第三章 見えない敵 其の二
不満を抱えながらラジュエルは道具小屋へ入った。日暮れが近く小屋の中は暗い。毛布もなく狼もいないので、寒さがじかに骨身にこたえる。藁があると言っていた小屋へに行き、山のような藁を抱えて道具小屋へ戻った。藁の中に入ると少しはあたたかい。
埃くさい藁に潜り込みながら、せめて狼がいてくれたら、と願っている自分に気がついた。この村へ来てから楽しいことも嬉しいことも何もなかった。いっそのこと、村へ入らなければよかったのかもしれない。
ノコイディ村でなんとか自分が村へ入れて神官から祝福までもらえたのは、生まれ育って小さい頃から自分を育んでくれた村だったからだ。あの忌み人の老人はどこへ行ってもこんな扱いを受けていたのだろうか。それなのに彼のあの平和な顔つきはなぜだったのだろう。
老人にまた会いたかった。もうこの世の人ではないだろうが、彼の最後の言葉が気にかかる。『わしはこのあとも幾たびかおまえに出会うだろう』と言っていた。死んでしまえばもう会えることはないにちがいないのに。それとも、あれは、僕が死んだあと、死者の世界で会えることを言っていたのだろうか。
――いっそのこと、狼がここへやって来たらいいのに。そうしたら、村人はびっくりすることだろう。
あのぎょろ目の神官が、狼を前に一目散に逃げ出していく姿を思い描いて、ラジュエルは愉快な気持ちになった。
だが、ひとしきり空想の中で爽快感を味わったあとは、かえって申し訳ないような気持ちになった。本当はみんなを困らせることを望んでいるわけではない。大いなる方はそんな悪戯を望まないだろう。ただ、ちょっと悲しいだけなんだ。
目を閉じて眠ろうとした。うとうとしかけたその時、
――すべてのものは導きじゃ。
暗闇の中、声が聞こえたような気がしてラジュエルは、はっと身を起こした。見回してみても誰もいない。狼が訪ねてきたのではと思って小屋の外にも出てみたが何の気配もない。
もう一度声が聞こえてこないか耳を澄ませてみたが、外の風の音がするばかりで人の気配はしない。
「空耳か……」
あるいは夢を見ていたのかもしれない。だが、こんなことは今まであまりなかった。老人と出会って洞窟を後にしたとき、狼が自分に語りかけたような気がした。その時も、自分の心の声を聞いているのと区別がつかなかった。今もそうかもしれない。
「どうかしてる」
首をふって藁の中に戻り、もう一度目を閉じた。深い眠りの底に沈み込みながらも、あの声が再び聞こえないか待ってみたが、二度とは聞こえなかった。
翌朝は朝食の前に、壊れた祭壇の修理を言いつけられ、大工仕事を終えるとようやく昨日と同じ黒いパンとエール(酒)にありつけた。美味しくもないエールでぱさぱさしたパンを流し込むように食べおわると神官が機嫌よく言った。
「なかなか役に立つな。もしおまえが望むなら、ここの下働きとして置いてやってもいいぞ」
「いいえ。僕は旅に出ないといけませんから。宿をありがとうございました」
「どこへ行くんだ」
「西に向かえと言われました」
それを聞くと神官は怒ったように見えた。
「谷間の風のはじまるところへか」
「なんですか、それは」
はじめて聞く言葉だったが、聞いた途端、胸がとくんと高鳴るような気がした。
「ふん、欲の皮のつっぱった愚か者はみんなそこへ行けば望みのものが手に入ると思いこんどる。おまえもどうせ金とか女とか、つまらんものをほしがってるんだろう」
「本当に何も知らないんです。それは何のことなのか教えてください」
神官は本当に怒ったように顔を赤くしてまくしたてた。
「聞く耳を持たない奴に何を忠告しても無駄だ。行って自分の目で確かめるんだな。おまえのような馬鹿者は何もかも失ってようやく目が覚めるんだ。命まで失わなければいいがな」
吐き捨てるように言って神官は家に引っ込んでしまった。
「僕が聞く耳を持っているかどうか、あなたにはわからないじゃないですか」
話しかける狼もいなかったので、ぽつりと独りごちて、ラジュエルはトネリコの杖を持って村をあとにした。
村へ入った時は北側から入ってきたが、南へ行くよう言われていたので南側から村を出た。わかってくれているかどうか心配していたが、狼は村の南側で人から見えないぐらいの距離で待っていてくれた。
「ジュート!」
思わず嬉しくて駆けだした。狼がパタリと尻尾をふる。犬のように大喜びで駆けよってはこないが、狼も自分に会えて嬉しいのだとわかる。
ほっとして、さっきの村の愚痴を言いかけたが、そんなことを狼に言ってもしょうがない。それよりも『谷間の風のはじまるところ』という言葉を知ったことを話したかった。あまりにも狼が自分のことを受け入れてくれるので、相手は獣で人間の言葉はわからないという気がしない。
「僕が聞いたあの声は、本当にあの老人が言ったんだと思う? 導きっていうのが、『谷間の風のはじまるところ』という名前を知ることだったんだろうか」
語るのは勝手だが、答えは返ってこない。語るだけ語ってしまうとすこし空しくなった。いったい誰が本当の答えをくれるのだろう。とりあえず今は、その言葉を頼りに進むしかない。
その晩は森の入り口の、大きな岩が屋根のように張りだして雪が遮られている窪地に泊まった。岩が転げ落ちてこないか心配だったが、狼が案内してくれたところなのできっと大丈夫なのだろう。窪地には乾いた落ち葉が溜まっていて柔らかい。その地面に敷いたマントにくるまって眠ると狼がぴたりと身体を寄せる。
風もなく狼の身体は温かく、ぐっすり眠ったあと、翌朝は元気になってまた歩き出した。もうすぐ町につくはずである。
町には昔、叔父が住んでいた。昔、というのは、叔父はもう亡くなったと聞いているからである。
父の弟であるその叔父は以前はノコイディ村に住んでいて羊飼いをしていた。父から聞いた話では、羊毛を商人に売るのが利益が少ないことに気づいて、自分で商売を始めたということだった。一度はそれで一財産を成したという。ラジュエルが訪ねた頃、叔父は町の石造りの家に住んでいた。その家には窓ガラスというものがあって外から差し込む光が明るかった。パンは白くて柔らかかった。
『こんないい仕事、やらない手はないよ。兄さんも自分でやったらいいのに』
『俺は慣れないことをやるのに向いてない。村で羊の世話をするのは間違いのない仕事だ』
父と叔父がそんな言葉をかわしていたのを、なんとなく覚えている。
叔父が亡くなった知らせが届いたのは三年ほど前だった。だまされて財産をすべて失ったと、父と母が話していた。子供心に、それなら村へ帰ってきたらいいのにと思った。それなのに帰ってこなかったのは、町の生活から離れられなくて『博打』というものに手を染めたからだと父母は言っていた。
『帰ってくるお金すらなかったのかい』
『恥ずかしかったのかもしれない。自分はこんなに成功したんだ、立派になったんだと思われていたのに失敗して戻ってくるのが。そんなこと気にしないで帰ってきたらよかったんだ』
『町の生活ってのはそんなに魅力的なもんなのかねえ』
『なにかに「取り憑かれた」のだと神官様が言っておられた。見えない敵がそこにもいたんだ』
取り憑かれるというのは、どんな魔物にやられたんだろう、見えない敵ってなんだろうとたくさん疑問があったが大人は教えてくれなかった。
山あいの高いところにあるノコイディ村を離れて、だんだんと道は下りになってきていた。雪も少なく地面からときどき顔を出して農作業の邪魔をするごつごつした岩も減ってきている。荒野ではなく畑や牧草地らしいゆるやかな丘陵が薄い雪の下に広がっている。町が近づいているのだ。
日が傾いてしまう前に泊まれるところを探したかったが、ここでも狼を連れているので人々はラジュエルを見かけるだけで逃げてしまうか、武器を持って怒鳴ってくるかのどちらかだ。この狼は大丈夫なのだと言いわけをすることすらできない。
春から秋の季候のいいときなら羊とともに野で眠ることは慣れていたが、今は冬である。眠るには地面が乾いて風をよけられるところを探したい。
道ばたの道標の石に腰掛けて、残り少なくなった堅パンと葡萄酒を大切に、少しずつ食べた。
「こういうとき『導き』があったらいいのに。どこで寝たらいいとか、食べ物はどこに行けば手に入るとかさ」
狼に話しかけるのもすっかり馴染んでしまったことなのだが、ここでは近く人がいるかもしれない思って小さい声で言った。狼は答えない。
だが、そのとき、薄汚い服を着た若い男が近づいてきたのに気がついた。この男も狼を恐れるにちがいないと思い、ラジュエルはちらちらと男の様子を気にしつつ狼に話しかけるところを見られないように気を配った。
ところが痩せぎすのその男は自分からひょこひょこと近づいてきた。
「『力あるもの』を連れてるじゃないか」
ラジュエルは驚いて男をまじまじと見つめた。狼のことをそう呼んだのは、あの忌み人の老人だけで、村の神官も婆様もそんな風には呼ばなかった。
「君は何か知ってるのかい」