第二章 トネリコの杖 其の三
山小屋に戻って狼と夜を越した翌朝、まだ眠気の残るぼうっとした頭でラジュエルは昨日、母とかわした会話を思いおこしていた。
もう一度家に帰るべきだろうか。
羊を追って子供の頃からよく知っている山に行くわけではない。まったく知らない場所に行って知らない人々に会い、思いもよらなかったことを経験するために旅立つのだ。
妹が言ったように、もしかしたら生きて再び家族に会えなくなることだってありうる。母の気持ちがわからないほど、もう子供ではなかった。
だがなぜか、戻るべきではないと思えた。母のため、家族のためと一生懸命に考えても、どうしてもそれは今するべきことではないと心の声がする。
自分の心が冷たいのだろうか? そう考えてみても、家へ帰る気持ちは奮いたたない。起き上がって堅パンを食べて葡萄酒を飲み、扉を開けて外の景色を眺めてみると、今すぐ旅立たなければいけないという思いはいっそう強くなった。
ちらと狼の方を見ると、その決意は正しいと言ってくれるように、深い金色の目に浮かぶ強い意志が見て取れた。
「行ってくるよ」
聞かせる相手もいなかったが、村へ向かってそう口に出す。
朝の祈りの時に、家族は自分のためにも祈ってくれている。ラジュエルも家族のため、婆様や神官のため、村の人々のために短い祈りを捧げて、山小屋を後にした。
昼のうちは雪の中とはいえ、道も明るく世界は楽しいところに思えた。迷いなく進んでいく狼のあとについて、足どり軽くこれからなにが起きるのか期待に胸をはずませながら、新しい温かい長靴で歩いた。
だが夕暮れが近づくにつれ、空気は冷え冷えとしずんでいき、かたむきかける西日はみるみる明るさを失っていく。次の村まではまだ遠く、藍色の宵闇がおとずれるまえに寝床を確保しておきたいのに狼は気にする素振りさえ見せない。
「今夜はどこで寝たらいいのかなあ。おまえは毛皮があっていいかもしれないけど、人間はこの雪の中で寝たら凍えてしまうんだよ」
旅に出るのを、よりによってこんな真冬にしなければよかったと後悔しながらちらりと狼を見た。狼はふりむきもせず歩きつづけている。
このまま狼は歩きつづけるのだろうか。野生の狼は一度獲物を定めるとどこまでも追っていき、相手が疲れきったところで仕留めるのだと聞いたことがある。この場合、獲物が自分でなければいいがと、ふとまた不安が頭をもたげた。
急にまた狼が目の前の目標に向かって突進したかと思うと、なにか小さな動物を仕留めていた。食事の時間のようだ。
この雪の中では地面に座るとかえって凍えてしまう。一日歩いて足はもう動かなくなりそうだったが、ラジュエルは立ったまま荷物から堅パンを出して食べた。
大空に広く夕闇の支配が始まっている。
食事を終えた狼は、つと道の周りに広がっている森へ入っていった。もうじき夜が来るというのに森に入るのは危険極まりない、と考えて、それは無意味な心配なのかもしれないと思い直した。
夜の森が危険なのは狼や熊などの怖ろしい動物がいるからだ。その最たるものが一緒にいてくれるというのに何を恐れることがあるだろう。もう一つの夜の危険、人間の盗賊に対しても、こちらは狼がいるのだから怖くはないにちがいない。
狼は迷いなく奥へ奥へと歩いて行く。低く垂れる木の枝や雪だまりを苦労して越えながらついていくと、一本の巨大な樫の樹があった。相当古い樹らしく、根元に大きな洞が穿たれている。
「ここで寝るのか……」
よい場所だと思った。立って入れるほどではないが、しゃがんで入りこむとラジュエルと狼が丸くなってもまだゆとりのある大きさの洞である。奥の方には雪も積もっておらず風もよけられる。いい場所へ案内してくれた。なるべく地面がごつごつしていない場所を選び、マントを広げて敷くとその上に座ってぐるりと身体をくるんだ。狼が温かい身体でぴたりと寄り添ってくれる。
朽ちかけた樹の内部の壁に寄りかかると、すぐに眠気が襲ってきた。
一日ずっと歩き続けてきたのだ。屋外で仕事をするのはいつものこととはいえ、慣れない経験ばかりで疲れたのだと、ここに来てやっと気がついた。
夢なのか、現なのか、耳慣れない声が聞こえたと思った。
――トネリコを持っているよ。大きな大きな古いトネリコだよ。
――この子はわたしたちを傷つけるのかい。
――この子は自らトネリコを傷つけたのだよ。おお怖い。
――悪い子、悪い子だね? 悪い子は殺してしまうよ。
――わたしたちを傷つけるまえに殺してしまうよ。
嫌な感情が胸の中にわき起こった。やはり御神樹を傷つけてはいけなかったのだ。
動こうと思っても身体が動かない。胸を何かが強く圧迫しているようだった。
苦しい。胸と喉首が堅いものに押さえつけられて、息が苦しくなってきた。ゴホゴホと咳が出る。押さえつけているものをはずそうと、両手を胸に持ってこようとしたが、その両手も何か硬いものに押さえつけられて動けない。
グルル、と狼が低くうなる声がすぐとなりで聞こえるが、押さえる力は弱まらない。ゴホン、とまた咳が出る。
この力は古い樹の精霊かもしれないと気がついた。昔話に出てくる樹の精霊は悪い人間は懲らしめ良い人間には贈り物をくれた。自分はトネリコを斬ってしまったから、悪い人間だと見られているにちがいない。
――このまま命をもらってしまうよ。
助けて、と誰にともなく呼びかけた。御神樹を切ったのは自分が決めたことではないのだ。神官様と婆様がいいと言ったから、ばちならあたしにと婆様が言ってくれたからなのだ。
といって婆様に、自分の代理としてこの苦しみが起こってほしいとは思わない。婆様に起こるぐらいなら自分に起こった方がまだましだ――。
そう思った時、ふっと押しつぶそうとする力が弱まった。
――お待ち。
深い響きを持つ別の声が聞こえた。ずっと昔から心の奥で知っているような声だった。
――私は自らすすんでこの子の守護になろうと誓ったのだ。私はこの子の村を護るもの、村が長年私を崇め大切に護ってくれたように、私は村の人々を護るつとめがある。この子は自分のためではなく古い力のために旅立たなくてはならなかった。私がこの子を護ってやらねば。
ふわりと身体が軽くなる。胸と首を押さえつけていた力が消えていき、ゆるやかな温かい空気が周りを包んだ。
――おやすみ、愛しい子よ。わたしはおまえを、おまえを育てた村を裏切らない。今はゆっくり眠りなさい。朝までゆっくり休みなさい。
そんな声が聞こえた気がしたのは、夢の中だったのかもしれない。
目覚めたときには、外の雪が朝日に明るくきらめいていた。
喉にまだすこし違和感がある。触ってみると熱く腫れていた。
本当のことだったのだと、ぞっとして洞から出て樹を見上げる。あれは樹の精霊で、本当に自分を殺そうとしたのだ。
狼はまだ洞の中に座っていた。そのとなりに横たえたままのトネリコの杖を、そっと持ち出して、額の高さまでかかげた。
「ありがとう……」
昨日救ってくれたのは、まさに御神樹のこの杖だったにちがいない。神官が祝福を与えてくれたこの杖には力があると言っていた。これがなければ樹の精霊に殺されかけることもなかったのかもしれないが、護られることもなかった。
自分の額に祝福の星印を描いて、ラジュエルはあらためてトネリコの杖を胸にぎゅっと抱いた。