第一章 獣 其の一(イラストあり)
――序――
たしかにえも言われぬ幸福感に包まれたと思った。
僕は旅立つべきだと。今いるところをはなれて、はるか高みに向かって羽ばたくために。
まだ見ぬ何かはすでに僕の中にある。今はまだ形を成してはいない。それはゆっくりと僕の中で育まれ、やがて輝くように花開いてゆくものだとわかっていた――。
(イラストはiwajun様)
第一章 獣
ゆらりと燐光がうごめく。
はじめ一つ二つと思われた青い光はやがて次々と数を増し、大気中に無数に漂いはじめた。
「何かがおかしい。帰るぞ」
「うん」
羊を連れて父とともに野に出ていたラジュエルも杖を取り、雪に埋もれた草の根を掘り返して食べている羊たちを集めにかかった。
村から誰かが大声で叫びながら早足でやってくる。
「おうい! 家に戻れ! 婆様が、死者の魂がさまよい出てるって言っとるぞ」
あの燐光は死者の魂なのか。はかなく冷たく宙に浮かぶ悲しげな光は。
羊を追いながら村の家畜小屋に急ぐが、空はどんどん暗くなってくる。
どこかで雷鳴がとどろいた。
「嵐になる。いそげ」
返事をする間もなくピカッと閃光がひらめいた。つづいてドオオンとどこかに稲妻が落ちた。羊たちをもっと急がせて早く避難しなければ。
羊を呼ぶラジュエルの周りに雹がばらばらと落ちてくる。雹がときに拳より大きいのは経験したことがあるが、つぎつぎと落ちる今日の雹の中には岩ほどの大きさのものがある。たしかに何かおかしい。
「ラジュエル! 止まるな!」
わかっているが、雹がはげしい。両手で頭を覆ってできる限り足を速めているラジュエルの前に、今度は鋭い槍のような棒が降ってきた。棒はまるで天空から誰かが投げたもののようにずさりと地面に突き立ったまま揺れている。
「父さん、なんか変だ!」
ひゅんひゅんと続けざまに槍は飛び、刺さる。
地に立った槍は突然ぴしぴしと音を立てて氷の柱になってゆく。幾本も幾本もの氷の柱がラジュエルを取り囲み、行く手をはばむ。
ピカリと暗い空に雷光がひらめく。いや、雷光ではないのか。
大空全体を厚い灰色の雲が覆う中、なにかの影が宙を舞うように見えた。
「竜……?」
竜などもちろん見たことがない。だが天を飛ぶ、あれほどの巨大なものをほかに知らない。それとも、あれはただの雲で自分の恐れる気持ちが竜に見せているだけだろうか。
竜のような影は一つではなくいくつかあった。
影が舞えばピカリと閃光がほとばしり轟音がとどろく。その空から、また槍と雹が降る。それは敵同士である複数の竜が、大空の覇権をめぐって死闘を繰り広げているようにも見えた。轟音は竜の吠え声、無数に降ってくる槍と雹は、戦いぶつかりあい掴みあう竜の棘か鱗のようにもみえた。
逃げなければと思いながらも踏み出せずにいるラジュエルの前に、今度は突如炎があらわれた。
雷が落ちて草が燃えたのかと思ったが、それにしてもおかしい。草が燃えたなら火は足下だけにあるはずだ。そうではなくまるで巨大なたき火の真ん中に入ってしまったように火はラジュエルの周りを壁のように取り囲み燃えさかる。
また雷鳴が、今度は頭の真上で割れるようにとどろき、足下の地面がめりめりと音を立てて深く割れてゆく。雪に覆われた地が引き裂かれたようにぱっくりと割れ、果てしなく深く暗い地の底が近づいてくる。
「助けて……」
逃げようと一歩進めば炎にまみれる。といってこのまま立ち止まっていては地の底に呑まれてしまう。進退窮まってラジュエルは思わず自分の額に祝福の星印を描いた。
いと高きところにまします大いなる方は、かならずお救いくださる――。
祈りを捧げたときである。
急に目の前にはげしく強い光がひろがった。。夏の真昼の太陽よりも明るい光のまぶしさに思わず目を閉じた。
不思議と心が落ちつく。はるかな昔、こんな明るさを知っていたような気がする。温かい懐かしさが胸にこみあげてくる。身体がふっと楽になり、今まで生きてきたすべての幸せな瞬間をあわせたほどの幸福感に満たされた。
僕は死んでしまったのだろうか。ここは死者の国なのか……と思って目を開くと、そこは見慣れた雪の野原だった。氷も炎も、地の割れた跡もどこにも見えない。
空はまだ曇っていた。だが、雲はラジュエルの頭上を中心に徐々に渦巻くように引きはじめている。天気が変わるときのように空の一方から風に流されて雲が動いていくのではなく、真ん中だけが晴天の光を放ち、そこから同心円状に雲が外へ外へと逃げてゆく。
周辺に遠のいていきつつある雲の中で、まだ竜は戦っているようだ。
その一つの塊がピカリと強く輝くと、流れ星となって西の山へ、長い光の尾をひいて落ちていった。
「ラジュエル! 早く」
言われてはっと顔を上げたが、今まで遠い世界に飛んでいたように父のことは意識になかった。見れば父は雪に濡れている。ふりかえって自分を見ると一滴の水もついていない。これもおかしなことだった。
ともかくも父のもとへ走り、もう一度口笛を吹いて羊たちを呼んだ。メエメエと鳴きながら羊たちは従順についてくる。
ようやく村に着くと人々はすでに家の中に避難しており誰もいない。気づけば冷たい霙が降ってきていた。羊たちを囲いの中へ追い、村はずれの家に駆けこむと母が大慌てで濡れた身体を拭く布を持って走ってきた。
「父さん! ラジュエル! なんともなかったかい」
あの出来事を、どう説明したらいいのだろう。もしかしたら自分の見たのは幻影で父はちがうものを見ていたのかもしれないと、まず父の話を黙って聴くことにした。
雷と雷光は父も見ていた。雹も降ったという。だが雲の中の竜の戦いや降ってきた槍、忽然と現れた炎の壁について父は語らなかった。
「雹が一度止んだよね。雲が天の真上を中心に去って行ったよね」
ラジュエルの言葉に父は怪訝な顔をした。
「雷は遠ざかったが晴れてはいない。まだ霙が降ってるじゃないか」
言われて木の窓を開けて外をうかがう。しとしとと降る霙の中に、残骸のような燐光が、まだいくつか漂っていた。
ほっとする間もなく、外から金切り声が聞こえた。
「コンジュがいない! コンジュ! どこ行った!」
慌てて父とともにラジュエルも外へ駆けだした。
「いない? いつから」
「いつからだろう。ああ……なんでこんなときにいなくなるんだ」
コンジュはすぐ近くに住む九歳の女の子である。声の主はその父で、母の方は気が狂ったように名前を呼びながらあちこち駆け回っている。
コンジュの姉は去年、流行病のために14才で命を落とした。その痛手もまだ癒えていないのに、今度はコンジュがいなくなるとはいかほどの悲しみだろう。
婆様の忠告でみんなが家に走り込んだとき、コンジュもいると思っていた。騒ぎが収まってはじめていないことに気づいたという。
叫び声を聞いてあちこちの家から人が出てきた。
「こんなときになんてことだ。まさか死者が連れに来たというわけじゃないだろうな」
誰かの言葉にみな、しんとなった。コンジュは死んだ姉と仲が良かった。その姉が、とは誰しも考えたことだった。
「僕、探しに行くよ!」
「待て、一人で行くな。俺も行く」
出ようとしたラジュエルに父が声をかけ、脱いだばかりの厚手のマントをまた羽織った。近くの男たちも次々と外出の準備をして外へ出た。
子供の足ではまだそれほど遠くへは行っていないだろう。数人は村の中を、足腰の強健なものは山の方へ探しに行くことになった。ラジュエルも父と組んで山へ行く。
山あいのノコイディ村のこの時期は、雪が深い。
ここ数日はとくに大雪だった。
「こんなときは大きな裂け目が雪に隠れていることがある。油断するな」
「わかってる」
雪の山を歩くのは初めてではない。しかし父の言うとおり、小さい頃から慣れ親しんでいる山の地形も、雪の中ではともすればわからなくなることがある。
コンジュの名を呼びながら灌木をかきわけ山道を歩いて行く。こんな険しい方には行かないのではないかと思うが、村人と手分けしてラジュエルたちは一番西へ向かう道を行くことになったのだ。
また燐光が、誘うようにゆらめいた。妙に心を魅惑する。まるでこっちに行けば何もかも忘れるような素晴らしいものが待っているとでもいうように。
いくつもの燐光に囲まれて、一瞬父について行く注意力がそがれたかもしれない。
「あっ!」
声を上げたときには、身体がずるずると雪の斜面を滑りおちていた。一面、雪ばかりでつかまるものも何もない。
「父さん!」
父には聞こえたのだろうか。
その返事はもう、記憶にない。
目覚めたときは一面、雪の中だった。横たわっている姿勢から、動こうとしたが動けない。怪我もしているかもしれない。身体のあちこちが痛かったが、それ以上に手足がこわばっていた。
いったいいつからどのぐらい雪の中にいたのだろう。あたりは日が落ちたのかすっかり暗い。ぼんやりと頭上の木々が見えるのは星明かりを雪が照りかえしているからだろうか。
帰らなくてはと思う。
だが、そんなことも考えられないぐらい眠くてたまらない。
眠ってはいけない、眠ったら死ぬ。これではいけないのだと、ひとかけらだけ残っている理性をふりしぼろうとする。自分がこんなところで死んでしまっては、両親や友達、仲間たちがどんなに悲しむことだろう。コンジュは、今頃いったいどうしているのだろう。同じように道に迷い、白く厚い雪に捕らわれて死を迎えようとしているのだろうか。
しかし、いくら意志を強くしても、疲れが限界を超えて身体が動かない。手足の冷たさは、もうとっくに感じなくなってきていた。目蓋が重い。このまま眠ってしまえば、うっとりするような死の世界に迎え入れられるのだと誘惑に駆られる。
「死」というのは甘美なものなのかもしれないと、夢うつつに思った。
目を閉じた。周りを囲む冷たさに身を委ね、このまま従容と運命を受け入れようと思い定めたとき、ふと頬に温かいものを感じた。
吐息である。
いったい誰が、と目を開けて、ラジュエルはぎょっとした。
横にあったのは獣の顔だった。
――狼か……。
このまま喰われるのだと思った。
鼓動が早くなる。だが不思議と怖さは感じなかった。たとえ今、逃げたとしても、かじかんだ足ではたいして逃げることもできない。相手が野生の狼ではすぐに追いつかれてしまうに決まっている。
「僕を喰らうがいい。僕の肉をおまえの力とし、僕の魂をおまえの一部にしろ。そうすれば、この吹雪の中、おまえはしばらくの間、命を長らえられるし、僕もおまえの一部となって生き続けられる。少なくとも、世界のために僕の命を役立てることができるってものさ」
凍えた唇で、声にならない声でつぶやいた。どのみち、獣相手に人の言葉で話しても通じない。
狼の顔が近づいてくる。
覚悟を決めて目を閉じた。喰われると自分で決めたこととはいえ、痛いのは嫌なことだろう。できれば、あまり苦痛がないといい。
狼の熱い息が、ますます顔に近づいた。
ざらりと熱い舌が頬をなでた。いきなり噛みつくのではないようだ。
次はどこを噛まれるのだろうと身構えて待った。祈るような気持ちだった。
しかしいつまでたっても痛みはこなかった。狼は彼の横の雪を少し足で掘りおこし、倒れている身体にぴったりと身を寄せるように横たえた。温かい獣の体温が、毛皮と服をこえて伝わってくる。
「助けてくれようとしているのか……」
話しかけても無駄と知っていても声をかけた。
賢い狼だと思った。深い雪の中、食べ物だって乏しいにちがいないのに、なぜわざわざ自分を助けようとしてくれるのだろう。ただの狼ではないのかもしれない。そう考えれば、話しかけるのがまったく無駄ではないような気がした。
長いこと狼はそのまま温め続けた。だんだんと身体に力が戻ってくる。ラジュエルはついに起き上がった。
「ありがとう」
礼を言って、犬にするようにぽんぽんと狼の背中を叩く。野生の獣にこんなことをしていいのかどうかはわからなかったが、他に感謝の気持ちを伝える方法は思いつかなかった。 のっそりと狼は立ち上がり、雪明かりがほのかに照らす山道を数歩歩いてふりかえった。ついて来いとでもいうような眼差しで。
どこに行くのだろうと思ったが、どのみち帰り道はわからない。もしかしたら狼は自分をどこか安全な場所に案内してくれるのかもしれない。
深い雪に狼がやってきた足跡が残っている。その足跡を辿るように歩いて行く狼はときおりラジュエルの方をふりかえってついて来るのを確認しているかのようだった。
樅やトウヒなどの樹木が夜空に向かってつき立っている木立の間を抜け、暗い影を落とす丘を左手に見ながらひたすら進んだ。狼はさらに山奥に向かっているように思えた。こんなところに人里があるとは思えない。
どこまで行くのだろう、狼はこのまま自分を獣の群れに連れて行ってしまうつもりだろうかと考えはじめた頃、前方の雪の中に灯りがみえた。自然にできた洞穴で誰かがたき火をしているようだ。狼はまっすぐその洞穴に向かっていく。
洞穴を覗くと、あかあかと燃える火のそばに、一人の老人が腰かけていた。
「帰ったか、ジュート」
狼は尾を振りながら老人のそばに歩みより、彼の足下にうずくまって心地よさそうに身体をふせ、背を撫でられるままにしている。
「して、客人は」
「ラジュエルと言います」
深い灰色の目を向けられてラジュエルは礼儀正しく名のった。
「冷えたじゃろう。あたるがいい」
招きに応じて洞窟に入り、火をはさんで老人の向かい側に座った。
どこから来たのか、とか、何をしていたとか、そういったことを訊かれると思った。だが老人は黙っていた。燃える炎の暖かさが、冷えきった身体を徐々にやわらかくしていく。老人が無言のまま、火のそばにあった鍋からシチューをよそってわたした。
「いただきます」
くれるということは食べていいことと思い、木の椀を受けとり口をつけた。
温かい。寒さと疲れで飢えは感じていなかったが、最初の一口を食べてみると自分が猛烈に空腹であったことにはじめて気がついた。
食べている間、老人は灰色の目でじっと彼の方を見ていた。
「ありがとう。助かりました。あなたがその狼の飼い主なんですか」
椀を返しながら尋ねると老人は、いいや、とこたえた。
「ジュートはわしと供に『ある』ものだった。よい友だった。だが、それももはや終わりに近づいている」
「終わりに? どういうことですか?」
ふと、悪い予感がした。こんな雪山のなか、老人はどうやって一人で生計を立てていたのだろう。自分の力だけで山の中を生きのびてきたのだとしたら、身体が弱ってしまえば生きていけない。誰かに助けを求めるか孤独に死を迎えるか。
考えてどきりとした。自分がたった今、あとにしてきた『死』が、ゆくりなくもこの老人に訪れようとしているのか。
火がぱちぱちと音をたててはぜ、老人は揺れる炎を見つめながらゆっくりとまばたきをした。そのときはじめて、老人の額にある『忌み人』の印に気がついた。額の真ん中にある丸い印は、この老人がかつていた集落を追われたときに刻みつけられたものにちがいない。
こんな人里離れたところで一人で暮らしていたわけがわかった。この老人はなにか罪を犯したか、集落の決まりを破ってその集落の人々ともはや暮らすことができなくなったのだ。
危険な人物だろうか、と用心しながらじっと彼の顔をうかがった。羊を追う杖の他にはなにも武器といえる物はもっていない。しかし、しなびた老人と若い自分とを比べれば素手でも十分勝てる気がした。
「ずっとおまえを待っていた」
思っていなかった言葉におどろいた。ラジュエルの用心など気にもとめていない様子である。
「僕を? でも僕はあなたのことを知りません」
「わしも今までおまえのことは知らなかった。だが、今ならわかる。わしの待っていたのはおまえだ」
「人違いではありませんか」
彼の顔をじっと見つめ、どこかで会ったことがあるか思い出そうとしたが記憶にない。たしかにこの老人は初対面だ。年齢が違うので、自分の小さい頃を知っているかと思ったが、そうでもないようだ。
今ならわかるとはどういう意味だろう。知らない自分のことを待っていたのはいったいなぜなのか。もし、こんな雪の中でなければ、欺そうとしていると疑うところだ。
老人はラジュエルの顔を明るい灰色の瞳でじっと見つめた。