浮上
実家に帰ると迎えてくれたのはいつぞやの冷血な目線と使い古されたバットだった。何故、ここに戻って来てしまったのか。無意識化に歩いてきた青年には分からない事だった。帰巣本能なんて言葉があるが青年はここを巣とは認めていない。自分でも不可解な現象に自然と笑いが込み上げてしまった。これが原因となり青年は撲殺された。
短いような長いようなどこにでもあるような人生。その終わりの先に白い世界が待っていた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
遠くから声が聞こえてきてシーフの意識が覚醒する。こんな状況も何回目だと心で数えるがもう分からない。重い瞼を抉じ開けその瞳に世界を映し出す。そこにはこちらを覗き込むエナベルとケイアの顔があった。
「どのくらい寝てた?」
「少しだけじゃ。解呪の瞬間シーフが倒れての」
「呼びかけにも応じないから心配したわ」
シーフの体感だと長い長い、それもひとりの人生を体感したくらいの時間感覚だったが現実では少しの間の出来事だったらしい。
「そっか。悪い悪い、前世の記憶思い出してた」
「そうだったのか」
「前世って何の話かしら?」
「いや、ほんとだよ!サラッと流しちゃったけど思い出したのかい?」
ケイアはともかくヘルメスにはもっとしっかりして欲しいなんて考えながらも説明する。だが、その前にシーフにはひとつ確認したいことがあった。
「なぁ、タリート婆さん。呪いを掛けた相手は分かったか?」
タリートは自分の見た者が信じられずどちら側に付くか悩んでいた。この村で生まれ育って来たタリートに信心深い心は無い。それでも聞かずにはいられなかった。
「……おぬしは悪魔なのか?」
「いいや、人間だぜ?」
残念ながら悪魔は隣に居る幼女の父親の事だ。
「……呪いを掛けた者の名はヘレア。身体は細く美しく長い髪を手入れされている様子が浮かんできたのじゃ」
「つまり……」
「──俺に呪いを掛けたのは女神って事だな」
解呪され夢を見ている時にそうでは無いかと考えていた。シーフに呪われている自覚も制限されている事も無い。唯一あるとすればこの記憶だけ。解呪のタイミングで記憶が戻ったとなれば大方これが呪いなのだと察する事は簡単なものだった。
「なんでシーフが女神様に呪いを掛けるの?それにさっき言ってた前世って何の事かしら?」
ケイアの質問にシーフは頭を悩ませる。前世の事を話すとなれば天啓の事も必然的に話さなければいけなくなる。ヘルメスと同じでケイアにもシーフの天啓が宿っている。これまで忌避してきた事をこうも立て続けに言わなければいけなくなるとはツイてない。どうにかはぐらかす事は出来ないかと考えるがケイアの鋭い目線の前では到底無理な事だった。シーフはおとなしく事の経緯を話す事になる。
「そうだったのね。それで中々言い出せなかったと」
「ああ、まぁそうだな」
「そんなの気にしなくても返す気なんて無いから良かったのに」
その気になれば強制的に回収は出来るのだが、これはケイアなりの優しさなのだろう。今回はそれに甘えさせて貰って良しとする。
「だけど私はその前世の話はよく分からなかったわ」
「僕もそれが気になってたんだ。シーフ君、記憶が戻ったって……大丈夫かい?」
ヘルメスの心配はシーフに対しての物だろう。決して■■への物じゃない。記憶というのは人格を形成する上で最も重要だと言っても過言では無いものだ。シーフとしての人格が綺麗さっぱり消え去ったとはこれまでの会話で分かっているとは思うがこれまで紡いで来たシーフという人格が前世の記憶の注入で変化してしまうかも知れないそんな危惧をしているのだろう。
「大丈夫だよ。あんまりいい記憶じゃ無かったけどな。前世の記憶って言っても何か他人の人生を覗いてる感じだったからな。あくまで今の俺とは別人。そんな感覚さ」
「そうだったのか……良かった」
「良く分からんがシーフはシーフなのじゃろ?」
「そうだな」
「それなら問題は無いの」
そう、何も問題は無い。シーフは記憶を取り戻してもシーフである事に変わりは無いから。それにシーフは記憶以外にも取り返した物があった。
「それと天啓の事なんだけど──」
「──おい、少しいいか。お前ら」
シーフが少しだけ気を失っている間に仮屋に入って来ていた坊から声が掛かる。
「ん?なんだよ坊ちゃん」
「いい加減坊と呼ぶのは止めてくれないか。僕は婆ちゃんにも止めろって言ってるんだ……」
「いや、名前知らんし」
「儂も知らん」
「私も知らないわ」
「そう言えばずっと坊って呼んでたね」
タリートが少年を坊と呼んでいるせいで誰も本名を聞こうとしなかった。そのせいで誰も坊の名前を知らない。
「なんでだよ……確かに思い返してみると僕が名前で呼ばれた事が無かったな。いいか、覚えとけよ。僕の名前はセイン=カルトス、お前の天啓の保持者だ」




