6 煙
「対象はいまだ食事中。もう少し待つ。しかし作戦を立てたのはいいが──」
とある建物から様子を伺いつつ、独りごちる。いや、独りなのでそう見えるが、実際には独り言ではなく、手元には無線機がある。そしてそれを通してしっかり聞いている者がいる、はずだ。
「果たしてうまくいくのかね。どうぞ」
ややあって、ザザッと音がしたのち、返答があった。
「了解。──うまくいくよう努力するしかないでしょ。ま、せいぜい祈ってて。どうぞ」
そりゃそうだ、と、今度はPTTボタンを押さずに独り言として呟く。
この無線機は、俺のものではなく、そして夏希のものでもない。夏希が心当たりのある生存者グループまで行って事情を説明し、交渉して借りてきたものだ。交渉の詳細については、何故か教えてはくれなかったが。
奴を倒す準備には、およそ二日ほどかけた。まず作戦の詳細の議論、そして必要なもの──つまり無線機などの調達。そして何より奴を見つけること、そして奴を陥れられるロケーションの選定。
そして今、ようやくそのすべてが完了し、いよいよ作戦決行、というところだ。
俺たちが肉喰らいと呼ぶことにした奴は、まだ昼食の最中のようである。奴が動き出してから、行動開始だ。
まずは作戦の第一段階。俺のやるべきことはターゲットの監視、および誘導。奴を夏希が待機している作戦エリアまでうまくおびき出すのだ。
「奴が食事をやめた。誘導を開始したい。どうぞ」
「いいよ。やって」
奴を食いつかせるための、特製の囮を起動させる。立ち上がったそいつに向けて発進させた囮──それはある加工を施したラジコンカーだ。
「行け」
商店街のホビー店から失敬したいい値段のするそいつは、俺の操作を通して勇猛果敢に突き進む。その車体に括り付けられているのは──肉だ。
「GGGGEEERRRRRRRRRROOOOOHhhhhhhhhhhhhh!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
よし、食いついた。スーパーでマシな状態の肉を集め、塊にして仕上げに俺の血をかけた特製の釣り餌だ。わざわざお前一人のために文字通り心血を注いで準備したもてなしの品に、見向きもされなかったのでは興ざめだ。せいぜい魅了されるがいい。
「しかしなんというか、自分の分身が追われてるみたいでぞっとしねぇな」
ラジコンカーは、全力疾走しても追いつけない速さの代物だ。それ自体の囮としての性能は申し分ないが、問題は俺自身だ。
ラジコンカーを動かす俺も、同じ速さで追走しなければならない。しかもラジコンカーが見える場所で、かつ肉喰らいに見つからぬように。それはさすがに無茶に過ぎる。
そこでラジコンカーには肉だけでなく監視用の無線カメラを前後二台取り付け、俺自身は隠れて操作に徹することにした。二百メートル程度離れても通信可能なカメラなので、実用には耐えうる。
「対象、もうすぐ到着だ。準備はいいか?どうぞ」
「大丈夫。あとは任せて。どうぞ」
それにしても一定距離を保ちつつ操作と並行して隠れて進むのは骨が折れるが、人間本気を出せば意外と何とかなるようで、気づけば俺の役割はほぼほぼ終わろうとしていた。
あとはもうひと仕事だけ、だ。
目的のポイントで囮を停止させる。
当然、待ちわびた肉喰らいはすぐさま食らいつく。
「今だ。やれ」
「わかった」
夏希に合図し、次の瞬間、その仕掛けが作動する。
相手は人の姿をした獣。なにも同じ土俵に立って戦う必要はない。獣には、獣に対してなりの駆除の仕方というものがある。
故に、くくり罠。
金属ワイヤーの輪っかに鎖をつなげ、気に引っ掛けた先、もう一方の端には冷蔵庫。
冷蔵庫を持ち上げた状態で鎖を紐で張って固定し均衡を保っていたが、一度紐を切ってしまえば冷蔵庫の重さで輪っかが引っ張られ、輪っかの中にいたものはたちまち逆さ吊りになるという訳だ。
銃はある意味最強の武器だが、どんな攻撃も当たらなければ意味がない。敵を固定した状態でギリギリまで近づき、落ち着いて確実に狙える状態を作り出す。それがこの作戦の目的だ。──とはいえかなり原始的で身もふたもない方法ではあるのだが、ともかくこれが今の俺たちにできる最善だった。
俺自身も罠を設置した住宅街の中の建物のガレージに向かう。
罠は正常に作動し、肉喰らいは無様に吊るされながら悶えていた。そして銃を持った夏希が、ゆっくりと近づく。
「GGRROOUU????!!!!!!!!!GROOOROUUROGOOOHhhhhhhhh!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「肉に麻酔薬入れてたんだけど、なんで効いてないのコイツ。まいいや、もうすぐ楽にしてあげるから」
教えた構えで、夏希が銃を前に向ける。経験者たる俺がやったほうが確実なのは俺も夏希もわかってはいたが、それでもこれは自分の役割だと夏希が主張し、俺も夏希がやるべきと思ったので了承した。
拘束が鬱陶しいのか、あるいはただ目の前の獲物に興奮しているだけなのか、肉喰らいは喚きながら激しく暴れる。その様をみて、ざまを見ろなどと単純に愉快な気分になれるほど、俺は目の前の怪物に対して人でないという認識は持てない。そしてそれは、夏希もまた同様らしかった。
「苦しいの?……まぁ、あんた自身に恨みはないけど。でも、仇だから。じゃあ、さよなら」
かちりと撃鉄を起こす音。しばし静寂があり、そして。
発砲。
乾いた音が響いた後、あたりに無音は──訪れなかった。
肉喰らいの絶叫はむしろ大きくなり、そして体のいずこかから血が滴っている。
「ちょっと、暴れないでよ。私が苦しめてるみたいじゃん」
「……ま、初めては当たらんもんだ。弾はまだある。次はしっかりな」
「言われなくても、わかってるし」
もう一度構えなおす。
腕が震えているのがわかる。疲労か、それとも別の理由によるものか。
夏希の表情には、心なしか焦燥の色が伺える。呼吸も、やや荒い。焦りはかえってミスを加速させる要因となるが、まぁでもあと三回まではミスが許される。加えて今言ったように夏希は初心者なのだから、失敗するのは当たり前だ。ここは温かい目で見守るべきだろう。
肉喰らいの動きを見極め、次の瞬間、再び銃声。
だが。
「うっ!」
反動をうまく受け止めることに失敗したのだろう。銃口が大きく跳ねる。
そして、耳を疑う音が──何かが落ちる音が、聞こえた。
「嘘だろ……」
肉喰らいが地上にいる。何故。ワイヤーが切れたからだ。
劣化か。いや、まさかそんなはずはない。ワイヤーが切れないことは、事前によく確かめた。もちろん肉喰らいに自力で外せるわけもない。罠が外れるなど、あり得ない。
──いや、違う。
ワイヤーが切れたのではない。破損したのは、ワイヤーと鎖の接合部分。鎖側に残された金具の破片から、仄かに煙が上がっている。
当たってしまったのだ。あらぬ方向へと発せられた弾丸が、よりにもよってそこに。何という運の悪さだ。一のゾロ目が出る確率のほうがまだ、余程に低い。
──いや、今はそんなことはそうでもいい。なぜなら。
近すぎる。
確実に狙うために距離を詰めたのが仇となった。奴の脚力なら、届くのは一瞬だ。銃しかもっていない、しかも反動にやられている夏希に、迎撃する由もない。
「クソッ!」
ここからでは、全力で走ってもおそらく間に合わない。俺もまた、流れ弾に当たったりせぬよう夏希たちから離れていたのが裏目に出た。
夏希に向かい走り出した肉喰らいに向けて、鉄パイプを投げる。遠くからそのような重いものを投げて普通は当てられるはずもないのだが、急場の馬鹿力とでもいうべきか、鉄パイプは狙い違わず肉喰らいの脳天に当たり、昏倒させることに成功する。
「うおおぉぉぉぉらああぁぁあああぁぁあぁ‼‼‼」
走りながら工具を拾い、よろめきつつ立ち上がろうとした肉喰らいに勢いのまま突進する。
無我夢中で馬乗りになり、起き上がろうと足掻く肉喰らいの大きく開いた口にレンチを突っ込んで封じる。
「こちとら肉なんかそうそう食えんのにいい御身分だなゾンビの癖に、食い足りねぇならこれでも食ってろ‼」
もはや自分でも自分が何をいっているのかわからない。ろくでもないことを喚いているという自覚はあるが。
「夏希!こいつを撃て!」
腰を抜かしたのか、地面に尻をついていた夏希が立ち上がって駆け寄るのを視界の端で認識する。
「早く!」
「わかった」
組み伏せられている肉喰らいの頭に、銃身の先がつけられる。
次の瞬間、間近で発せられた銃声が耳を劈き、そして俺を押し上げようとする力が、急速に失われた。
終わりだ。ただの死体になり果てた肉喰らいから退き、大きく息を吐く。
噛まれては、いない。我ながらよくまだ生きているものだと思う。我を忘れることは、時に恐ろしい。
「よくやった、夏希」
とどめを刺した功労者に声をかける。返事はない。不穏な空気を感じ、夏希に目を向ける。
「夏希……?」
夏希は俺には目もくれず。銃を持ったまま肉喰らいの上に仁王立ちになる。
まだ煙が消えていない銃口を、その下に向けて。
「おい、夏──」
発砲。バンと大きな音がして、死体がビクンと跳ねる。
さらにもう一度、発砲。死体が跳ねる。
夏希はさらにもう一度引金を引くが、もう弾は出ない。
拳銃を放り、そばの車の下に落ちていたハンマーを拾い上げる。
夏希は再び死体の上に立つと──ハンマーを振り下ろす。
「ふんっ!ふんっ!」
ぐしゃり。ぐしゃり。
一定の間隔で、ハンマーが叩きつけられる。
「ふんっ!ふんっ!」
ぐしゃり。ぐしゃり。
何度も、振り下ろされる。何度も、何度も、何度も、何度も。
「なんでっ!どうしてっ!美奈はっ!死んだのっ!ねぇっ!答えてっ!答えてよっ!」
「──っ」
夏希の目に、涙が浮かぶ。いつしかそれは溢れ出し、床に落ちて血と混ざる。
「返してよ。美奈を返して。……ねぇ、なんで。一緒に生き延びるって言ったのに。美奈。美奈……」
そのうちハンマーは投げ捨てられ、少女はその場に泣き崩れた。
嘘つき。涙に交じってそう呟かれた夏希の言葉は、なぜか俺の心にも鋭く突き刺さる。
かける言葉は、何もなかった。おそらく俺のことなど見えていないし、聞こえてもいない。それが、俺という人間の限界を表しているようで、ひどく居心地が悪かった。
煙草は、何本か吸ってみたもののあまり好きにはなれない。それでも、この時ばかりは吸わなければ他にどうしようもなかった。
少女の嗚咽。燻る煙と、血と硝煙の匂いが混ざりあった度し難い空気。
見上げる空は曇っていて、ただ電線に留まってあざ笑うかのようにこちらを見下ろす鴉どもの黒い目がやたらと憎い。
もしかすると。俺は、ひょっとしたらこんな日のために生きているのかもしれない。
片手で合掌しながら、よくはわからないが、このとき俺は何故だかそう思った。