第一章 獣 其の三
林を抜けると遠くにあかりが見えた。天の作った星々のあかりではなく人の手による火のようだ。村へ近づいたのかもしれないと胸がはずむ。すぐにでも走り出したかったが、この深い雪では走ることはできない。ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら確実にラジュエルは火の方へ進んでいった。狼が先に立ってゆく。
「おうい、おうい!」
手をふって呼んでみる。
「誰だ? ノコイディ村の者か?」
「そうです。羊飼いのラジュエルです!」
近づくと火はひとつではなく幾つかある。手にたいまつを持った人々がこちらにむかって歩んでくる。
「ラジュエルか! おうい、みんな! 戻ってきたぞ。ラジュエルは無事だ!」
「大丈夫か。犬を連れて行ったのか。犬? いや……」
彼の姿が見えるところにまで近づいて、村の男はふいに足を止めた。犬にしては巨大すぎる獣に気がついたようだ。
「なぜそんな獣を連れている」
男の声がにわかに険しくなった。恐れていたとおりだ。羊飼いと狼は敵同士にしかなりえない。
「あの……連れてくるつもりはなかったんです。雪の中、倒れていたところに、この獣に助けられました。この獣を飼っていた人から、僕が連れて行くべきだと言われて。本当に、村へ帰るときは森へ返すつもりだったんです」
村人たちが顔を寄せあって話している様子が見える。
「今すぐに追い返せ」
「ジュート」狼に呼びかけた。「わかるかい? おまえを連れていくと、僕は村へ入れてもらえないんだ。ここまで案内してくれてありがとう。おまえはあの老人のところへお帰り」
言い聞かせて、数歩、狼から離れ人々のほうへ近づく。が、狼はラジュエルにぴったりとくっついてきた。
「帰ってくれ」
もう一度言った。
「忌み人だな」ひときわ身体の大きい男が厳しい声で言った。暗い中、顔はよく見えないが鍛冶屋のイレジオかもしれない。「おまえが出会ったのは忌み人だろう。野獣を飼いならすのは忌み人のすることだ。なぜ忌み人なんかと話をしたんだ」
「最初は忌み人だと気づかなかったんです。この獣が火を炊いている人のところへ僕をつれて行ってくれなかったら、僕は雪の中で命を落としていた。でも、信じてください。僕は獣を引きとることはできないとはっきり断ったし、忌み人を村へ引きいれるつもりもありませんでした」
「ラジュエルは嘘をつくようなやつじゃないよ」
聞き慣れた声が人々の間から起こった。羊飼い仲間のソルゴーネの声だ。別の羊飼い仲間の声もした。
「うん。俺もおまえを信じてるよ。でも、なんでその忌み人の狼をおまえが引きとらなきゃいけないんだ」
「わからない。変なことを言われた。その人は年をとりすぎていたのかもしれない」
村人たちはまた顔を寄せあってひそひそと相談しあった。ソルゴーネが言う。
「残念ながら相手が忌み人じゃあ、俺もこれ以上おまえの味方をしてやれない。ともかく今夜は山小屋に泊まるんだな。三日は過ごせるだけの薪は積んである。ここにある堅パンとぶどう酒もやろう。俺たちは村へ戻って村長や婆様と相談する」
周りの村人たちから革袋に入ったぶどう酒と堅パンを受けとり、ソルゴーネは恐る恐るといった風に近づいてきた。ラジュエルにとってはもうすっかり平気になっている狼も、村人たちには怖ろしい獣なのだということを、あらためて思いだす。
数歩、自分のほうから近づいて食べ物を受けとった。狼は場の雰囲気を察したのか少しはなれてラジュエルを待っていた。
「ありがとう」
「早くうまいこと狼を追い返して戻って来いよ」
「そうしたいよ」
目が慣れてくれば、今いるところは村からほんの少しの距離であることに気がついた。羊飼いたちが夏につかう山小屋はここからすぐのところだった。
去ろうとするラジュエルにソルゴーネが声をかけた。
「そういえば、コンジュは無事に戻ってきたぞ」
「ほんとうかい?」
聞いて安心した。それはなによりも嬉しい知らせだった。
「うん。おまえが探しに出て行ってすぐに戻ってきた。なんか変なことを言ってたな。光? ええと、なんだっけ」
「光の玉がこっちに来いって招いたそうだ。怪しい魔法かなにかかもしれない。今は婆様のところで休んでいる。とにかくコンジュのことはもう心配するな」
「よかった。それを聞いて安心した」
コンジュはラジュエルの家のすぐ近くに住む九歳の女の子である。そもそもコンジュが行方不明になって、村のどこを探しても見つからないと大騒ぎになったからラジュエルやほかの若者たちが村の外まで探しに行ったのだった。
村人たちは、気をつけろよ、明日また来るなどと言ってゆるやかな丘を下って村へ戻っていった。仕方なくラジュエルは狼を連れて山小屋へ行った。連れるつもりはなかったのだが、狼はぴったりとラジュエルにつき従ってきた。
山小屋の中はきちんと整理してあり、ソルゴーネの言ったとおり薪が暖炉のわきに積んであった。
「いいよ、お入り」
戸口のところで入るべきかためらっている様子の狼に声をかけた。
戸を閉めると外の寒風が入ってこないだけでもすこし温かく、狭い小屋にラジュエルと狼の体温があるだけでも暖まる気がしたが、山の夜は冷える。木の窓の隙間からさしこむ薄明かりに目が慣れてから、よく乾いた松笠に、いつも持っている火打ち石で火をつけ、暖炉の中でゆるく重ねた薪の下にほうりこんだ。ほどなく火は薪に燃えうつり、炎があかあかと燃えあがった。
ぱちぱちとはぜる火を見ていると、今日別れたばかりのあの老人の深い灰色の目を思い出した。
「ジュート。あの人はいったい何者なの?」
答えるわけはないとわかってはいたが、他に話し相手もいないので狼に話しかけた。思ったとおり答えはない。老人と別れたときのように、心の声でもいいから返事はほしかったが、あのときの答えはやはり自分の頭で考えただけのものであったようだ。
答えの代わりに狼は火のそばに座るラジュエルにぴったりと身を寄せて座った。がしりとした肉体の体温が伝わってくる。
「ありがとう。温かいよ」
ラジュエルは狼の太い首に腕をまわし、その毛皮に顔を埋めてみた。
大地の生命の香りがする。この香りは知っているような気がした。いつの記憶だろう、幼いころ野で遊んだときのものだろうか、夏に羊たちと一緒に山の上の方へ行ったときのものだろうか。懐かしい古い記憶とともに、はるかな夢への憧れまで思い出されてくるようだった。
ふとラジュエルは、この狼のことをずっと昔から、実は知っていたような錯覚にとらわれた。そんなはずはない、狼は村人の敵、羊飼いの敵であるはずだ。たとえ幼いころであっても、狼が近づくようなことがあれば誰かが止めるか、あるいは狼を山へ追い払うかしただろう。
あの老人が初対面であるラジュエルを待っていたと言ったように、この記憶も本当にはなかったけれども、あったような気がしているだけのものかもしれない。話し相手がいないのをいいことにラジュエルはぼんやりと自分の考えに耽りだした。
そういえば子供のころ狼に憧れていた。羊を食べてしまうもの、悪くすれば子供すら食べてしまうものと教わってきたはずだが、犬よりもずっと強く大きく凜としたその姿に、漠然とした憧れを抱いていたことを、今になって思い出した。羊飼いではなくなにか別の仕事に憧れていた。村を出て誰も経験したことがないような旅をすることに憧れていた。そんなことは無理だろうと、いったいいつから考えるようになったのだろう。もしかしたら老人はそんな自分の気持ちを見透かしていたのだろうか。
いつのまにか夢を見ていた。
起きてみるとぼんやりとしか覚えていなかったが、ひどく楽しい夢だった。夢の中で遊んでいた相手は誰だったのだろう。知っている人のような、これから知り合う人のような、そんな記憶だった。まだ知り合っていない人のことを記憶と呼ぶのはおかしいような気がしたが、それは記憶だと自分では思えるのだった。