5 そして
玄関に鍵をかけ、二階に上がって窓から様子を伺う。
奴の姿は、今のところ見えない。
先ほど、角を曲がる直前にみた光景を思い出す。
奴は、俺たちを追う代わりに、置き去りにした美奈という少女の遺体を食べていた。
見間違いではない。俺が見た妙な死体も、奴が食い散らかしたあとなのだろう。
「……あいつ、死体を食ってた。あれはゾンビなのか?」
夏希にそう言ってから、しまったと思う。
ついさっきただ一人の親友を失ったばかりなのだ。よりにもよってその命を奪った張本人の話を、こんなにすぐにすべきではない。
現に夏希の態度には、痛ましい絶望がありありと見て取れる。
「……すまん。何でもない」
「いいよ、別に」
謝ると、夏希が力なく返事をする。
今一番辛いのは彼女だ。大人として、彼女ばかりでなく俺こそが強くあらねばならない。そう、自分に言い聞かせる。
「人間には見えなかったよ。突然変異、みたいなやつかも」
──突然変異。厳密には遺伝子の変化と定義される語だが、ともあれ原因がなんにせよそんなような変化がゾンビに起きたというのか。
食事をするゾンビ。俺たちの知っているゾンビは人に噛み傷を与えるだけで噛み千切ったりしないし、栄養を摂取しない故か貧弱で愚鈍だ。
だがもし奴らが食事を覚えたらどうなるか。動く死体であると思われていたゾンビだが、各器官の活動が停止していないとは限らない。いや、少なくともあんなに動いているのだから血液循環や代謝は行われているとみるべきだろう。ゾンビが物を食い、己が糧として取り込めるようになった結果生まれたのが奴だとすれば。
そんなものは、もはやゾンビと呼べるかも怪しい。感染性の、脳が壊れる病気を患っただけのただの人間だ。いや、他のゾンビも結局のところ本質はそうなのかもしれない。
とにかく、重要なのは奴の身体能力が健康な人間と大差ないということだ。
つまり相手は、死を恐れず襲ってくる狂人。しかも噛まれただけでゲームオーバー。
「逃げるのが得策か」
そんなのを真っ向から相手するなど、愚かとしか言いようがない。走ってくる相手から逃げ切るのは容易ではないが、見つからないよう努めればよい。奴の捕食対象にはゾンビも含まれるようだし、囮に使えるかもしれない。
そうして今後の算段をたてていると、ふいに休んでいた夏希が武器を持って立ち上がった。
「行くのか」
「あいつを倒す」
「は?」
耳を疑った。
あんなものとやりあうなど、無茶にも程がある。
殺しきるだけでは駄目なのだ。接近を許し、噛まれでもしたら終わりだ。復讐のためだとしても、わざわざ命を捨ててやるなど馬鹿げている。
「正気じゃないって思う?……まぁ、否定はしないけど。でも、ただ仇をとりたいっていうだけじゃないから」
夏希の態度は、確かに怒りや憎悪に支配されているというよりはまだ冷静さが保たれているように思えた。
だがそれでも、いやむしろ表面上は冷静だからこそ、まともでないように思えてならない。
「ゾンビはいずれみんな動かなくなって死ぬ。そう昨日言ったけど、多分あいつだけは違う。今後ここで生きていくことを考えたら、あいつは絶対に誰かが排除しなくちゃならない」
「でも今じゃなくていいはずだ。ゾンビ共がみんな死んでから、残った人を集めてじっくり対策を立て、安全に対処することだってできる」
「かもね。でも、そう都合よくいくかな」
怖いくらい鋭い声で、夏希が反論する。
「移動速度、移動範囲が大きいってことは、それだけで並みのゾンビ十体や二十体じゃきかない脅威だよ。私たちが準備を整える間に、一体何人の生存者が殺される?山上さんは知らないかもしれないけど、生存者十数人が集まって暮らしてるところだってあるんだよ。もしそんな場所が襲われたら、ひとたまりもないよ。私たちだって、不意にあいつに狙われたら逃げられない可能性は高い」
「だからって、わざわざお前が危険を冒す必要は」
「話はまだ終わってない。聞いて」
捲し立てているようで、その語り口は極めて落ち着いている。むしろ俺のほうがよほど落ち着いていない。これではどちらが宥めようとしているのかわからない。
とりあえず話を最後まで聞くべきなのだろう。少なくとも彼女は、いまのところ理性を保てている。
「もうひとつ、忘れてるかもしれないけどさ。あいつだってゾンビなんだよ、多分。ゾンビってことはさ、伝染するの。あれがもし突然変異だったとして、あいつに噛まれた後食い殺されずに運よく逃げ延びた人がいたら、そいつはどうなる?……美奈もさ、多分だけど死ぬ直前ゾンビになりかかってるみたいだった。ただのゾンビになるならいいけど、あんなのが二体三体に増えたら目も当てられないよ。……危険なのはわかってる。でも私にはこれがある」
そう言いながら夏希は腰に下げた銃を手で触る。
確かに接近せずに攻撃できる銃なら、傷を負わずに倒せるかもしれない。危ないとはいえ所詮は人間程度の身体能力なのだ、銃を使って殺せる道理はある。
今の話、特に後半に関しては憶測に過ぎない。だが否定するにも肯定するにも確実な証拠がないのだから最悪を想定するしかない。
なんという娘だ。大切な人を殺された極限状態で、あくまで冷静に状況を俯瞰し、そのうえで身を危険に晒す決断を下そうとしている。彼女のような人間をこそ、英雄と呼ぶに相応しい。
確信する。彼女のような人間は、この世界に必要だ。絶望に染まった世を希望に導く可能性を秘めた、稀有な若者だ。俺なんかよりずっと、生きる価値がある。
ならば、俺の決断は。俺は、こいつを生かすために、何をすべきか。
「もちろん、ついてきてなんて言わないから。一人で何とかするし、……もし失敗しても、ちゃんと死ぬから。迷惑はかけない」
「……やめろ」
少女の決意は揺らがない。友の仇という因果はあれ、彼女の決断はあらゆることを見据えたうえでの尊いものだ。俺のような凡人には、汚すことなど許されないのだろう。
だが。それでも、ひとつだけ、どうしても許容できないことがある。
「やめないよ。悪いけど、これだけは譲れない」
「違う。失敗するなんて言うな。死ぬつもりならやめろと、そう言ってるんだ」
彼女は、絶望の過去のためにではなく、未来の、希望のために戦うと、そう言ったのだ。ならば、それを貫くべきだ。
「やるなら、生きるため、生かすためだ。じゃなきゃ勿体ない。……それなら、俺も手伝うから」
今度は夏希が驚愕を表情に浮かべる。
「いや、え?死ぬかもしれないよ?」
「お前が言うか」
「えぇ、いやでも、私に付き合う理由、山上さんにないでしょ」
「理由ならある。……俺も、希望を見たくなった」
俺の命など元々あってないようなものだ、なんてことはもう考えない。生きる理由、命を使う目的など、それくらい適当でも別にいいのだ。いや、むしろ適当なほうがいい。たとえ負い目があろうとも、たとえ救いようのない罪人の命でも。
「……わかった。でも、山上さんも死なないでよ」
「ああ。一緒に生き残ろう」
右手を夏希に差し出す。夏希が応じてその手を取り、握手を交わす。
始めるのだ。生きるための戦いを、このろくでもない世界の片隅で。