第三章 見えない敵 其の一
第3章 見えない敵
次の日の午後には、となり村に着いた。
この村には昔来たことがある。町に住む叔父を、父と一緒に訪ねて行ったときにここを通ったのだ。しかし、それはまだラジュエルが羊飼いの見習いを始めたばかりの頃で、詳しいことはあまり覚えていない。村の宿で王城のある街へ向かう巡礼者と一緒に食事をした。山のような羊毛を積んだ馬車を見た。断片的にそんな記憶があるだけだ。
村へ入ろうとすると、道にいた女が悲鳴を上げて村の中心部へ走って行った。と思うと、大柄な男たちが何人か走ってきて怒鳴った。手には棍棒やら鋤やら武器のようなものを持っている。
「おい、おまえ! そんな獣を連れていったいどうするつもりだ。俺たちの村に悪さしようってんならただじゃおかねえぞ!」
ここでもまた狼が拒否されているのだ。
ラジュエルは振りかえって狼を見た。また狼に遠慮してもらうか、自分が狼と一緒にこの村へ入るのをあきらめるか。
狼に悪いという気持ちはあったが、また昨夜のように樹の精に殺されそうになるのは怖かった。トネリコの杖は護ってくれることはわかったが、それにしてもゴツゴツした樹の洞は寝心地が悪いし、堅パン以外のものが食べられるなら食べたかった。
狼がパタリと尻尾を振る。
「ごめん。一晩だけ待っていてくれ。僕がまた村を出るときのことはわかるかい?」
うなずきはしなかったが、なぜか狼は理解してくれたのだと感じた。これ以上狼に話しかけて村人たちの恐れを呼び起こすのはまずい。ラジュエルは狼の目を一度しっかり見つめてから、村人たちの方へゆっくりと歩いて行った。
「すみません。旅の者です。あの狼は僕が飼っているというわけではありません。ある老人から預かったもので、よく人に馴れています。村を襲うことはありませんが、ご心配もわかります。僕も羊飼いでしたから」
丁寧なもの言いと羊飼いと名乗ったことで、男たちの警戒がすこしほぐれたようだった。老人がもう亡くなっていることは言わなかった。もとの飼い主がいなければ狼はラジュエルに属するということになり、また恐れられてしまうだろう。
「宿屋を探しているのか。金はあるか?」
「いえ、あまり……」
あまりどころか、金と呼べるものはいっさい持っていない。村で暮らしている間は、金貨や銀貨は必要なかった。町に行く時には必要になると聞いたことがあったが、そんな機会は滅多になかったので、金を持って歩くということをラジュエルも両親も思いつかなかったのだ。
男たちはひそひそと相談した。
「神殿の下働きをすれば、一晩ぐらいは泊めてくれるかもしれん。狼は本当に大丈夫なのか」
「少なくとも、ノコイディ村の羊は一頭も犠牲になっていませんよ」
歩いて二日のノコイディ村の若者と知って村人はすこし警戒を解いたようだ。数人が狼の去った後を用心深く見つめていたが、大柄な村の男は先に立って案内してくれた。
村の神殿はノコイディ村のものよりも古く小さくて、出てきた神官は年老いていた。神官は痩せた顔に目立つぎょろりとした目でちらりと見て尋ねた。
「泊めてもらいたいと。何ができるのかね」
「仕事は羊飼いです。もしお望みなら、あそこの壁の壊れているところを直します」
ふうん、と神官は値踏みするようにラジュエルの服装を上から下までじろじろ見やった。
「まず薪割りをしてもらおうか」
官舎の裏に回ると、整えていない木の枝や丸木がうずたかく積まれている。近くの斧を手に取ったが、ずっと手入れされていないようで錆びついていた。
「斧を研ぎたいのですが」
「砥石ならこちらだ」
ほっとしたような口調で、神官は道具の入っている小屋へ案内した。そこから砥石をみつけ、まず斧の手入れから始めた。
「終わりましたよ」
たっぷり十日分の薪を割りおえてラジュエルは神官に報告に行った。とてもお腹がすいている。ずっと歩いてきた上、昨日から堅パンしか食べていない。しかも薪割りは力のいる仕事だ。神官は表情を変えずにラジュエルの報告を聞くと、次は川へ水をくみに行くようにと言った。
何ももらえないのでがっかりしたが、神殿のために働くことは、大いなる方の為になることだと自分を励まして、凍った川の表面を割り、二つのバケツに水をくんで帰った。それを樽に空けたあと、もう二回水くみに行かされた。
終わると神官の部屋の壊れている窓を修理し、古い浄衣を繕うよう言われた。すべてが終わった時にはもう日が暮れかけていた。
「ご苦労だったな。では食事を与えよう」
ようやく食事と寝床にありつける、と喜んだのもつかの間、与えられた食事はぼそぼそした黒いパンの残りと薄めたようなエール(酒)だけだった。少しはミルクやチーズなどもと期待していただけに、裏切られたような気持ちだった。しかし、これで母が用意してくれた堅パンは節約できると考えて、与えられたものを食べた。
「今夜はここで寝なさい。よもや、あの狼はおまえが寝ている間に村を襲ったりしないだろうね?」
案内されたところは、あの道具小屋だった。狼の話をするとき、神官の顔に隠しきれない怯えが走ったのにラジュエルは気がついた。
「いいえ、そんなことはしません」
断言できるほど自信があったわけではない。だが、正直に言って、この神官のことは好きになれない。もし狼が自分を心配して夜中にやってくることがあっても、そんなことは構うもんかと思った。それに、今までの行動を見れば、狼は人を襲うことはないだろう。
小屋には道具が雑然と放り出され暖炉もない。
「毛布を貸していただけませんか」
「余分な毛布はないよ。向こうの小屋に藁がある。そこになら入ってもいい」
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エール(酒)について
大麦麦芽から作られたビールのような酒。昔のヨーロッパ(厳密には、この国は架空の国ですが)では良質な飲料水を確保するのは難しかったため、保存のきくアルコール飲料を水の代わりに飲んでいたそうです。アルコール濃度が薄いのと、人種的にアルコール分解酵素を持っているため、子供でも飲みました。作中でラジュエルが葡萄酒やエールを飲んでいるのはそのためです。