第二章 トネリコの杖 其の二
ついておいで、と婆様は立ち上がった。
この雪の中でとラジュエルはまた説教しかけたが、言うことを聞く相手ではない。婆様はすたすたと歩いて村の神殿の敷地に入っていった。
神殿の庭にも雪がふりつもり、日差しに明るくきらめいている。その中央に天を支えるほどのトネリコの大樹があった。樹の下に立った婆様はしばらく見上げていたが、やおらその一本の枝を指さした。
「あの枝を切っておいで」
えっとラジュエルは驚いて、思わず尻込みをした。
「御神樹なんか切ったら、ばちがあたるよ」
「こういうときのための御神樹だ。ばちならあたしに当ててくれるよう祈っとくよ。おまえは失われた太古の魔法を求めて行くんだ。その羊飼いの杖じゃあ心許ない。太古の昔、神々はトネリコの樹から男を、ニレの樹から女を作った。生命の源である大トネリコの杖はきっとおまえを護ってくれる」
いつのまにか出てきていた神官に婆様がわけを話すと、神官は近づいてきてラジュエルの額に向かって祝福の印の星形を指で描いた。
「いいんですか? 御神樹を切ってしまって」
「婆様の言うとおりだ。御神樹は私たちを護るためにある。いたずらっ子が傷をつけるためではないよ」
小さい頃、友達と一緒に御神樹に登ってひどく叱られたことを、神官はまだ覚えているだろうかと考えてちらりと彼を見たが、その素振りは見えなかった。あのときはたくさん子供がいたから覚えていないのかもしれない。
神官にのこぎりを借りて大トネリコに登り、杖にふさわしいと婆様に言われた枝を切り落としにかかった。
「それじゃないよ、もっと上のあの枝だ。ちがう! 間抜けだね。もっと先の方を切るんだ」
見上げながら言いたい放題の婆様のとなりで神官は苦笑いをしている。切った枝を下に落として下方を見ると、いつの間にか村人が大勢集まって見あげていた。
ゆっくりと樹から降りたラジュエルは、村人にわっと取り囲まれた。
「魔法使いになるってほんとなのかい」
「もう魔法がいくつか使えるんだって?」
大人が言えば、子供たちもわらわらと寄ってきて、
「ねえ、『花火』ってやつ、出してみて」
「お菓子ちょうだい。あまーいやつ」
「うちの猫、どこに行ったのか教えてよ」
と、まるですでに魔法使いになったような扱いだ。婆様が杖を振り回して、
「邪魔するんじゃないよ、野次馬は。さあ、帰った帰った。今、だいじなとこなんだ」
と追い払った。
いつの間にこんなに人々に広まったんだろうと見回すと、少し離れたところでコンジュが村人に嬉しそうに何かしゃべっていた。
「口が軽いな」
ため息まじりに婆様につぶやくと、ありゃだめだ、と婆様は苦い顔で首をふった。
「ど叱ってやるよ」
枝を持って神官の家に行き、ナイフで小枝を払い、ラジュエルの背丈にちょうどいい長さにのこぎりで整えた。払った枝の細かい棘や樹の皮の毛羽立っているところにやすりをかける。時間があまりないので、すべての皮を削ったり形を整えることまではできない。本当は何日かけて樹を乾かしながら作りたかったが、婆様が早く早くとそれを許さないのだった。
「そんなに急ぐ必要があるのかね」
神官の方が心配してくれたが、婆様の言うことにも一理ある。ラジュエルも狼をあまり長く待たせるのは気が進まなかった。約束を破ったと思われるのもいやだったし、もしラジュエルが帰ってこなければ、狼は村へやってくるのではないかという懸念もあった。
「おいで。祝福を与えてあげよう」
できあがった杖を祭壇の前に持ってこさせると、神官はよい香りの草を香炉で炊きはじめた。儀式のときの重く甘い香りがする。炉から煙が上がると、ラジュエル自身が持った杖を香にかざすように言われた。神官が口の中で唱える祈りの言葉に頭を下げていると、額に水滴がかかり、祝福の星印を与えられていた。
「いと高きところにまします大いなる方の御加護が、御身の上にありますように」
「また神官様にもありますように」
いつもの儀式の祈りの言葉にも、今日はことさらに深い重みがある。
「これからおまえの辿る道にはいくつもの困難があるだろう。己の内側の敵にも十分気をつけて行きなさい」
「内側の敵?」
「人はしばしば外の敵よりも身の内の敵に翻弄される。外の敵には言われずとも気をつけるからね。西に向かってお行き」
「西に……」
神殿の中だったが、目を西の方に転じた。
「プトロ・アリ(白大山)を越えるのですか?」
「いや、この季節、雪山は危険だ。また遭難したくはないだろう。一度南へ下ってプトロ・アリ(白大山)を回り込んで行きなさい。その途中、いくつかの村や町を通るだろう。心を開いておきなさい。それでいて用心は怠らないように」
心を開いて用心はする。それは難しいことのように思えた。心を開けば大勢の人々と交流できるだろうが、大勢の人々と関わるということは善人にも悪人にも出会うかもしれないということだ。
神官に別れを告げるラジュエルに、また村の子供たちがくっついてきた。ぶつぶつなにかをつぶやいている婆様を家の前まで送ると、戸口のところで婆様はふりむき、ラジュエルの額に祝福の星印を描いた。
「いいか。自分を信じるんだよ。おまえに与えられる導きの声は本当に小さいかもしれない。人がなんと言おうと、おまえがそれを導きだと信じられるんだったら頑なに信じるんだ。いいね」
「導きの声……」忘れないように口に出してみた。「本当に僕にも聞こえるの? 導きってなんのことだかわからないのに」
「そんなものは嘘だとか、導きなんてないと思っちゃいかん。おまにはすでにいくつもの予兆が現れている。かならず導きはあると信じるんだ。信じる時には大いなる方のことを思うがいい。そうすれば悪いものは入って来れない。神官様の祝福を受けたその杖には、もう力がある。おそらくあの狼にもな」
家へ帰ると、母は台所で怒ったように堅パンを焼き続け、父は暖炉の前で毛皮の下着を繕っていた。
「旅立つのか」
それだけ問う父に、こくりとうなずくと、父は横目で暖炉のそばに積んだいくつかの品をさした。
「持たせてやれるものはそんなに多くない。この下着を持って行きなさい。これが一番温かい」
手に取ってみると、家で一番温かいマント、一番新しい羊毛の下着、一番新しい皮の長靴が用意されていた。
「いいよ、まだ春は先だもの。バルドたちにもいろいろ残しておいてやらないと」
「バルドたちはまだまだ親と一緒にいられる」
その言葉にラジュエルは、本当に自分は旅立つのだ、もう両親と一緒には暮らしていけないのだと覚悟をつきつけられた。そこに置いた長いナイフをためらうように見ながら父は言った。
「これを持たせようかと思っていたが、やっぱり止めようと思う。おまえは戦う訓練を受けていない。こんなナイフなど持っていても相手が強ければかえって怪我をするだけだ。態度と心がけをよくするように務めなさい。そして言葉に気をつけるんだ。敵を作らなければ傷つけられる機会は少なくなるだろう」
そしてその代わりに、枝を払ったり藪を切り開いたりするための短いナイフだけを荷物に置いた。
夕暮れが近づいていた。狼はいつまで待っていてくれるだろうか。両親とゆっくり一晩過ごすことは許してもらえることだろうか。
考えてラジュエルはやはり今夜も山小屋で泊まることにしようと思った。温かい家に比べて山小屋は暗くて寒い。それでも自分を、おそらくただ一匹で待っていてくれる狼の信頼に応えなければいけないような気がした。
「じゃあね。もう行かないと」
告げると母は、えっと声を上げた。
「もう日暮れじゃないか。せめて明日の朝にしたらどうだい。山にちょっと行ってくるわけじゃないんだよ。長い間、会えなくなるかもしれないんだよ」
最後の方は涙声になった。つられてラジュエルも目頭が熱くなってくる。
「もし戻ってこられたら、明日もう一度来るよ。あの狼の様子を見に行かなきゃいけないと思うんだ」
「食べられちゃわないの?」
幼い弟のトレーゾが目を丸くしてたずねた。
「うん。賢い狼なんだ。ちゃんと餌は自分でつかまえるんだよ」
すごおい、とトレーゾはぱっと顔を輝かせたが、父母の表情は心配そうだった。大人になるほど疑いは深くなるのは、わからないでもない。
「戻ってこられなかったら?」
目に涙を浮かべてたずねた妹のモラナを母が叱りとばした。
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。戻ってくるに決まってる」
母が乱暴とも見える手つきで焼いた堅パンを袋に詰めている。
「みんなはラジュエルは魔法使いになるために旅に出るんだとか騒いでる。魔法使いになんかそんなに簡単になれるもんか。もしなりたいなら婆様のところに弟子入りすりゃあいい。どうしてうちにいることができないんだろう」
そう言われるとつらかった。ラジュエル自身が強く望んで道を選んだわけではないのだ。あの老人は『遅かれ早かれおまえは道を進むことになる』と言っていた。どういう意味だか婆様に訊けばわかると思っていたのだが、やはりわからない。
うちにいられるならうちにいたい、と口に出しそうになって思いとどまった。
自分でもわからない不思議な気持ちが胸の奥にわき起こっている。
本当にあの狼を、ふいに訪れた運命を捨てて元の生活を続けたいのか。このままこの村で父や祖父と同じように一生を羊飼いとして生きていくのが自分の本当の望みなのか?
どうしてだか、その気持ちはうまく説明できないような気がした。
「かならず戻ってくるよ。みんな元気で」
それは明日ではないかもしれないけど、とは言わなかった。
父が準備してくれた温かい下着とマントを身につけて、暖炉のそばの荷物を背負い袋につめてラジュエルは戸口に立った。父が立ってラジュエルの額に祝福の星印を描く。
「いと高きところにまします大いなる方の御加護が、御身の上にありますように」
「また御身にもありますように」
しばらく父と、黙って見つめあった。いつのまにか、父の背を追いこしていた自分に気づいた。
「父さんも母さんもバルトもモラナもトレーゾも、みんな元気で」
「ラジュエル!」
トレーゾが抱きついてくるのをラジュエルは笑って祝福した。
「ねえ、狼見に行っていい?」
「だめだ」
今にも走り出そうな上の弟バルトを父がきっぱりと止めた。あの狼なら大丈夫なのではないかと思う反面、本当に危険がないかと言われると保証はできない。
「朝と昼と夜との祈りの時にも、食事の前の祈りの時にも、いつもおまえのことを祈ってるよ。どこにいってもおまえはわたしたちと一緒だってことを忘れるんじゃないよ!」
母はもう流れる涙を隠そうともしなかった。
「うん。僕もそうするよ。ありがとう」
「ありがとうの言葉は祝福だ。大切に扱いなさい」
父の言葉にゆっくりとうなずいて、ラジュエルはトネリコの杖を持って旅立った。
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作者より
トネリコから男を、ニレの木から女を作ったのは北欧神話ですが、このお話ではオーディンとかロキとか出てくるわけではなくオリジナルの宗教体系を使用しております。北欧神話のベースのある雰囲気で読んでいただければ幸いです(^^♪