメッセージなのだ。
「では遂に……」
……いいよ、シュウ。私はもう、覚悟できてるから。
「ああ。魔王は倒され、世界に平和が戻ってくる」
「平和が……そうですか」
確かに平和になるだろう。誰もが望む平和とは限らないだけで。
「明日から忙しくなりそうだな。どうだジュネ、お前も飲むか」
「結構です」
「どうした、どこか調子が悪いのか?ステータス異常は無さそうだが」
無詠唱の〈分析〉……父程の魔法使いなら、造作もないのだろうけども、相変わらず服を透視されたような不快感がある。この感覚だけは何度説明しても父には理解されなかった。あのハンク様でさえそうなのだから、魔法の便利さが人々の感性を歪めてきた気がして仕方がない。
だからこそ、この世界は終わるのだ。
「父上は、娘の体調をステータス画面で管理できることに疑問を抱いていないのですか?」
私の質問に対して、父上は首をひねった。本当に、質問の意味が分からないようだった。
「別段普通のことではないか」
「勇者様が我が国に召喚された際に、魔法の存在とステータス画面に酷く驚いたご様子でした。つまりあのお方は、魔法とステータスが存在しない世界、さらには魔王がいない世界からやってきたのでしょう。このことは、父上にももうお話しましたよね?」
「……何が言いたい」
「魔王がいなくなった世界に、魔法が残っているとお思いですか?」
今度は首をひねるどころではない。父上から激しい怒気と殺意が溢れ出していた。
「……あれは勇者様の冗談だったはずだ。まさかジュネ、お前は本気にしているのか?」
父の手が、剣の鞘に添えられた。
「父上は魔法を何故使えるのか、ご存知ですか」
「当然だろう」
魔法。それはステータスと共に突如世界にもたらされた奇跡。無から有を生み出すこの奇跡は、レベルさえ上げれば、MPというステータス値が無くなるまで誰でも使うことができる。
「――女神の祝福そのものだ。この程度は我が国の貴族なら誰もが知ってて当然の知識、いや常識だ。今更になって初等講義をやり直すつもりか」
「そう、女神の祝福。私もそう習いました。しかしそれはあくまで学者と教会の解釈です。魔法が使えるのは人間だけではありません。誰にも教わってないはずの魔物もまた使えます。おそらくは魔王も」
「それは女神の慈悲だ」
「その魔法が女神の祝福ではなく、魔王の恩恵だとしたら、どうしますか?ステータスという概念そのものが、魔王の呪いだとしたら?」
「の、呪いだと!?女神の祝福に対して、お前は異を唱えるというのか!」
「その解釈が間違っているのです。ステータス値は人を導く数値ではなく、人の未来を縛る鎖です。人には無限の可能性があるはずなのに、スキル適性という括りで人の将来を決めつけ、HPの大小で命の重さを決めつけています――」
父上はガタリと音を立てて椅子から立ち上がると、私の首元へサーベルを当てた。首の血管を少し切り取ったらしく、生暖かい血が私の襟元を汚していく。
「なんという不信心、なんたる不敬者だ!!そのような娘に育てた覚えはないぞ!!」
「では父上。今の私のHPをご覧下さい」
父上の目の中に激しい憤りと、隠しきれない戸惑いがあった。私が何を言いたいのか測り切れずにいる。
「残り25だ、それがどうした!」
「それでは、これはどうでしょうか」
私は右手で、自分の左腕を思い切りつねり上げた。軽い内出血が起こったが、致命傷には程遠い自傷行為だ。
「1ダメージ……?」
「そうです。内出血が起こったことで、私のHPが減ったのです。そしてこれこそが、ステータスを呪いと評した理由です」
「なにっ!?」
「令嬢が自分の腕をつねり上げただけで……そしてそれを数十回繰り返すだけで絶命するのです。こんな世界のシステムが、私達への祝福であるはずがありません。人の命は、こんな数値で決められていいものではありません」
「お前の言っていることは詭弁だ!そんな馬鹿な真似をするなどと、女神が想定するはずがなかろう!普通に生きていれば、HPが0になるような真似などするはずがないのだ!!普通の人間ならな!!」
首の刃が少し深く触れたからか、傷口から流れる血が少し増えた。そのせいで私のHPが少し減ってきたのだろうか、父の顔に少なくない動揺が広がり、震え始めている。
「父上。勇者様は神託が下る数日前に、女神からこう言われたようです。どうか――」
『――どうか、この世界を魔法とステータスの呪縛から解放してほしい。魔王が世界をコントロールするための<ステータスシステム>と、<魔法>という名で自然法則を歪めるツールを、彼を討ち滅ぼすことで消してほしい。あれは人の手には余るもの……女神は俺にそう言ったんだ』
『魔法とステータスは、魔王の産物……!?じゃあ、神託って!?』
『あれこそが魔王の力なんだ。魔法使い向きじゃない人間に魔法を授け、好戦的じゃない人間に戦士のスキル適性を予め与えることで、人間の成長限界を押し下げているんだよ。もしかしたら魔王から見て危険な人ほど、HPが低くなるような設定もしているかもしれない』
『そんな……じゃあ、私のHPが伸びなかったのは』
『魔法とステータスが必要ない世の中を模索していたからかもしれない。魔王が望む世界の住民に相応しくないから』
『……全部、魔王の掌の上だったということなのね』
『ステータスで能力を誤認させ続ける限り、人間が魔王の想定通りに研鑽を積んだところで、魔王の脅威にはならない。神の介入でもない限り、魔王より強い存在は存在できないからね。ジュネ、君が感じてた強い違和感は、正しかったんだよ』
『待ってよ。……じゃあ、まさか魔王を倒したら――』
「馬鹿な……!?で、では本当に、魔王がいなくなれば……魔法が、ステータスが、世界から消える……!?女神がそれを望んだと言うのか!?嘘ではなかろうな!?」
「はい」
この世の終わりかと思うほど、父の顔色は悪かった。この不快感は父が無意識に私を〈分析〉し続けているからか、それとも首から流れ落ちた血が胸元を汚し始めたからか。
「そんなことになれば世界は終わりだ!!今すぐ勇者殿を止めなくては!!」
「無駄です。既に勇者様は魔王と交戦している頃のはず。今から妨害に向かったところで間に合いません。そして彼は絶対に勝ちます。腕が飛ぼうと、首を潰されようと、無尽蔵のHPがある限り彼は死なないのですから」
……本当は、私も彼について行きたかった。だけどHP30ぽっちの私が同行しても、彼の足を引っ張るだけだった。だから私はここに残って、父が勇者様の邪魔をしないよう監視を続けていたのだ。
「父上。ここに勇者様の意見を取り入れた、魔法喪失後の統治に向けた法律の草案と、魔法の代替案を用意しました。すぐに目を通してください。ただちに陛下へこれをご提案して判断を仰ぎ、新たな世界の到来に備えるべきです」
シュウにだけ命を賭けさせたりはしない。
これが、私の戦いだ。
「……待て。お前達は……知っていたのか!?魔王を倒せば世界から魔法が消えること、やつが旅立つ前から知っていたのだろう!?」
「はい、知っていました。父上にもご説明したはずですが」
「知っていて何故止めなかったのだ!!」
「それが私と彼、そして女神の希望だからです。それに何度も申し上げました、魔法とステータスで管理された世界は間違っていると……そう、子供の頃から何度も言ってきたではありませんか!それらを必要としない領地にしてほしいと、勇者様も、そして私も訴えてきました!ずっと父上には言葉を尽くしてきました!」
叫びと共に、傷口から血液が舞った。父が当てたサーベルは、私が思っていたよりも深く血管を傷つけたのかもしれない。この出血でどれほどのHPが削られたのかは、想像もつかない。
<情報開示>をするのが怖かった。それでも私は叫び続けた。
「話を聞いてください父上!まだ間に合うはずです!」
「お前の言っていることは結果論に過ぎん!終わりだ……もうこの世界は終わりだ!お前達のせいで世界が終わるのだ!!」
「お願いします、父上!目を覚ましてください!人間は魔物でも、魔族でもないんです!たとえ魔法が使えなくても、シュウの世界に生きる人々のように、我々も逞しく生きていけます!火を消さずに残す方法も、水道の引き方も、風車の作り方も、私達は自分の力で学んできたはずではありませんか!今からでも遅くはありません、どうか――」
「理想論ばかり語るな!子供の戯言で統治が出来るか!お前は私に従って、優秀なステータスを持った子供を産めばそれでよかったのだ!何が勇者だ!!やつはやはり、下賤な平民に過ぎなかったということだ!!やつこそが世界の敵だ!!今すぐにでも討伐軍を編成することを、陛下へ進言しに行くぞ!!」
それを聞いた直後、私の臓腑に力が宿った。腕に力がみなぎってくる。それはまさに蠟燭が燃え尽きる、最後の一瞬のようだった。
首の傷から流れ続ける血の生暖かさが、全身を流れる穢れを証明するように思えた。
ならば、どれだけ流れ出ても構うものかと腹を括った。
「戯言ですって……!?戯言の一言で片づけさせやしないわ!私はいつだって本気だった!<分析>を安易にすべきではないと、何度でも、喉が枯れるほど言ってきた!あなたは自分の価値観だけを大事にして、娘が嫌がることを嬉々としてやってきたのよ!領民たちにもそれを強要して、可能性を潰してきたんじゃないの!!」
「分かった風な口を!屋敷からまともに出たことがない貴様に何がわかる!!」
「出さなかったのは貴方と魔王よ!!間もなく魔王は倒される!!この世界から魔法も、ステータスも、神託だって消え去るの!!いい加減に認めて、領主として来るべき未来を見据えなさいよ!!それが貴方の仕事のはずでしょう!!」
「父親に対して、その口の利き方はなんだあああ!!!」
激怒した父親の剣が、私の身体を肩口から腰までを切り裂いた。
1ダメージでは済まない衝撃によって、私の視界は暗くなって――
--------
22時を告げる時計の鐘が、食堂に響き渡った。絨毯に赤い血が染みるのも無視して、カチリ、コチリと、機械的な音を立て続けている。
「…………ハッ!?わ、私は、何を……!?ああ……ああ、ジュネ……!?ジュネーーーー!!」
HP僅かな娘を斬った父は、自分が何をしたのか、斬り殺してからようやく気付いたらしい。自分の娘を自分の手で殺害した父は、まるで自分の右手を呪うように左手で覆い隠し、泣きながら崩れ落ちていた。
細腕の娘が勇者を殴っても、1ダメージは保証されている世界だ。研いだ鉄剣で胴を斬れば、当然1ダメージでは済まない。まず50ダメージは与えただろう。
ジュネ・ジャンメールは、父親からの物理攻撃によってHP0となり、その生涯を閉じた――
「……よく頑張ったね、シュウ。おつかれさま」
――と、今までならばそう記述されていたに違いない。
「ジュネ!?おお、ジュネ!!生きていたのか!!奇跡だ!これぞ女神の奇跡――」
泣き笑いの表情で抱き着こうとしてきた父親の顔を、今度こそ全力で殴り飛ばした。レベル16程度の雑魚であれば、私のステータスでも十分粉々に出来ると思っていたのに、やはり現実はそう思い通りにはいかないらしい。
私が放った渾身の一撃は、父の体を壁際へ叩きつけるに留まった。当然、粉々にはなっていない。
「はひぇ!?ジュ、ジュネ!?何をするんだ!?」
「子殺しにかける情けなんてありません」
私はハンカチを首の傷口に当て、強く圧迫した。少々息苦しいが、こうするのが一番手っ取り早い止血方法だと、かつてシュウに学んだことがある。
「そ、そうだ!?お前、どうして無事なん――」
私ははしたないと知りつつも、切られたドレスの上着を片手で引き裂いた。その下には古いチェーンメイルが仕込まれている。実戦経験の薄い父では、生身と鎧の斬り応えが判別できなかったのだろうか。
「仕込み鎧だと!?」
「そんな大したものではありません、ただの訓練用です。尤もこの程度の防御力では、仮にHP30だったとしても絶命していたでしょうけども」
私たちに実戦で使う剣と鎧を装備させて訓練させていた、セルジュ流の教えが役に立った。
「……役に立ってほしくはありませんでした。激昂した父親が娘を攻撃するかもしれないだなんて、わずかでも予測した自分を嫌悪しましたのに。残念です、父上」
「あ……う……っ!?」
あの人の教えはいつだって現実的で、実戦的だった。お茶を淹れる時だって、清浄魔法ではなく流水で手を洗い流していた。ステータス主義の中では無能に類する拘りだったかもしれないが、彼もまた魔王によって最も向いていない適性を与えられていた一人だったのかもしれない。
「……あっ……仮……に?」
「父上、私のHPが見えますか?」
私の指摘を受けた父の顔が、一気に白くなった。
「ア、<分析>!<分析>!!<分析>!!!馬鹿な、馬鹿な馬鹿な!?何故ステータスが見えない!?MPが切れたのか!?<情報開示>!!オープン!!!」
「勇者様が、魔王を滅ぼしたのです。もう終わりですね、父上」
私は指をパチリと一度鳴らすと、物陰に隠れていた侍女たちが一斉に父に飛び掛かり、拘束した。一番最初に飛び付いたのは、シュウを最も叱責し、最も泣いていたあの侍女長だった。
「お、お前達!?」
「貴女達も見ていたわね!?ジャンメール伯爵を国王陛下に対する背任、勇者様への侮辱、及び娘に対する殺人未遂の容疑で憲兵に引き渡しなさい!領主不在の間は、私が領主代行を執り行います!!」
父は必死に抵抗していたが、レベルだけに頼っていた非力な中年貴族よりも、日々懸命に肉体労働をしていた侍女達の方が力はあったらしい。二人掛かりとはいえ、あの父が身動き一つ取れなくなっていた。
「な、何をする!?無礼者め!お前らは全員クビだ!!おい、離せ!こんな箱入り娘に統治など出来るものか!!そんなことになればジャンメール領は終わりだぞ!!離せえええええ!!!」
「父上、とても残念です。貴方がもっと私と勇者様の言葉に耳を傾けていれば、もっといい結果になったでしょうに。……きっともう二度と会うことは無いでしょう」
「ジュネ!!貴様ああああああ!!」
怨嗟の声を上げ続ける父は、憲兵に引き渡された後もずっと叫び続けていた。ジャンメール家を滅ぼす愚かな娘だ、【女神の勇者】こそが世界を滅ぼす真の魔王だなどと、陛下から重い沙汰を下される瞬間まで叫び続けていたという。
残念ながら、私はその最期に立ち会うことは出来なかったが。
「お嬢様……今後、いかがいたしましょうか」
「勇者様のお帰りを待ちましょう。でも、まずは領民の混乱を抑えなくちゃいけない。私が陣頭に立って、今後の方針を説明するわ」
「そんな、危険です!!だってお嬢様は――」
「大丈夫よ、侍女長」
私はもう、HPの鎖には縛られていないのだから。
--------
勇者様とその従者は、魔法が無くなった日から1年が経っても帰ってこなかった。私は領主代行、というより実質的な領主として魔法無き後の領地の混乱を抑えながら、彼の帰りを待ち続けた。領民はみな混乱し、時に錯乱して犯罪に手を染める者も少なくなかったが、大半の者が魔物の脅威に覚えずに生活できることを喜んでいるようだった。
ただ課題は依然多く、そしてあまりにも大きすぎた。私が領主として未熟だったという点はもちろんあるが、あまりに世の中が混迷を極めていたがために、経験不足については然程問題にならなかった。
……統治者の未熟が問題に上がらないほど深刻だったのが、重要書類及び文献の喪失だった。
「領主様。土地の権利書と税を記録する帳簿が、やはり見つかりません」
侍女長だった彼女は、今では私の秘書として勤めている。
「財務管理どころか、税務管理のための帳簿でさえ紙で保管してなかったというの?あれは保管責任者に何かあった時のため、<本>の魔法で管理することは禁止していたはずよ」
「紙は嵩張って重いですので、倉庫に保管、整理するのを嫌う人間が多かったようです。前領主様が、まさにその筆頭でしたから……」
「……先代ジャンメール伯爵の名は、地に落ちるわね」
帳簿だけではない。公文書の多くが責任者の魔法で収容されていたがために、魔法が使えなくなった時点で完全に喪失されてしまっていた。事前の布告にも関わらず全くその点に対応していなかったことに、当然国王は激怒。半数以上の役人が更迭され、国中の役人がその首を寒からしめていた。
結果として、我が国は魔王討伐前と比べて文化的にも文明的にも後退を余儀なくされている。魔王の力に依存して発展してきたツケは、あまりにも大きかった。
「小娘の日記帳とはわけが違うというのに、呆れてものも言えないわ。でも、今はそんなことを言ってもいられないわね」
「如何いたしましょうか」
「無いものは仕方ないでしょ。埃を被って眠ったままだった水車駆動の印刷機が残っていたはずよ。あれを再稼働させて、ジャンメール領内の経済活動に必要な提出書類や公正文書の雛形を印刷しなさい。かなり古い記録でしょうけど、当時の税負担割合がそこから割り出せるはずよ。取り急ぎ、それで領内の経済を回していくしかないわね」
「今年度中に間に合うでしょうか?」
「……間に合わせるしかないわ。まずは税と免税権に関する記録を最優先に復旧させましょう――」
激務に次ぐ激務。寝る間も惜しんで仕事をする毎日。だけど、いつかまた彼と会えるという希望だけが、私の身体と頭を動かし続けていた。彼と戦えなかった分、今は私が戦う番だと信じていた。
半年が経った。まだ道中の半分あたりだろうと信じた。
1年が経った。きっと遅れる理由が出来たのだろうと信じた。
そして2年が経ち、3年が経った。理由が無くても、絶対に帰ってくると信じ続けた。
5年経ってもなお、帰りの報せは私の元に届かなかった。
「領主様、お客様がいらっしゃいました」
「誰かしら?予定は入ってなかったはずよね」
「……ご無沙汰しております、お嬢様」
侍女長だった女の後ろから現れたのは、かつて我が家の執事をしていた男だった。
「……セルジュ?セルジュなの!?」
「ただいま戻りました、お嬢様」
一体どれほどの修羅場をくぐれば、このような姿になれるのだろう。嫌味は多いが面倒見の良かった男は、その片目を眼帯で覆い、左足を引き摺っていたにも関わらず、ただならぬ強者の気配を身にまとっていた。やはり彼は、執事で収まる器ではなかったのだ。
「おかえりなさい、セルジュ!……無事でよかったわ」
「無事と言って良いのかどうか……まあ、五体が無事なだけマシではあるでしょう」
「こうして再会できただけでも奇跡よ。それで、シュウはどうしたの?」
「……」
「…………セルジュ?」
「やつは……」
やつは……もういません。
「……セルジュ。冗談を聞く気分ではないの。ちゃんと説明して」
「……シュウと魔王の戦いは熾烈を極めました。シュウも道中で自らを鍛え抜き、人間の限界をも超えて魔王に挑みましたが、魔王はそれをさらに上回っていたのです。私は……旅の道中で早々に戦力外となり、魔王と彼の戦いを見届ける以外に何も出来ませんでした。魔王にとって私は、蟻か羽虫に過ぎなかったのです」
「セルジュ、だからシュウは!?シュウはどうなったのよ!?」
「……申し訳ありません」
「何を謝っているの!?ちゃんと言って!!言っていることが全然分からないわっ!!」
「申し訳ありません、お嬢様」
セルジュの目は、悲哀に満ち溢れていた。私はそれを見て、すべてを察した。
……長い年月は、私にそれを察するだけの想像力を与えてしまっていた。
「……大変申し訳ありません。私は、シュウを守れませんでした。彼は最期まで立派に勇者として戦い、魔王を滅するためにすべての力を出し切り……ありったけのHPとMPをすべて使い切って、私の目の前で塵となって消え去りました。彼の遺品は、何も残っていません。……やつは……シュウのやつは!!この世界に何一つ遺さずに、魔王と共にこの世から消えてしまったのですッッ!!!」
『うっ……ううっ……!行かないでよ……!世界のために、戦ってほしいなんて、私頼んでない……!』
『ありがとう、ジュネ。でも、これだけは聞けない。だけど約束するよ、絶対に帰ってくる』
「……やつは、最期までお嬢様に会いたがっていました。お嬢様のことだけを、案じていました。貴方と……ずっとおそばに、居たいと……っ!き、消える……最後……まで……っ!申し訳、ありませんっ……!私が……私が弱かった、ばかりに……っ!!」
セルジュを責めることなんて、出来なかった。私はセルジュよりも、もっと遠くから彼を見殺しにしていたのだ。
「……ありがとう、セルジュ。よく生きて帰ってきてくれたわ。まずはゆっくり休んで頂戴」
「お嬢様……!!」
「セルジュに温かい食事と、休める部屋を用意してあげて。…………少し、部屋に籠るわ」
部屋のドアを閉めた瞬間、全身から力が抜けた。
虚無感、絶望感、喪失感……そのどれもが安っぽく聞こえるほどの昏い衝撃は、私からすべての光を奪っていった。
嘘つきのまま死んでいった、あの使用人に対する怒りが、胸の中を焼き滅ぼしていく。
まるで心だけでも、彼の向かった先へ送り届けようとするかのように。
「シュウの……馬鹿……大馬鹿野郎!!絶対に約束を守るって、約束したじゃない!!馬鹿……馬鹿あああああああ!!!!」
カミザワ・シュウ。【女神の勇者】のスキル適性を持つ彼は、女神の望み通りに戦い、私の望みを叶えないまま、塵となって死んだ。
享年17歳。私と、同い年だった。
--------
10年。20年。……30年。
魔法が無くなった世界で生き残れたのは、魔法とステータスが無くなった後に備えた国、あるいは領地だけだった。ジャンメール領がかろうじてその名を残せたのは、まだ若かった私とシュウが考えた、拙い法律草案があってこそだっただろう。
あれは余りにも細部がお粗末すぎて、実際に運用することは叶わなかった。だけどあれこそが、私の精神を支える唯一の支柱だった。あの彼との遺作とも呼べる文書を読み直す時間が無かったら、きっと私の心はとっくの昔に破壊されていたことだろう。
だけど、やっぱり私にも限界はある。ううん、彼を失ったあの日から、とっくに限界は来ていたに違いない。まだ50歳にも満たない身でありながら、私の天命は尽きつつあった。
「お嬢様……」
「もう……その呼び方は止めなさいよ、侍女長」
「いいえ。私にとって、貴方は領主様である以上に、お嬢様でした」
「……そっか。ねえ、セルジュはどうしてるかしら」
「彼は今、席を外しております。何かと忙しい男ですから」
セルジュもまた、私と同じく床に臥せていたはずだった。その彼が忙しそうに席を外しているというのなら……忙しい理由は、一つしかなかった。
「そう……彼にもよく休むように言ってあげて。ずいぶん老骨に鞭打ってくれていたから」
「はい、お嬢様」
「ええ……私も、疲れたわ。ずっと頑張っていたもの。……ねえ……私、またシュウに……会えるかなぁ……?」
「……はい……お嬢様……っ!きっと、お会いになられます……っ!必ず……必ずっ!!」
「ありがとう……貴方と……仕事が、出来て……よかっ……」
息を深く吸えなくなってきた。意識が朦朧とする。痛みも、苦しさも無い中で、私の胸にあるものは……寂しさと、かつて失ったはずの切なさだった。
『す、好きな女の子と、ずっと一緒に暮らせたらいいかなって……変かな……?』
……シュウ。私ね、ずっと言ってなかったことがあるのよ。
私もね、ずっと昔から、貴方と一緒に――
--------
「お、おい、目を覚ましたぞ!!」
「修!!修!!」
ずっと長い夢を見ていたような気分だった。親父が倒した杉の木に挟まった俺は、幸運にも打ち所がよかったらしく、五体満足のまま意識だけを失っていたらしい。後に聞いた話によれば、半年以上ずっと眠り続けていたのだとか。
「修、大丈夫か!?すまなかった、俺の不注意のせいで!!」
「全くよ!修、しばらくはお父さんの手伝いなんかしなくていいからね!今はゆっくり休みなさい!」
「……は、はい。ありがとうございます」
口から出た敬語は、今までまともに使ったことが無かったはずなのに、何故かごく自然と使うことが出来た。学校の先生にだって、こんな敬語は使ったことがなかったはずなのに。
この胸にぽっかりと空いた穴は、なんなのだろう。眠っていた間に何かを忘れている。大事な約束を……大事な誰かを忘れている気がした。
「修……?お、おい、大丈夫か。人が変わったようだぞ」
「お父さん、お母さん、シュウ君はまだ混乱しているようです。息を吹き返しただけでも奇跡なのですよ。明日、またいらしてください」
「そうよアナタ、まずは休ませてあげないと!修、退院したらお母さんのシチューをおなか一杯食べさせてあげるからね!早く元気になるのよ!」
『とりあえず唾でも付けときなさい!――』
何を忘れているのかは分からない。だけど、頭の中に反響する聞いたことの無いはずの声が、どうしても耳から離れなかった。
意識を取り戻した後の俺は、しばらくリハビリ生活を続けるしかなかった。でも本来なら半身不随、あるいはもっと重篤な怪我で全身不随になっていてもおかしくなったというのに、車椅子を自走できるまでに回復できたのは、それだけでも奇跡だという。
それにしても……車椅子を自走するたびに、何か懐かしい気分を覚えるのは何故だろうか。遠い昔にも、重い何かを振り回していたような覚えがある。記憶と呼べるほど、確かなものではないけども。
「遠い昔……って言えるほどの齢でもないはずなんだけどな」
そんな風に考えてしまう自分に驚いた。俺、こんな風に自分を見下ろすようなやつだったか?
モヤモヤとした気分を抱えたまま、俺は誰にも見つからないように、こっそりと病院の屋上に出た。屋上と言っても3階建てだから、高さなんてたかが知れている。でも、この高さから見る景色は、何故かとても懐かしかった。
「……そうだ。彼女の屋敷も、ちょうどこんな高さだった気がする」
…………彼女?彼女とは、誰のことだ?屋敷って?
『――よ。でも皆の前ではお嬢様と呼んでね、シュウ』
……お嬢様だって?
『もう……わかったわ、教えてあげる。それとお父様に言って、私の使用人としてここに住まわせてあげるわ』
必死に思い出そうとしても、何故か霞がかったように顔が思い出せない。名前が出てこない。声は聞こえるのに、声色がはっきりしない。絶対にどこかで会ったことがあるはずなのに。
「くそっ……やっぱずっと夢でも見てたのかな。半年も寝てたらしいし」
そういえば、あの日に潜ったベッド下はかなり狭かったな……って、なんでベッド下?
「あああああ、もう!!まじで意味わかんねー!!……やっぱ俺、杉に挟まれてからおかしくなったのか?」
「あっ!!こら、神沢君!!またこんなところに忍び込んで!!」
しまった、屋上の扉をうっかり閉め忘れていた。風に気付いたナース長さんに気付かれてしまったか。
「ここは柵も低いし風も強いから入っちゃダメって言ってるでしょう!!また院長先生に怒られるわよ!!」
この人はどっかの誰かさんみたいに、いちいち小うるさくて苦手だ。
「あーもう!うるさいな!わかったよ、病室に戻るってば!」
『ふふっ……今のは貴方が悪いわ、シュウ。先生の言いつけを守りなさい――』
まただ。この声は誰だ。会ったことのないはずの子の声が聞こえるのは何故なんだ。
思い出したところで何の意味も無いかもしれない。
だけど俺の中の何かが訴え続けていた。
絶対に思い出せと、根っこの部分が叫び続けていた。
目覚めてから一か月して、俺は小学校に復帰した。松葉杖が珍しいやつらは俺から奪い去ってチャンバラを始め、痛々しい包帯を哀れんだ女子が何度も声を掛けてくれた。
だけど心のモヤモヤは晴れない。ずっと学校を休んでいたはずなのに、不思議なくらい学校の問題が簡単に思えた以外では、何か変わった様子も無かった。
このまま何事もなく日々が過ぎて行って、忘れちゃいけないことを忘れてしまうんじゃないか。そんな思いでさえも、一か月も経つ頃には薄れてしまっていた。
「ただいまー」
「修、ご近所に大きな家が建ったのを知っているか?最近引っ越してきたみたいだから、ちゃんとご挨拶してきなさい」
え、ご近所さん?俺一人で挨拶!?
「やだよ、親父か母さんもついてきてよ!ていうか、お隣でもないならわざわざ行かなくてもいいんじゃないの?」
「駄目よ!修も小4なら、それくらいは一人でしてきなさい!ほら!」
尻を叩かれながら玄関から叩きだされた俺は、自称つまらない物を片手にぶら下げながら、雑な地図を頼りにご近所さんとやらへ向かうことにした。
えーっと、左曲がって、まっすぐ行って、ポストのところを右に……ん?あそこって更地だったところだよな。俺の入院中に建ったのか?……なんでここから屋根が見えるんだ?
そのご近所さんのスケールは、俺の想定をはるかに超えていた。
「で、でかい……!?」
ご近所さん。うん、確かにご近所さんだ。俺が入院していた病院くらい大きくたって、建っている場所が近ければご近所さんには違いない。
……いやこれ、もはや家っていうか大屋敷だろ。こんなでかい門初めて見たよ。なんでこんなところに一人で挨拶させるんだよ。普通は親同伴だろ、おかしいって絶対。
「こ、これ、呼び鈴どこだ?あれか?お、俺の身長じゃ届かないじゃんか……脚立でも持ってくればよかったか……。こ、これはもう、門をよじ登って、押すしかないのか……!?」
「あら、貴方は?」
無意味に足を門に引っ掛けてウンウンと悩む俺の後ろから、聞き覚えのある声がした。
ハーフの女の子だろうか。さらさらとした長い金髪と、青空のような碧眼、整った顔立ち。
まるでゲームの中から飛び出してきたかのような美少女だった。
「呼び鈴が押せないからって、門をよじ登ろうとするのはどうかと思うわよ?ていうか、山や木じゃないんだから、素手でクライミングなんて出来る訳がないじゃない」
いや、違う。現実だ。この世界には、剣も魔法も無いのだから。
「……申し訳ありません。ここが山じゃないことを忘れていました」
……思い出した。俺が魔王を倒すまで過ごしていた、剣と魔法の世界の事を。
俺を待ってた女の子と、あの子と交わした約束を。
あの日に約束を守れなかった、最期の無念も、全部。
「……ふふ、変な子。貴方、お名前は?この近くに住んでるの?」
そうだ。俺はあの日、女神に願ったんだ。
たとえ俺の役目が終わったとしても、絶対にもう一度、あの子に会わせてほしいと。
そして出来れば、あの子の願いも一つ、叶えてあげてほしいって。
「神沢修と申します。10歳です。このすぐ近くに住んでるんですよ」
「あら、私と同い年なのね?いい名前ね、シュウ!」
女神よ。あんた、俺の願い事、叶えてくれたのかい?
「……ん?なんで私、いきなり下の名前で呼び捨てにしたのかしら?でもなんか呼びやすいのよね……ねえ、これからも貴方のことをシュウって呼んでもいいかしら?」
彼女の願いも、これだったのかい?
「ええ、構いませんよ、お嬢様」
「やだもう、うちの執事みたいな口ぶりじゃない!ねえ、良かったらうちでお茶でも飲んでいかない?手にぶら下がってるの、つまらない物ってやつでしょ!」
なあ女神様。
「うん、そんなところ。実は俺、お茶淹れるの結構得意なんだ。良かったら任せてみて貰えないかな?」
「良いけど、うちの侍女長はその辺うるさいわよ?執事の方も普通に怒鳴るし……」
最後にもう一個だけ、願い事をしても構わないかな?
「きっとその二人なら大丈夫だよ。ところで、そろそろお名前を聞いてもいいかな?」
「あ、そうだったわ!私の名前はね――」
ああ、どうか――
「樹音っていうの!貴方も私をジュネって呼んでね、シュウ!」
――どうか彼女が、この魔法とステータスの無い世界で、幸せになれますように。
--------
エンドロールにステータス画面は要らない。