チャーハンと焼き飯の違い
これを読んでいる方で「チャーハン」を知らない人はいないと思う。そして、同じ意味と捉えがちな「焼き飯」も知らない人はいないだろう。
例えばラーメン屋に出向き、メニューにチャーハンと書いてあっても、
「焼き飯ひとつ」
とお願いすれば、チャーハンが来る。
逆もまた然り。
この2つの違いは何だろう?と、湯気の出ているチャーハンを頬張りながら、ぼんやりそう思った方も何人もいらっしゃるだろう。
調べてみれば、ただ呼び方の違いだけ、とある。
また他に、作り方の工程、卵の入れ方や使い方の違いがある、との話もある。
大方、明確な定義などないのだ、というのがネットでのご意見のように受け取った。
しかし私はここで、この状況に苦言を呈したい。この2つの料理、特に「焼き飯」の方は、元から大きく違いがあるのだ。
いや、"あった"のだ。
そしてその違いをなくしたのは、現代社会の食生活、食文化が原因。
つまり食の歴史上「本当の焼き飯」は消えてしまっているのだ。
さて、この話を掘り下げるために、少し堅苦しい話になることをお許し願いたい。
時代は縄文時代後期、米が伝来し、稲作が始まりだした頃まで遡る。
当時は「お米を炊く」という調理法は確立されていなかった。そう、この時代、お米は「焚く」ことが普通で、それが焼き飯のルーツとなった「焚き飯」の始まりとなったようなのだ。
その調理法は簡単でシンプル。適当に切った筒状の竹に米を入れて、焦げて外側が黒くなるまで焼くだけだったようだ。なお補足するが、話が細かくなるので、同時期に摂取されていた麦や粟、稗は同じ部類とみなし、割愛させて頂く。
そしてその生活環境は当時の住居跡から確認が可能であり、割れた炭となった竹からうかがい知れる。
当時の人々にとって焼いた米は当然ながら食べにくく、摂取効率も悪かった。そして縄文、弥生と土器の発展に伴い、米の調理法は煮る、蒸す、炊く、と進化していった。
そしてさらに平安、室町と時代が流れるにつれ、伝来当初から使われていただろう塩をはじめとする調味料にも幅が広がり、貴族の食卓に炊かれたご飯が並んだようなのだ。
ただ、それでも「焚き飯」は、やんごとなきお方の食生活から離れていっただけで、まだまだ庶民が口にする食べ方ではあったと、私は少ないながらもその資料から読み解いている。
そして、「焚き飯」の転換期は江戸に入る頃に迎えることになったのだ。
庶民の口にも炊いたお米が届くようになり、自然と「焚く」は「炊く」に変わり、「焚き飯」は呼び方として不自然な表現とみなされる立場となったのだ。
よってどうもこの辺り、17世紀前後に現代のルーツとなる「焼き飯」に呼び方が変わったと、私は見ている。
つまりチャーハンは中国由来の調理法を踏襲した、現代でもお馴染みのものであり、焼き飯はただ焼いただけの飯。そもそもアプローチから大きな違いがあったのだ。
しかし明治以降、積極的に西洋をはじめとして様々な文化が取り入れられ、日本古来の「焼き飯」の調理法・・・言ってしまえば、その単純さゆえ、そしてその味の物足りなさから「改良」が加えられていった。
これは現在の焼き飯のあり方を考えれば、「改悪」だったと言わざるを得ない。
その1番の要因は味付けやニーズから、また、今に至るようにその両者の違いの曖昧さに拍車がかかり、結果的にチャーハンと焼き飯の差がなくなってしまったからだが、美味しくないものが食文化で淘汰されるのは致し方ないだろう。
なので、逆に言えば、今日焼き飯がこのようになったのは、必然だったという面もある事も、私は否定しない。
これら「焚き飯」「焼き飯」のルーツは明確に文献に記載されているわけではないが、地方の豪農の日記や、小さな武家が編纂した冊子などに、ちらほらと当時をうかがい知る食生活の一部紹介、補足として見受けられる。
皆さんももし、そのような文献を閲覧する機会があったら、この事を思い出して、是非探してみて欲しい。
もしかしたら私も知らない新しい「焼き飯」と巡り合うかもしれない。
そしてこの説を締めくくるにあたり、私は、最後にとても大切な事を読み手に伝えたい。
それは、ここに書いた話が全部嘘、でっち上げだということを、だ。
書いてみたかった。
歴史研究者というのも嘘です。
4/17 初めて日刊2位を頂く。
このような正真正銘の駄文にありがとうございます。
ふふってなれば、幸いです。
と書いて気がついたら1位になってた!
生まれて初めてだ。今日は誰にも言えないけど祝杯をあげよう。