湖春
春陽に、もうくるなと言われてから二週間たったある日ーー斗真はあるアパートの前で立ち尽くしていた。
築十年という二階建ての、白い壁に青い屋根の小綺麗なアパートは春陽の家で、斗真はよくここに遊びに来ていた。
現在は春陽の母親が一人で暮らしているはずだ。
もう時刻は夕方六時ーーそろそろ帰ってくるはずーー
斗真がアパートの敷地内にある駐輪場のそばで待っていると、春陽によく似た顔立ちの女性が現れた。
「あら、斗真くん?」
黒髪のセミロングにベージュのタイトスカートとジャケットを羽織り、同色のパンプスを履いた女性が声をかけてきた。
春陽の母親だ。
「お久しぶりですーーおばさん」
斗真が軽く挨拶すると、柔和な笑顔を浮かべて、春陽の母親は斗真を家に案内した。
部屋に入るといつもの整頓された部屋がーー広がってなかった。
「ちょーーと散らかってるけどごめんねぇ」
ちょっと?
足の踏み場もない部屋がちょっと?
斗真はいつものように食卓に落ち着こうと椅子を引くがーーあれ?引けない。
椅子の足に謎の袋が引っかかっていた。
そのつっかかりを取り除いて今度こそーーん?座れないぞ?
雑誌の、山が先に椅子に鎮座していた。
仕方なくとなりの席にーー服がかかっている。
「適当にどかしてすわっててーー」
春陽の母親が恥ずかしそうに笑いながら言う。
そういえば寮に入る前に春陽が言っていたなー
お母さんは家事が苦手だから、家がゴミ屋敷にならないか心配ーーーと、
早1ヶ月半でこれなのだから、春陽が卒業して戻って来る頃には大層立派なゴミ屋敷になっているかもしれない。
「珍しいわねぇ、斗真くんが春陽もいないのに来るなんてーー」
おっとりした話し方に穏やかな雰囲気ーー春陽はどちらかというときびきびしていて気も強いので正反対だ。
そんなことを考えながら、斗真は口を開く。
「春陽はーーそのーー元気でしたか?」
「あら?私が行く前にはるちゃんにあってるわよねぇ?」
的確な指摘。
「あ、喧嘩したんでしょーー?」
「け、喧嘩じゃないですーーその……もう来ないでっていわれてしまって……」
斗真が言いづらそうに話すと春陽の母親ーー湖春は納得したように手を合わせた。
「どうりではるちゃんの様子がおかしいって思ったーー言ったこと後悔しているようだったわよーー」
湖春の話では春陽は終始上の空だったらしい。
「せっかく長い時間電車とバスの乗り継ぎで会いに行ってやったのにーーね!」
「まあ、あの山道片道三十分は正直死ぬかとーー」
「え?斗真くんあの道歩いたの?すっごいわねぇ」
若いっていいわーーとかいってるが………ん?
「おばさんも歩きましたよね?」
もしかしてタクシー?大人ってリッチ
とか思っていたら衝撃的なセリフが聞こえた。
「私は学校と駅を繋いでる無料の送迎バスにのって行ったのよーー」
隕石が落ちてきたような感覚だった。
ショックすぎて言葉もでない。
湖春の話では、面会日に指定されている、毎月第一日曜日は学校側が無料の臨時バスを直行便をだしているとのことだった。
ぼくのあの往復1時間はなんだったんだろうか?
ああ……また倒れそう
などと傷心の斗真を他所に湖春はオレンジジュースとアイスコーヒーのグラスをテーブルの上に置いて、斗真の正面の席に座る。
そしてアイスコーヒーを一口飲んで「なんかちがうわねー」といいながらガムシロップを二つ一気に入れて、再び口をつける。
「はるちゃんが入れたコーヒーが飲みたいわー」
どうやら望んだ通りの味にならなかったらしい。
「はるちゃんはね、こんな母親のせいで、子どもになりきれなかったのよ」
唐突に話し始めた湖春は、少し寂しそうだった。
「旦那が突然消えちゃって、泣いてばかりの春陽に泣くな!って怒っちゃった時があるの」
ひどい母親よね……そう呟く彼女は、笑みを浮かべながらも瞳は寂しそうに揺らいでいた。
「働いたこともなかったし、お金の稼ぎ方もわからないし、どうすればいいのかわからなくて、パニックになったのよ……」
どんどんお金は無くなるのに、春陽はお腹すいたーーお父さんどこ?って泣きわめく。
「誰に相談すればいいのかわかんなくて、駆け落ち同然で結婚したから親にも頼れずにね」
それから毎日死にたいと考えるようになった。
愛していた人が突然消えて、頼れる人がいない。
空腹と絶望感が湖春を、いつしか「死」へと追いやろうとしていた。
「その時助けてくれたのが、渚ちゃん」
「渚ねぇ?」
渚とは星野渚ーー斗真の父親の妹で、バリバリのキャリアウーマン。三十二歳独身。
ちなみに湖春の同級生であり、幼なじみであり、大親友である。
「どっから聞いたのかわかんないけど、いきなり訪ねてくれててきぱきなんか色々してくれてーー気がついたら実家に帰ってた」
滞納していた家賃やら光熱費やらは綺麗に清算し、アパートも引き払って、引っ越し業者まで手配してくれていたらしい。
簡単に想像できる。
斗真も渚の手際の良さにはいつも流されているーー急流のボートに乗っている感覚だ。
気がついたらゴールしている。
そんな感じ。
「後から聞いた話だとね、渚ちゃんうちの両親に頼まれて時々様子を見にきてたんだって、で、郵便ポストから手紙が溢れているのを見て心配になって訪ねてくれたんだって」
それからしばらくは実家で暮らしていたが、自分がしっかりしなくちゃと一念発起して、資格をとり、今の事務職の仕事についたらしい。
「一年くらいしたらすっかり吹っ切れてね、私一人ではるちゃんを育ててみせるっ!って意気込んで実家の近くにアパート借りて住んでみたけどーー当時は料理は下手だし掃除は苦手だしーーだからか器用なはるちゃんが率先してやってくれてーあの子その時六歳よ!六歳なのにーー家事を色々やってくれてーー時々お母さんが見にきてくれてたけど……」
湖春は一気にまくしたてる。
「もっと子どもらしいことさせてあげたかった」
いつのまにかーーあの子は一人でなんでも背負いこんでしまうーーそんな子になっていた。
「ダメな母親よねーー」
ぽつりと呟いて、湖春はすくっと立ち上がった。
「こんな話ししてごめんねーー!はるちゃんいなくなってから寂しくってーー」
湖春はそういって笑った。
誤魔化すように無理して笑っているのはすぐわかった。
背を向けた湖春をみながら、斗真は必死に考えた。
かける言葉が見つからなくて、でもーー伝えたい気持ちはあってーー
「春陽はーー」
気がついたら斗真は声を上げていた。
「春陽はおばさんのこと好きですよ」
なにをいえばいいのかわからず、斗真は自分が感じていた春陽から湖春への気持ちを口にした。
「春陽はーーいつもぼくを気にかけてくれてーー妹の面倒も見てくれるし、料理だって上手だしーー気が強いし、喧嘩っ早いしーーー」
斗真はとりあえず思い浮かぶ言葉を並び立て、まくし立てた。
「で、でもそれはいつもぼくが原因なんですーーぼくのために怒ってくれるんです」
春陽はいつも助けてくれるーーこんなぼくをーー
「おばさんがお母さんだから、優しくて、強い春陽になったんですーー」
斗真の言葉に湖春さんは少し驚いた顔をした。
「おばさんはーーダメな母親なんかじゃないですーー」
恥ずかしそうに、絞り出すように紡がれた言葉は湖春の中でふわりと溶けて温かみをました。
「ありがとうーー斗真くん」
湖春は優しく微笑んだ。