3.王子様の婚約者
その日は朝から大騒ぎだった。お父様はもとより、お母様も珍しくあわてていた。家人は右へ左へひんぱんに移動するし、厨房ではしかつめらしい顔をした料理人がうなり声を上げている。
「どうしたのかしら…?」
「何があったか、知ってる?マリィ」
マリィは静かに首を振った。マリィに分からないなら、私にはさっぱりだ。もう考えるのをやめた。きっとマリィかお兄様のことだ。
「マリィ、ルシィ、おはよう」
「おはよう、お兄様」
気だるそうにお兄様が部屋から出て来た。あわただしく走り回っている皆の姿を見て、お兄様が目を見張って驚く。
「いったい何の騒ぎ?ルシィ」
「知らないわ」
「いやいや、お前が何かやらかしたんだろう?」
「ええ!ひどい、お兄様!」
と私も怒ってみたが、もしかしたら私がやらかしたのかも…。心あたりがなくもない。先日は、お母様のお気に入りだった花瓶を、割ってしまったし、この前はお父様のよく使う羽ペンの先を、折ってしまったし…。
「…ちょっと、私、体調が悪いので、部屋に…」
「マリィ、ルシィ!」
「ひええ」
「はい、お父様」
「二人とも、応接室に来なさい」
「………?」
私とマリィは、顔を見合わせた。え、二人?とりあえず、お説教ではないの?ーー私はいくぶん胸をなで下ろした。
階段を降り、応接室に入る。すると、お父様もお母様も、神妙な面持ちでソファに座っていた。私たちの後ろから、ついでと言わんばかりに、お兄様も入ってくる。
「実は、だな。先日、王家から我が家に訪問したい、と申し入れがあってな…」
「はい」
「これから、第2王子が来るから、二人とも支度をしなさい」
「えっ!」
「えー…」
驚いたのはマリィで、気のない返事をしたのは、私だ。第2王子が来るからって、着飾る必要ってあるの?
それに、王家がらみなら、きっと私には関わりがないだろう。
「お父様、私には関係ありませんよね?部屋に戻ってもいいですか?」
「駄目だ、ルシィ。いやもう、本っ当に胃が痛いことなのだが…いや、早合点は良くない。とにかく、二人とも支度をするのだ!」
「はい…」
私たちは急いで部屋に戻る。すると、メイドがすでに待ち構えていて、強制的に着替えさせらせた。なぜに?
「ねえ、マリィ。第2王子様が何の用だろうね?」
「……そうね…」
「お、怒られたり、しないよね」
「……そうね…」
ダメだ。マリィ、上の空だ。私たち二人に用事があるのかな?うーん、全然分からない!
着替え終わっても、マリィは鏡の前でチェックをしている。私は退屈なので、入れてもらった紅茶をのんびりと飲んでいた。
すると、階下がざわめく。どうやら第2王子様が到着したみたい。
お父様が、大きな声で私たちを呼ぶ。
「失礼いたします」
一礼して、私たちは応接室に入る。そこには、私たちを見て嬉しそうな笑顔をする、第2王子様がいた。
「二人とも、座りなさい」
「はい」
「うむ、なんだな。その…マリユス殿下が本日いらっしゃったのはだな…」
「私の婚約者になって欲しいんだ」
ニッコリと、それは良い笑顔で王子様は言った。婚約者?ナニソレオイシイノ?
ーーあっ!そっか、マリィを婚約者に、ってことか!良かったな~マリィ。
「ルシィ」
げ!?いま、この人、ルシィって言った!?
あー、だからお父様は、青い顔してるんだ。なるほど…。
あ、ひらめいた!
「良かったわね、ルシィ」
私はマリィの肩を叩いて、そう言った。うん、王子様のことは、マリィに任せちゃおう。
「あ、あの、私…」
「何の冗談かな?ルシィ。私が婚約したいのは、君だよ」
と言って、王子様は私の手を握りしめて言う。うわ、速攻バレた!
「まあ、殿下。私はマリィでございますわ」
「ルシィ。君たちは、よく取り替えごっこをしているんだってね。……君を好きになった私が、間違えると思う?」
「げげ!」
「ああ、ルシィ。会いたかった…!」
そう言って、王子様は私の右手にキスをする。キャー!やめてー!マリィが悲しそうに見つめてるよぅ…。
「……何で分かったの?私たちに身体的な違いなんて、無いのに」
「ふふ、そう思っているのは、きっとルシィだけだよ。何より、この瞳の輝き方が違う」
王子様の手が、するりと私の頰に伸びる。
「夜空の星のように輝いて、紺碧の海のように美しい瞳だ」
「誉めすぎだよ、マリユスーーじゃなくて殿下」
敬語も敬称も使わない私に、お父様がスゴい目でにらむ。ーー怖いよう!
「良いんだ、ルシィ。君には名前で呼ばれたい」
「すみません。お父様が怖いので呼べません」
「侯にはよく言っておくから。ーー私に距離を置かないで、ルシィ」
スッと王子様はソファから離れ、私の前で膝立ちする。ーーあ、これ、マズいヤツだ。
「ルシィ・ド・アルトワ嬢に、私、マリユス・アルノー・デュ・ヴァロワが、婚約を申し込みます。ーー受けてくれるね」
「うっっ」
げげげ、どうすれば良いのかな。本音を言えば、婚約したくない。王子様を好きなのはマリィの方だし。私が…ほんのちょっと想っている人は…別にいるし。
でも、お父様が鬼の形相でにらんでる。『お受けします』と言え!と音声なく叫んでる。
仕方ない。きっと私のことなんてすぐに飽きるだろう。そうよ、これは一時的なものだわ!
「お受けします、殿下」
「っ!ありがとう、ルシィ!大切にするよ!」
王子様はとても喜んで、私をギュッと抱きしめる。いかん、良い匂いがするな、この王子様。
「ーーっ!…失礼しますっ…」
あ、泣きそうな顔で、マリィが出て行った。あれはきっと泣いてる。そんなに王子様が好きだったんだ…。ゴメンね、マリィ。これは、一過性のものだから。王子様は、私みたいな女の子が珍しくて、言い寄ってるだけだから。すぐに飽きるだろうから!
「いや、マリユス殿下。至らない、至らない、本当に至らない娘ですが、どうぞよろしくお願い致します」
……父よ、なぜ三回も『至らない』と言った…?
「こちらこそ、アルトワ侯爵。どうぞよろしくお願い致します」
頭を下げ合う二人。もう、私は売りに出された子牛なのだ…。
「少しルシィと話がしたい。庭に出ても?」
「もちろんです、殿下。どうぞどうぞ!」
「ありがとうございます。では、行こうか、ルシィ」
「……はい……」
売りに出された子牛は、手を握られて仲良く散歩に行くのだった。
季節はまだ春先。我が家の庭が、花でいっぱいになるのは、もう少し先のこと。
それでも、寒椿がまだきれいに咲いている。葉っぱも美しい緑だし、土もキチンと手入れされている。
「良い庭だね」
「ありがとうございます…」
「土も、とても良く手入れされているね」
「うん!庭師が、腐葉土を作るのが、とても上手なんだ」
「蛇は出る?」
「今年は、まだ見てないよ。この前の白蛇さんは、本当に美人さんだったね~」
「はは、確かに」
私とマリユスは、庭を散策しながら話す。マリユスは、とても会話が上手い。つい乗せられてしまった。
「…ごめんなさい。私、また敬語を忘れてしまいました…」
「え?ルシィ、僕と二人の時は、敬語なんて使わないで。呼び名も、名前で呼んで」
「いえ、そういうわけには…」
「……僕のこと、誰も名前で呼ぶ友達なんて、いないんだ。ルシィ、お願いだから、名前で呼んで?」
あ、そっか。身分の高い人だから、皆から敬語を使われるのか。お父様だって、すっごく丁寧にお話ししているものね。ーーそれって、きっと寂しいよね…。
「…良いの?」
「もちろん!僕が僕でいられる場所になってよ、ルシィ」
「うん。じゃあ、遠慮なく」
「ふふ、それでこそ、僕のルシィだね」
え?『貴方の』ルシィではありませんが?ーーでも、成り行きとは言え婚約を受けちゃったから、『王子様の』ルシィになるのかな…?
「マリユスは、なんで婚約を申し込んだの?私は、すっごく雑だし、ガサツだし、およそ女の子らしくないよ?」
「そんなことないよ。ルシィはとってもとっても素敵なレディだよ。少なくても、僕にとっては、最高に可愛い女の子だよ」
「……マリユスは、変わっているね。普通、男の子はマリィみたいに、お淑やかな女の子が好きだよ」
「はは。何だか初めて会ったときの会話みたいだね」
初めて会ったときの会話?ああ…。マリユスが蛇に興奮する私を見て、「君は不思議な人だね」って言ったことか。
「変わっている者同士なら、お似合いだよ、僕たち」
「そうかなぁ。だって、マリユスは王子様だよ?もっとお妃様っぽい人を選んだ方がいいよ」
「ぷっ。ねぇルシィ。『お妃様っぽい人』って、どんな人?」
「うーん、頭が良くて、優しくて、お淑やかな人。マリィみたいな」
「…君は、何でもマリィを誉めるんだね…。僕がルシィを好きなことが、信じられない…?」
マリユスの声のトーンが低くなる。怒らせちゃったの?でも、私、なんかヘンなこと言ったかな?全部、本当のことなんだけど。
「うん、信じられないよ」
「正直だね、本当。そんなところも魅力的だけど。それなら、ゆっくり、じーっくり僕の気持ちを信じさせようかな」
「ええ…?」
「結婚するには、まだ長い月日があるしね。そうだな、婚約期間は10年にしようか。丁度僕たちが、王立学校を卒業するから」
「王立学校…」
「うん。卒業したら、結婚しようね。ああ、もう待ち遠しいな!」
頰を染めて、本当に嬉しそうにマリユスは将来を語る。この縁談、元々断れないけれど、10年もあれば、きっと私よりいい人が見つかるよね!
そして、願わくばそれがマリィならいいな、と私は本気で思っている。
ーーという私の考えがやはり甘かったことを、将来知ることになる。