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谷間の風のはじまるところ  作者: 猫洞 文月
イラスト大全集
2/166

第一章 獣 其の二(イラストあり)

挿絵(By みてみん)

(イラストはiwajun様)


「人違いではない。おまえはジュートに、おまえの肉体と魂を譲り渡そうとした。しかも無償でだ。おまえは世界の成り立ちをわかっておる。だから、おまえにこの『力あるもの』を任せようと思う」

「『力あるもの』?」

 老人の言っているのは狼のことらしかった。

 この老人はまもなく死ぬのだ、と思った。だから飼っている狼を自分に託そうとしているのだろう。

「せっかくですけど、僕は羊飼いなので狼を預かることはできません。羊たちが怖がって逃げてしまいます」

「そうだろうな。おまえは今、羊の方を選ぶか新しい生き方を選ぶかの分かれ道に立ったのだ。だが、ここにやってきたということは、おまえには道が開かれている。遅かれ早かれ、おまえは道を進むことになるだろう。『力あるもの』を受けとるのがわしか、わしでないかのちがいだけで」

「よくわからないんですが」 

 老人は年を取りすぎて混乱しているのかもしれないと思い、ラジュエルはできるだけ穏やかに尋ねた。自分のことを誰かと勘違いしているか、勝手な思い込みで話をしているのだ。あまり長く一人で人里離れたところに暮らしていたので、久しぶりに会えた人間に自分の妄想を語っているのかもしれない。

「わしは、まもなく、こちらの世界での肉体を失う」

「死ぬ、ということですか」

「死ぬ、と、こちらの者たちは言う。だが、肉体の死は死ではない。おまえたちの言葉で言えば、肉体を失っても魂は消えない。そして肉体がある間に手に入れたものは形を変えてずっと存在する。わしはこれから『全きもの』になっていくのだ」

 だんだんとラジュエルはこの老人の言うことをうとましく思うようになってきた。わけのわからないことを言って人をけむに巻こうとするのは、追放された人々がよく使う手だ。そうやって何も知らない若者を自分の都合のいいように使おうとするのだ、と村では教わっていた。

 なるべく彼の言うことに賛成しないようにしよう、興味を持っていると思われたら利用されて、村へ帰ったときに困るのは自分だ。そう考えて、あえて目をそらすようにした。

 ところが、狼は老人の言葉がわかるかのように、のっそりと老人の足下を離れてラジュエルに近づき、まるで今日からラジュエルが自分の主人だとでもいうように足下に座りこんだ。

「ジュート」

 思わずそう声が出た。

「その獣はおまえにとってはジュートではない」

「でもジュートという名前でしょう?」

「名前というのは自分と相手とに関係で変わる。おまえにとっての父親はおまえの祖父にとっては息子だ」

「それは父親という役割の問題じゃないんですか」

「名前はすなわち役割だ。そうではないかね」

 またよくわからないことを言う。関わらないようにしないと、この巨大な獣を押しつけられてしまう。こんなものを連れて帰ったら、もう自分は羊飼いの仕事ができなくなる。この狼が自分につきまとっている限り、村へ立ち入ることすらできなくなるかもしれない。それはなによりも困ることだ。ほとんどの村人にとって村を追われることは生きていくすべを奪われることにひとしい。

 ラジュエルは外を見た。これ以上長居しては、本当にこの獣を押しつけられてしまう。外の雪は今は止んでいるようだ。

「もう帰ります。助けてくれてありがとうございました」

 老人は引きとめることもなく微笑んだ。

「わしはこのあとも幾たびかおまえに出会うだろう。わしだと気づくときもあれば気づかないときもあるかもしれない。気づかなくても、導きは訪れる。心配しないことだ」

 また訳のわからないことを言っている。気にならないと言えば嘘になるが、できるだけ深く考えないようにしようと思った。

「さようなら。この獣は引き取れません。さっきも言ったように、僕は羊飼いですから、狼を連れていくことはできないんです」

「ジュートはおまえの羊たちを食べることはない。このものはおまえが思っているよりもずっと賢いのだ。だが、ほどなくおまえは羊たちよりも自分の道を選ぶことになるだろう。それは、ここでジュートに助けられたからではなく、あらかじめ決まっていた運命がそうさせるのだ」

 ラジュエルはためらった。

「たしかに、命を助けてくれたこと、食べ物を与えてくれたことには感謝しています。でも、僕が雪の中で道に迷って倒れていたのは偶然だし、そこにジュート……、いや、ちがう名前かもしれませんけど、この狼が通りかかったのも偶然なんじゃないですか?」

「偶然か運命だったのかは時間がたってみなければわからない。偶然だと思っていたことが、実は人の生き方を定めてしまうのはよくあることだ」

 どういうことなんです、と思わずたずねた。この老人が言っていることは、自分の未来への予言なのだろうか?

「あなたは予言者なんですか」

「予言者と呼ぶものもいるかもしれない。わしは古い魔法の担い手だった。今ではもう失われつつある。だが、誰かがまた古い魔法を呼び覚まさなくてはいけない。その誰かが志の良いものであることを願う。おまえならと思ったのだが……」

「僕は……自分が悪人だとは思いませんけど、魔法には縁がない人生を歩む人間だと思っています。誰か別の人に頼んだ方がいいですよ」

 老人はおかしそうに笑った。まるで、誰でも知っていることをさも偉そうに語った子供を相手にするように。

「魔法を知る人間が特別なわけではないし、魔法に縁があるかどうかは自分で選べるものではない。ただ、力を扱うのにはそれなりの注意深さは必要になる。刃物を扱うようなものだ。便利でもあるし、危なくもある。だが、扱えるようになれば、おまえが羊の毛を刈ることができるぐらいには簡単なものだ」

「いや、僕は羊の毛刈りだけで十分です。魔法なんて、物語に出てくるような魔法使いが扱うものですよ。それは、僕の人生とはまるでちがいます」

 ついつい話につりこまれそうになっているのに気がついて、ラジュエルはまた用心して、雪の中を外へ出て行こうとした。

 ところが、狼が当然のことのようにラジュエルにつき従ってくる。

「いや、ジュート。僕はおまえの新しい飼い主にはなれないよ。もう少しこの人のそばにいておあげ。この人はたった一人で、助け手が必要だろうし」

「助け手が必要なのはわしよりもおまえの方だ。この先どうなるのか、何をすればいいのかわからないだろう。ジュートはもう十分にわしと過ごした。この先に彼が働くのはおまえのためだ」

 老人はひどく幸福そうな笑みを浮かべて言った。

 彼は自分の死を受け入れ覚悟しているのだろうか。自分で動けなくても、よく馴れた狼が食べ物をとってきてくれればもうしばらく生き延びることができるのではないだろうか。「あなたはどうするんです。忌み人だとしても、死ぬときは助けてくれる村もあるんじゃないですか? 僕らの村は……知らない人は入れることはできませんけど、村境の外になら、僕が食べ物を持って行くことぐらいはできるかもしれません」

「今のわしに必要なのは、身体を養う食べ物ではない。まっすぐな心と健康な身体を持つ若者を求めていた。おまえがまさにそうだ。やはり魔法はわしを裏切らなかった。最後の最後に、ジュートがおまえを導いてくれたのだ」

 もう行ってよいと老人は言った。

「でも……」

 ためらうラジュエルを、今度は狼が、うながすように外へ向かって歩き出した。

 雪は深い。

 先ほどまでの吹雪はもうすっかりやみ、星あかりが雪に映えて夜をほのかに明るくしている。

 しばらく歩いて、ふりかえってみると、来るときに見た洞窟の灯りが消えていた。

 はっとしてラジュエルは、今きた道を戻ろうとした。老人がたき火を消したのだ。この寒さのなか、火がなければ、あの痩せ衰えた身体はすぐに凍えてしまうだろう。いくら覚悟しているとはいえ、あまりに死を選ぶのが早すぎる。戻って思いとどまるよう説得するべきだと考えた。

 そう告げようと狼の方を見ると、金色の瞳と目があった。

――おまえの道を進むのだ。それは戻ることではない。

 声ではなく、思考そのものが感じられた。いや、狼が言葉を話すわけがない。これはもしかしたら自分で考えているのかもしれないと思ったが、それでもラジュエルは狼に向かって話しかけた。

「あの人を助けたいんだ。あきらめるにはまだ早すぎる。村の近くへ一緒に行くことができれば……」

 しかし、狼の目はきっぱりとそれを拒絶していた。

 なぜなのだろう。ずっと一緒に暮らしていたと言っていた割には情が薄すぎる。

 きびすを返して先へ先へと進む狼に、ついて行かなければ今度はラジュエルの方がまた道に迷ってしまう。後ろ髪をひかれる思いでたびたび振りかえりつつ、雪の中を進むほかはなかった。

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