迫る影
土砂降りの雨の中、ぬかるみに力なく横たわる細い体躯ーー
降り注ぐ雨のせいで体温はどんどん奪われ、体は動かなくなってしまった。
ああ……私死ぬんだ……
そう薄れゆく意識の中ぼんやりと死を感じた時、その人物は現れた。
『生きたいですか?』
影に紛れやすいように黒いローブを纏い、フードを深く被った彼女は淡々と尋ねた。
「だ……れ?」
私の質問に彼女は答えない。
幻でもみているのだろうか?
彼女の背中に純白の翼が2対生えているのが見える。
それは物語に出てくる天使が、目の前に実体となって現れたようだった。
『私はあちら側の世界に行くための媒体を探していました。』
天使はしゃがみ込むと、私の顔を覗き込んだ。
霞む視界にはうっすらと淡く輝いて見える上、半分透けて見える綺麗な女性が映り込んだ。
長く煌めく絹糸のような水色の髪に、澄んだ翡翠の瞳、人とは思えないほどの絶世の美女だ。
やっぱり私は死んで、その迎えが来たんだと悟った。
迷惑をかけてばかりだったな。
魔法をろくに使いこなせず、足手纏いだと、幾つものチームに拒否され続けた役立たずの私を、彼らは笑顔で受け入れてくれた。
せっかくーー受け入れてくれたのに…
今までの出来事が脳内を駆け巡り、私の眼から暖かなものがこぼれ落ちた。
走馬灯ってこんな感じなんだーー
「死に……たく…ない」
涙と共に想いも溢れて、絞り出すようにしてやっと言葉にする。
天使様、わざわざ来てくださって申し訳ないけど、私はまだやることがあるのでお帰りください。
言葉にできない声を、その天使は感じ取ったのか、クスリと頭上で笑う声がした。
『生きたいのですねーーならば私と契約を結びなさい人の娘よーー私は偉大なる女神、アスナルディア様の側近ーー』
〝智の天使〟ーーミスラフィーネ
彼女のおかげで私は生きて元の世界ーー「地球」に帰ることができたのだーー。
もう五年以上前だというのに、昨日のことのように思い出す。窓の外の一雨きそうな曇り空を見るたびに追憶していた。
この学園の正体を知った時、私は天使様の力になることを自ら望んだのだ。
『黒幕を掴みーー女神様を見つけるーー』
そう『智の天使』と、契約を交わしたのだーー
不意に窓の外に茂みに隠れるようにして移動している少年が視界に入る。
彼はーーー!!
私、黒川奈津子は瞠目して勢いよく立ち上がった。
女子寮を飛び出して斗真は走り続ける。
訳もわからず衝動的に飛び出してきたため、目的もなければ目指している場所もない。
どこにいけばいいのか?
どうすればいいのか?
一体どうなっているのかーー?
考えることが多すぎて許容量はとっくに越して、斗真は混乱していた。
出口のない迷路の中を彷徨っている感覚だ。
ただ一つ、あの春陽は春陽ではないという確信だけが斗真の中ではっきりとしていた。
例え、守衛室にいったとしても、あれは春陽じゃないといって信じてくれるだろうか?
笑われるだけだろう
まるで春陽のように振る舞い、春陽の声で、春陽のように笑っていた。
一体いつからーー??いつから春陽と入れ替わっている?本物の春陽はどこへ??あれはなに?だれ??
春陽は生きているの??
恐ろしい考えが過ぎって、斗真は心臓が激しく脈打つのを感じた。
そうだーー!
立ち止まって、斗真は行き先をかえる。
夢が正しければ奥に灰色の建物があり、中に黒い門があるはずーー!
斗真の考えはこうだ。
あの春陽は門から出てきた魔物だとーー!
なら、本物はあちらの世界にいるのではないか?ーーーと、
本当に、夢の通りに漆黒の門があるのかも定かではないし、異世界に通じてるなんて絵空事を斗真も疑っていないわけではない。
だが、不思議と心のどこかで確信があった。
門も、不思議な世界も本当にあるのだと。
夢の中では何度も明桜学園を上から俯瞰して、門をくぐっている。
現実もその通りならば、学園内の建物の位置関係やそこまでの道筋を斗真は手に取るようにわかった。
斗真は人に見つからないように茂みに隠れながれ移動する。
幸い人通りは少なく灰色の建物まですぐ着いた。
斗真は茂みから飛び出して、灰色の建物の入り口まで全力で走った。
しかし、両開きの鉄の重厚な扉には南京錠がかかっていた。
「裏側はガラスのはずーー」
斗真は諦めて別の潜入方法を考える。
この建物も、そこまでの道も全て夢と同じだった。
ならば、漆黒の門の裏側も夢とおなじでガラス張のはずーーー!!
斗真が踵を返すと、背後には人がたっていた。
気配や物音は愚か、足音すらしなかったその少年は突然湧いて出たようだった。
驚愕のあまり斗真が言葉を失っていると、少年は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「きみ、小学生かな?ここは立ち入り禁止だよーー」
そう言って斗真の肩へと手を伸ばしてたその手を、斗真は後ずさって避けた。
人に見つかったことでパニックになっていたのだ。
端正な顔立ちにさらさらの黒髪をした少年は中性的でありながらも、体つきはしっかりとしており、背も斗真より随分と高かった。
警戒心丸出しの斗真がどうすべきか逡巡していると、少年が口を開く。
「そんなに警戒しないでよーーなにもしないからさ」
貼り付けられたような笑顔を向けながら優しい言葉を吐くその様子に斗真は不信感を募らせていく。
そしてふと、見えにくいが少年の首筋に一本の黒い糸が伸びていることに気がつく。
首の後ろから校舎の方へと繋がっており、黒いもやのようなものが、校舎から少年へと、糸を通って流れ込んでいるように見えた。
首の後ろになんかいる……?
少年は正面を向いているため死角になって見えないが、首筋に何かが張り付いているように見える。
なんだ……?
少年の首筋を注視しながらも、敵味方の判別もつかないで迷っていると、いつのまにか複数の生徒たちに囲まれていた?
いつのまにーー!?
斗真が緊張を漲らせていると、少年は貼り付けていた笑顔を一瞬で消し去った。
「捕らえろ」
冷たく言い放たれた言葉に従って、まるで人形のように無表情の生徒たちが斗真に向かって走り出す。
「こっちーー!!」
絶対絶命ーー!!斗真が凍りついた瞬間、どこからともなく女性が現れ、腕を乱暴に掴むと一目散に走り出した。
つられて走る斗真だが、掴まれた手から懐かしい気配を感じて、この女性の指示に素直に従うこと決める。
ふと背後を一瞥すると、生徒たちと少年がこちらを追って来ていた。
「もっと早く走って!追いつかれるわ!!」
そういわれてもこれが全力なんだけど!!
斗真はすでに必死に走っているため反論する言葉も出せなかった。
斗真の必死の形相から察したのか、女性は軽々と斗真を横抱きにーーいわゆるお姫様抱っこであるーーすると、上空へと跳躍した。
「うそーーーー!!!!」
女性に抱き抱えられる羞恥心など一瞬で消滅して、斗真は驚嘆の声を上げた。
灰色の建物の屋上まで、軽々と「ジャンプ」したのである。
まるでスーパーヒーローの登場のようだと興奮している斗真を他所に、女性は斗真をさっと置いて背後に庇うように前へと出る。
「え?まさか……」
逃げ切ったものだと安心するのも束の間、斗真が女性の行動に察して彼女の陰から覗き込むと生徒たちも追って屋上へと跳躍してきていたのだ。
どうなってるのーーー!?
この学園はみんなこんな身体能力超人なのかと斗真が唖然としていると、生徒たちから少し遅れて黒髪の少年が現れる。
「総司くん……まさかあなたまで!!」
女性が苛立ちを混ぜながらいうと、総司と呼ばれた少年は冷笑を浮かべる。
「やはり『女神の手下』が紛れ込んでいたか……その女の身体に潜り込んでここまで気配を隠すとはーー今まで気がつかなかったよーー実に見事だ」
先ほどの柔和な声とは一変、口調が変わり、称賛するかのごとく総司が話すが、女性は苦しげに眉を潜めるだけだった。
「その子供もお前の仲間だろう?」
話がよく見えないが、どうやらぼくはこのお姉さんの仲間だと勘違いされているらしい。
斗真は沈黙してことの成り行きを見守っていると、ながい間に痺れを切らしたのか総司は仲間たちに「捕らえろ」と短く命を下した。
「彼は本体ではありません!」
「え!?なに!?」
女性の言葉にら斗真はよく分からないが反射的に返事を返す。
女性は今度は斗真を小脇に抱えると、四方八方から仕掛けてくる生徒たちを紙一重に避けながら話を続けた。
「この生徒たちは洗脳されているのですーー操っている黒幕は別にいます!!」
「なんだってーー!!」
じゃあ、この人たち悪くないってこと!?
斗真がなかなか大きなリアクションをとることに女性は少し驚いたように目を丸くした。
「やはり、あなたはーー」
女性はそこで言葉を切ったーー正確には言えなかったのだ。
ドン!!!!
突然視界が真っ赤に染まり、斗真を衝撃が襲う。
気がついたら女性に強く抱きしめられたまま、地面に横になっていた。
数瞬してから、斗真は巨大な火に飲み込まれ、女性は斗真を庇ってくれたことをやっとのことで認識した。
辺りから黒く染まり、女性が羽織っていた白衣が焦げている。
口から漏れている微かな呼吸で生きていることを感じた斗真は女性に、向かって叫んだ。
「お姉さん!!しっかり!!」
斗真の叫ぶも、女性の閉じられた目蓋はピクリとも動かない。
「かわいそうにーーそんな魔力の少ない女と契約したがために、力の半分どころか、一割もつかえてないーー女神の手下ともらあろう天使がーー無様だな」
夢でもみているのだろうかーー?
総司は優しそうな笑みを浮かべながら、赤々とした炎を纏っている。
発している熱量だけで、肌が焦げそうだというのに、平然と、まるで蛇を身体に這わせるように纏わせている。
斗真が言葉を失っていると、総司はなんの躊躇いもなく手をかざした。
「ーーーーー!」
日本語ではない言葉だ。
総司が何かをいうと、今まで彼に纏わりついていた炎が斗真に牙を向いて襲いかかる。
斗真は体が動かなかった。
思考も停止してなにもできないーー
無抵抗の斗真を、炎の蛇はあっという間に飲み込んでしまった。
「ーーー捕らえようと思ったがまぁいいーー弱すぎて話にならん」
総司は燃え盛る炎を一瞥すると、役割を終えたとばかりに踵を返した。
「あの女の替わりの人形を作らねばーー」
そういえばあの子どもはどこの誰だったのだろうか?
天使の仲間だろうが、正体を吐き出させるのを失念していた。
総司が熟考していると、ふと炎が掻き消えた。
「なんだーーこの気配は……」
にわかに湧き出た魔法の気配ーーいや、この気配はーー
総司が視線を向けた先には炎に飲み込まれたはずの少年と女がいた。
少年が顔を上げる。
その右目は黄金の輝きを放っていたーーー。
それはーー悠久の彼方に消し去ったーー憎き仇の瞳と酷似していた。
総司は思わずつぶやいた。
「女神――アスナルディアーーーー」と