5.婚約の裏側
僕はこの国の第2王子として誕生した。
すでに5歳年上の兄が王太子として冊立されていたから、比較的のんびりした立場のはずだった。
だが、この兄が割と好き勝手に行動するものだから、自然、周囲は僕に期待するようになった。
小さな頃から、出来ないことはない。家庭教師に教えられたことは、一度で理解した。さらに一度記憶したことは、忘れることがなかった。
だから僕は、周りに『神童』とか『完璧王子』とか呼ばれるようになった。
『兄上を補佐するために、優秀な王子になってね』
…それが、母の口癖だった。僕は毎日、それを呪詛のように聞いていた。
僕を慰めてくれたのは、外にいる生き物たちだった。犬でも馬でも、こちらが可愛がるほど懐いてくれた。決して僕に求めない。裏切らない。ーーすごく、安心できる存在だった。
でも、貴族は生き物なんか好きじゃなかった。どこかの公爵令嬢とか令息とかが、僕のそばにやって来ても、生き物にはまるで関心をもってくれなかった。むしろ『気持ち悪い』とか『怖くていやだ』とか嫌厭していた。
誰もが、僕にーーいや、『王子』にすりよる。僕の立場や見た目や能力にしか、関心がないんだ。
それはとても退屈なことだったし、ーーとても息が詰まることだった。
そして僕は、誰かに期待することをやめた。
僕が8歳の時、父上が大規模なお茶会を開いた。「王太子が婚約したのも、8歳だから」という理由である。
ーー婚約者を決める。……もう、寒気しかしなかった。
僕はもうウンザリして逃げ出した。
逃げ出した別庭で散策していると、美しい白蛇を見つけた。
「……人に見つかったら、殺されてしまうよ……」
ひとりぼっちの、哀れな白蛇。まるで僕のようだ。思わず白蛇を抱きあげる。そのまま僕は立ち尽くしてしまった。
「うわあ!すごくきれいな蛇さんだね!」
「……え?」
どうやら相当呆然としていたようだ。突如現れた女の子に、僕はビックリして肩を上げてしまう。女の子は、僕を全く見ずに、蛇を愛おしそうに見つめて言った。
「ふふ、今日は暖かいから、冬眠から覚めたのかな?」
え?この子、蛇を見て笑ってる!
「………怖く、ないの?」
「え?何で?ぜんぜん怖くないよ。しかも、この蛇さん、とっても美人さんだし」
「ははっ、美人さんだなんて」
言い方が、すっごく可愛い!ーー僕の胸がすごい勢いでドキドキし始める。
君もとっても美人さんだよ。なのに、蛇が好きなの?
「君も、蛇さんが好きなの?」
「うん。ご令嬢も?」
「もちろん!みんな、キラキラ生きていて、可愛いよね」
「だよね」
私たちは顔を見合わせて笑った。嬉しい、嬉しい!同じ気持ちの子と話すのって、こんなにも楽しいんだ!
「君は、不思議な人だね。普通、ご令嬢は蛇を嫌うよ」
「ええ?そうなの?あー、でも私の姉は、確かに好きじゃないかも…」
「蛇に限らず、蛙やミミズや虫なんて、みんな嫌いだよ」
「そっかあ。ミミズはいい土を作ってくれるのになぁ…」
「あははっ!」
なにこの子もう最高!顔も言い方も表現も、どれをとっても最高に可愛い!
ーー絶対に、逃がさない……!
「ご令嬢のお名前を、教えてくれる?」
「私は、ルシィだよ」
「とても可愛い名前だね、ルシィ」
「君は?」
「僕は…マリユスだよ」
「マリユスも、お茶会に来たの?」
「……うん、そんなところ」
嘘は言ってない。本当のことを言ってないだけだ。ーー詭弁だと分かっていても、もう少しこの子と素のままで、居たい。
「そろそろ戻らないと、怒られちゃうね」
「そうだね。一緒に戻っても?」
「良いよ。こっそり戻ろうね」
『こっそり戻ろうね』だって!可愛くて悶え死ぬ!ああ、この子、持ち帰れないかなぁ…。毎日愛でたい。愛らしい声を聞きたい。ずっと一緒に居たい!
ーー愛しい、ルシィ……
お茶会の会場に戻ると、バタバタと大人たちが近づいてくる。僕は、ルシィの手を握りしめて離さない。周囲に彼女が僕のお相手だということを、見せつけるために。
マリユス、悪いけど手を離して、と小声でルシィが言っている。ゴメンね、それは駄目だよ。だって、ルシィの手はこんなにも気持ち良いんだ。
「殿下!」
「心配しました。どちらにいらしたのです?」
「すまない。このご令嬢と話し込んでいたんだ」
ーー僕がお話ししたのは、彼女だけだよ。皆、彼女は僕の相手だ。絶対に手を出さないでね。
「え?マリユスって、王子様なの?」
「うん。よろしくね、ルシィ」
皆がうっとりするような華麗な笑顔で、僕はルシィに答える。ーーでも、このご令嬢には、効かなかったみたい。そういうところも、すごく良い!
「殿下、私の娘が失礼を…」
おや、アルトワ侯爵のご令嬢だったか。ますます好都合。ルシィを婚約者にすることに、障害は全くない。天は僕に味方している。
「いえ、アルトワ侯。とても素敵なご令嬢ですよ」
「殿下、私にはもう一人娘がおりまして。その、山猿を解放してもらえますかな?」
「もう一人?」
「は、初めまして、殿下」
わお。ルシィにそっくりだ。ーーでも、彼女は普通の侯爵令嬢だね。まとも過ぎる。
「すごい。見た目はそっくりだね、ルシィ」
「うん、双子だもの…っていたあっ!」
……ちょっと、侯爵。僕のルシィを殴らないでもらえるかな?
「殿下にそんな口をきくんじゃない!早くこちらへ来ないか!」
「良いんだ、侯。ルシィは、自然なままで魅力的だから」
「え?殿下、マリィの方が可愛いよ…っていたたた!」
あ、とうとう連れて行かれてしまった…。ルシィ、僕の右手が寒いよ。……寂しいよ…。
ルシィの双子の姉が、僕の隣に来る。うん、お淑やかでお利口さんだね。ーー周りのご令嬢と、判で押したように同じだ。
ルシィ、君だけが僕の感情を揺さぶる。ルシィ、君だけが素のままの僕で居られる場所なんだ。
「絶対に手に入れる…」
そのために、僕はまず父上の元へ向かった。
◇◇◇◇◇
コンコン、と控えめなノックが聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します…」
遠慮がちに入ってきたのは、ナトンだ。エヴルー公とは、親戚筋である。だから、このナトンとも、幼少の頃から知っていた。
「お呼びと聞きました」
「うん。相談があってね」
ニッコリ笑って、ナトンをソファに座らせた。ナトンは緊張しているみたいだ。
「私は、アルトワ侯爵家に婚約を申し入れしようと思う」
「……何ですって…!?」
ナトンは立ち上がって動揺する。ーーやはり、彼は双子の姉が、好きなのだ。
「殿下、どちらですか…?」
「どちら、とは?」
「もちろん、あの双子です。ご返答によっては、決闘も辞さない覚悟です」
「落ち着きたまえよ、ナトン」
決闘、か。ナトンはそれほどあのご令嬢が好きなのだね。ーー良かった。ルシィではなくて、本当に良かった…。
「欲しい人は、早めに申し入れた方が良いよ、ナトン。横から攫われる前に、ね」
「………!」
失礼する!とナトンは慌てて部屋を出ていった。ーーよろしい。双子の姉は、君に任せるよ。
アルトワ侯爵は、僕に双子の姉をあてがいたいようだった。ーー僕が欲しいのは、ルシィただ一人なのに。
ルシィ。君を想うだけで、僕はこんなにも君が恋しくなる。君に会いたくなる。
君は、まだ僕を好きになっていなくても。必ず、僕を好きにさせてみせる。
愛も恋も、僕には全てルシィだけだ。
◇◇◇◇◇
その日は、雲一つない快晴だった。うん、幸先が良いな。
ルシィを婚約者にすること。それは、父上にすぐに了承してもらった。併せて婚約の申し入れもお願いする。
そして、ようやくルシィに直接申し入れする日がやってきた。
ーーやっと、会える!
僕はルシィに会える喜びから、上機嫌だった。
アルトワ侯爵は、屋敷の外で僕を待っていた。
「こんにちは、侯爵。本日はよろしくお願いします」
「ようこそ、殿下。お招きできて、これほど嬉しいことはございません。さあ、どうぞ中へ」
「ありがとうございます」
さすがに侯爵邸は広く、美しい屋敷であった。並んだ家人たちが、一斉にこちらに礼をとる。侯爵は、家人を良く統率しているようだ。
案内された部屋で、ルシィを待つ。ああ、一秒が千日のように感じる。僕の胸が張り裂けそうだ!
「失礼します」
あっ、ルシィ!ああ、会いたかったよ!今日もなんて可愛いんだ!……ん?なんで姉も居るんだい?
隣でアルトワ侯がウダウダ言っているから、さっさと今日の目的を告げる。
「私の婚約者になって欲しいんだ、ルシィ」
「良かったわね、ルシィ」
……ルシィはマリィの肩を叩いて、そう言った。くすっ。小賢しい真似を。
「何の冗談かな?ルシィ。私が婚約したいのは、君だよ」
うわ、速攻バレた!って顔してるね。ふふ、僕が君を間違うわけがないじゃない。僕の愛は、そんな軽いものじゃないよ?
「まあ、殿下。私はマリィでございますわ」
「ルシィ。君たちは、よく身替わりごっこをしているんだってね。……君を好きになった私が、間違えると思う?」
「げげ!」
「ああ、ルシィ。会いたかった…!」
僕は思わずルシィの手にキスをする。白い、陶器のように美しい手だ。ああ!たまらないっ!
「……何で分かったの?私たちに身体的な違いなんて、無いのに」
「ふふ、そう思っているのは、きっとルシィだけだよ。何より、この瞳の輝き方が違う」
可愛い僕のルシィ。良いよ、教えてあげる。
「夜空の星のように輝いて、紺碧の海のように美しい瞳だ」
「誉めすぎだよ、マリユスーーじゃなくて殿下」
誉めすぎ?ううん、ルシィは自分の魅力を分かっていないね。僕は君の頰に触れるだけで、こんなにも悶えてしまうのに!
ーー僕の愛するルシィ…
「ルシィ・ド・アルトワ嬢に、私、マリユス・アルノー・デュ・ヴァロワが、婚約を申し込みます。ーー受けてくれるね」
「うっっ」
ーー僕は卑怯だ。君が断れないと知っていて、婚約を申し込んでいる。でも、僕はもうルシィじゃなきゃ駄目なんだ。僕の琴線に触れるのは、ルシィだけ…。
「お受けします、殿下」
「っ!ありがとう、ルシィ!大切にするよ!」
嬉しさのあまり、ルシィを抱きしめた。
ーーナニコレ!この柔らかい生物は一体なに?!
ねぇ、侯爵。もうルシィを持ち帰っても良いかな?婚約したし、結婚するし。もう離れがたいよ…!
え?駄目?……残念……。
そのあと、二人で庭を散策する。もう婚約者だもんね。手をつないでも良いよね?
ルシィは素直に手を引かれながら、一緒に歩く。可愛いなぁ、もう!
おまけに、マリィの方が可愛いとか、マリィの方がお妃様に相応しいとか、僕をどうしたいの?こんな…純粋培養で、天衣無縫な可愛い子、油断したらすぐ別の男に取られてしまう!
あと10年、待つよ。それまでに、僕を好きにさせてみせるから。だから…
「卒業したら、結婚しようね。ああ、もう待ち遠しいな!」
本当は、今すぐ結婚したいけど、それはまだ法的に無理だから。いまは約束だけで我慢するよ。
愛しい人、ぜーったいに、離さないからね…!