1 セーラー服と水着とカップ麺
ゾンビ、と言うのだろうか。
曰くそいつは動き続ける腐った死体で、人を襲って噛み、噛まれた人間もまたゾンビになるのだのいう。
ホラーの一ジャンルに端を発し、パニックものやポストアポカリプスなどの要素も取りこみ一つのジャンルへと変遷を遂げた架空の怪物。
そいつがいま、俺の視線の先にいる。
一匹や二匹ではない。意思なくさまよい歩く屍が、ぞろぞろと港に群れを成しているのだ。
悪夢そのものだ。よもやこのような光景が現実になるなんて思いもしなかった。
「ったく、どこのバカがあんなもん作ったんだろうな」
まさか自然発生した訳ではあるまい。だってゾンビだそ?創作の産物が現実にやってくるなど、誰かが狙わなければまず有り得ないだろう。まぁ狙ったとしても実現できるとはにわかには信じ難いが、現実に起こっているのだからそこに関しては理解せざるを得まい。
始まりは一ヶ月ほど前のことだった。いきなり昼のニュースで阿鼻叫喚と化したアメリカ西海岸の中継映像が流れてきたかと思えば、次の日には我が国でも同じ災禍が発生し、瞬く間に全国に広がったらしい。らしい、というのは通信手段が失われてからは遠くの状況がわからなくなったからだが、ともあれ馬鹿げた感染力だ。
驚く程にあっけなくあっという間だった。知り合いも友人も生ける屍へと変わり、家族に至っては安否を確認する手段すら失われ。それでも逃げ延びた俺は、偶然にもこのクルーザーを見つけ、ゾンビが蠢く陸を離れ一人海の上でこうして今日まで生き延びてしまった。
水や食料の調達や給油のために定期的に陸に戻る必要はあるが、せいぜい一週間ごとであり、普段やる事といえば安全圏から港のゾンビ観察くらいである。
「しかしゾンビには付きまとう疑問だが、あいつら意識とかあんのかね。ああはなりたくないよなぁ……ん?」
ふと、のろのろとうろつくゾンビどもの群れの中を、遠くから走ってくる人影を見つける。ゾンビではない。ゾンビに走ることなど出来ない。
目を凝らしてよく見る。女だ。しかも制服を着ている。中学生、いや高校生か。
可哀想なことに、少女の背後には、かなりの数のゾンビがぞろぞろと追いかけてきている。
いかなノロマなゾンビとはいえ、あんなにうじゃうじゃいる中を走り抜けるなど自殺行為だ。囲まれて動けなくなれば最後、晴れて怪物どもの仲間入りだ。そういう奴を何度も見た。あの少女もすぐにそうなるだろう。
助けなければ、とは思わなかった。今いったところでなんの助けにもならない。怪物の餌食が一人から二人に増えるだけだ。だから仕方ないのだ。これは俺の責任じゃない。そう自分に念押しして、それでもみなかったことにするほど無情にはなれず、ただ傍観者を決め込む。
そうして生き延びてきた。そういう世界なのだ、ここは。だから目の前で少女が怪物の群れに飲まれても、そういうものだと納得するしかない。
そうして成り行きを見守ることにするが、少女はなかなかしぶとかった。
軽やかな身のこなしでゾンビをかわし、ときに棍棒で殴り倒し、決して足を止めない。さらに鞄から時計を出したかと思うと、明後日の方向に転がした。動くものや音に反応するゾンビの習性を利用した囮だろう、すぐにやかましく鳴り出した時計に、近くにいたゾンビの多くが足を向ける。
しかしそれでも囮に惑わされず少女に向かうゾンビも一定数残った。腐った死体を引き連れた少女は、方向を変えずまっすぐこちら側に──すなわち海に向かって走ってくる。
「あいつ、まさか!」
ゾンビは泳ぐことができない。まさか奴らの脅威から逃れるために、海に飛び込もうというのか。
少女は速度を変えずに走り抜け、ついに岸に辿り着く。予想通り少女は海に飛び込み、白い水飛沫をあげる。
少女を追っていたゾンビは海に入ることはせずにその場にしゃがんで手を伸ばすが、やがて少女に届かないと悟ると翻って再び徘徊し始める。
「無茶しやがって!」
ついに見兼ねた俺は船を動かして港まで近づき、水面から顔を出した少女に向かって救命浮輪を投げた。
「捕まれ!!」
舷にしゃがみ、船上から少女に手を伸ばす。白く、冷たい少女の手を掴むと、浮き輪ごと一気に引き上げる。ふと港の方をみると、エンジン音に引き寄せられたゾンビ共がこちらを見ながら唸り声をあげていた。
「沖に出るぞ!!」
少女を放って操舵室に戻り、船頭を反転させて港から離れる。十分距離をとったことを確認すると、俺は船のエンジンを切り、少女の様子を見にデッキに戻った。
「うわぁ、下着までびっしょびしょ……ん?」
制服のブラウスを絞っていた少女が、俺に気がついて顔を向ける。
「一応ありがとうとは言っておくけど。別にあげるもんは何も無いからね。助けてなんて頼んでないし」
「わかってるよ」
少女の姿に思わず顔を横に向けながら、船にあったタオルを手渡す。濡れて肌に張り付いたブラウスや透けてみえるブラジャーと、流石にこの年で女子高生に欲情するほど飢えているつもりはないものの、その格好は少々気まずい。
「ねぇ、なにか着るものない?」
「着るもんねぇ、悪いが俺のしかない……いや、たしか水着ならあった気がする」
「なんでそんなものあるの」
「知らねーよ。この船の持ち主に聞け。まだ生きてるかは知らねーけど」
「おじさんのじゃないの?」
「俺は見つけたのを借りただけだ。あと俺はおじさんじゃねぇ」
「そ。じゃあそれでいいや。ちょーだい」
助けられたにしては不遜な態度をとる少女に対し、まぁ秩序のない世界ではそれくらい強気でなければ女子供など生きられぬのだろうと目を瞑り、船内に戻って荷物を探す。
「お、あった」
三着ほどあった水着を全て手に取り、少女のところへ戻る。
「ほらよ。好きなのを取れ」
「ふーん。じゃあこれにしよ。ねぇ、着替えるからあっち向いてよ」
「へいへい」
少女に背を向け、よっこらせいと腰を下ろす。残り十七本しかない貴重な煙草を一本取り出し、おもむろに火をつけて吹かす。
「くっさ!ちょっと、私がいるのにタバコなんて吸わないでよ」
「おお、悪い悪い。一人じゃないの忘れてた」
「ほんとくっさい。タバコ吸う人って皆自分勝手で大嫌い」
「わからんでもない」
苦手だった愛煙家の先輩の顔を思い出しながら言う。
「わからんでもないって、おじさんも吸ってんじゃん」
「別にずっと吸ってた訳じゃねぇよ。普通にタバコとか嫌いだったし。ただこんな世の中だとなんかもういろいろどうでもよくなってなぁ、長生きとか考えるだけ馬鹿らしいし。まぁ、ぶっちゃけ美味いのか不味いのかよく分かんねぇけど」
「ふーん。でも私の前では吸わないでよ。私は長生きしたいから」
「わーったよ」
まだほとんど残っているタバコの火を仕方なく消す。とたんに手持ち無沙汰になった俺は、何をするでもなくしばらく水平線の向こうを眺めていた。
「夏希」
「え?」
「私の名前。お前でも別にいいけど。ねぇ、こっち向いて」
「おん?」
「じゃーん。どう?」
振り向いた先には、起伏に乏しい体にオフショルダーのビキニを纏った夏希がいた。この荒廃した世界にあって、年相応の無邪気さを孕んだその笑顔は、あまりにも眩しく見えた。
「……お前さぁ、もうちょっと、その、警戒したらどうだ。理性のはたらく奴ばっかじゃないんだぞ、ましてやこんな世の中じゃ」
「やだ、コーフンしてんの?」
「茶化すな」
「わかってるよ。そのくらい。でもおじさんにそんな度胸ないでしょ。てかさっむ」
「お前なぁ」
「ねぇ。なんか食べるものない?お腹すいちゃった」
ないことはない。昨日調達してきたばかりなので、ひとりで一週間以上は凌げる食糧を蓄えてはいる。だが。
「この情勢で食い物せがむって、どういうことかわかってんのか?お前」
「それもわかってる。でもおじさん私の水着姿みたじゃん。鑑賞料の代わりにさ」
「鑑賞料ってお前、からかってんのか」
「でも私に水着着させたのおじさんじゃん」
「着てくれなんて頼んでねーよ。……わーったよ。こっち来い」
言い争ってもきりがないと諦め、夏希を引き連れ船室に入る。
「うわっ」
床に転がった空の缶詰を蹴飛ばした夏希が声を上げる。
「なんだ」
「……なんでもない」
「そうか。ほらよ。悪いがこんなもんしかない」
海辺の倉庫からかっぱらってきたカップ麺を二つ取り出し、夏希に手渡す。シーフード味だ。ひと箱の中身をそのまま持ってきたので、ここにある分はすべて同じ味だ。
この一か月半の俺の食事は、もっぱら缶詰やカップ麺だ。特に缶詰は理論上何年経っても食べられるのでありがたい。今はまだカップ麺も食えるが、そのうちそれらの賞味期限が過ぎればいよいよ缶詰しか食えなくなるのだろう。
カップ麺を食べるには熱湯が必要だが、幸いクルーザーにはキッチンもあればといれもある。割と生活に不便はしない。
「いい船だね」
「そうだな。もっともこんないい船買っても、死んじまったら意味ないけどな」
床にこびりついた血痕に目を落としながら言う。
思えば俺が最初にこの船にたどり着いた時も、おおかた夏希と同じような状況だった。夏希と同じくゾンビから逃げて海に飛び込み、水の中で途方に暮れていた俺は、海上を漂うこの船を見つけた。最期の時を海の上で過ごしたかったのか、それとも噛まれたことに気づかず今の俺のような船上の逃避生活を営もうとしていたのか、ともかく俺が見つけたときこの船の主は既に動く死体になっており、熱烈な歓迎を受けたが、死闘の果てに何とか噛まれることなく無力化し、勝利の報酬とばかりにこの船をいただいたのだった。
ゾンビ共から逃げまわる日々は散々だが、普通に生きていたら一生縁がないであろうこんな高級クルーザーを我が物にできたのは、俺にとってのささやかな幸運だ。できることならここでの優雅な生活を手放したくはない。
コンロに手鍋を置き、湯を沸かす。
頃合いを見て火を止め、夏希からカップ麺を受け取って蓋を開けて湯を注ぐ。
「んじゃ、三分だな」
腕時計を確認しながらそう言い、片方を夏希に渡す。
「ほんとにいいの?」
「お前が寄越せって言ったんだろ。別にいいよ、飢えさせるために拾ったわけじゃねえし」
「そ。ま、一応聞いてみただけだけど」
「なんだよ」
じっと時間が過ぎるのを待っていると、ふと、夏希は学生鞄からスマホと黒い長方形の機械を取り出し始めた。彼女はそしてそれぞれよく拭いたのち両者をコードでつなぐと、黒い機械のほうを窓際に置き、スマホを操作し始めた。
「よかった。まだ生きてる」
「よく壊れなかったな」
「まあ、最近のは防水性能高いからねー」
「へぇ。てかいいなそれ。ソーラーチャージャーってやつ?」
「そう。いいでしょ。災害用にって、お父さんが買ってくれたんだ。まさかこんなことになるとは思わなかったけど」
この状況でスマホが使えるのは羨ましい。もはや通信はできないだろうが、それでも使い道は様々だろう。防水機能のない俺のスマホは海水に長く浸かったせいで動かなくなり、ただの錆びた鉄屑となってしまった。
「そろそろだな。いただきます」
「いただきまーす。って、え?」
カップに口をつけ、一気に流し込もうとした俺を、夏希が信じられないものを見るような目で見る。
「なんだよ」
「いや、箸使わないの?」
「ねーよんなもん」
「えー。私の使う?割り箸ならたくさんあるから」
「いいのか、サンキュ」
鞄の外側のポケットをまさぐり、出てきた割り箸を俺に手渡す。
ビニールの外装は水浸しだったが、中身は無事のようだった。
夏希のほうは、しっかり自分用の箸を使って麺を持ち上げふうふうとやっている。
「お前、箸なんか持ち歩いてんのか」
「ないと不便じゃん。フォークとスプーンもあるよ。あと缶切りとか」
「缶切りか。俺も欲しいな」
最近の缶は缶切りがなくても開けられるものが多く今のところは何とかなっているが、今後缶詰が主食になっていくことを考えるとぜひ持っておきたいアイテムだ。
「あげないよー」
「わかってるよ。必要になったら自分で調達するさ」
会話を切り、ラーメンをすする。化学調味料の食べなれたチープな旨味。こんなものばかり食べていればじきに体を壊しそうだが、食いたいものを選べる立場ではない。
「美味しい。海の上での食事っていいね」
「そうだな」
「ここならあいつらの唸り声も聞こえないし。いいなぁ、船の上の生活」
まったくその通りだ。ここでの生活は、ゾンビが蔓延る世界でのサバイバルにしてはかなり上等だ。欠点を上げるとするならば、生き続けなければならないことだろう。
「おじさんさ、ずっとここで暮らしてんの?ひとりで」
「悪いかよ。てかおじさんって呼ぶのやめろ。俺はまだ二十五だ」
「え、うそ。てっきり三十越してると思ってた。じゃあさ、何て呼べばいい?」
「山上でいい」
「ふーん。山上さんね。」
てっきりふざけているのだと思っていたが、まさか本当におっさんだと思われていたとは。まぁ髭も伸びっぱなしなのでそのように見えても無理はないのかもしれない。ストレスで白髪も増えているのかもしれないし。
麺を食べきり、残ったスープも一気飲みする。体にはむしろ毒かもしれないが、水だって貴重なのだ。飲まずに捨てる気は起きない。
「ごちそうさまー。ゴミはどうすればいい?」
「そこのゴミ箱にでも捨てとけ」
「はーい。さてと」
スコーンと、小気味いい音をたててカップがゴミ箱に投げ入れられる。俺も食い終わったカップを潰して割り箸と一緒にゴミ箱に捨て、立ち上がる。
もう昼下がりだ。やることもないのでデッキでうたた寝でもしようかと船室を出ようとすると、夏希に「待って」と声を掛けられる。
「ねぇ、山上さん。この船、港に戻してくれない?今すぐに」
「断る。お前を降ろすのは賛成だが、今じゃない」
「なんで」
「まず奴らの少ない、比較的安全にあがれる岸を探さなければならない。場合によっちゃかなり時間がかかる。夏は日が短い、もたもたしてると日が暮れちまう。奴ら目より耳のほうがいいから、夜は分が悪い。動くなら朝だ」
「よく知ってんだね、あいつらのこと」
「当然だ、いつも見てるからな」
伊達に日頃から奴らのことを観察しているわけではない。船上の生活とてずっと海にいられる訳ではない、奴ら相手の立ち回り方を考えなければ簡単にやられてしまう。
「でもそれじゃ駄目なの。私さ、地上に友達を残してきちゃったんだ。別れるときに約束したんだ、今日の夜に私たちの拠点で落ち合おうって。今日行かなかったらもう一生再会できないかもしれない。だからお願い。今すぐ陸に戻して」
友達、か。気持ちはわかるが、しくじって永遠に会えなくなってしまっては元も子もない。下手をすれば俺まで巻き添えだ。
「だから、断る」
「そう。──これでも?」
直後、左のこめかみに冷たく硬いものがあてられる感触。
それは、拳銃だった。