二匹の猟犬
1.
捉えどころのない男だった。
「そんなんどーでもいいからパンツ見せてくれよ」
銃口を四方から向けられた状況で手さえ上げずに男は言う。清々しいまでの潔さ。その瞳には純粋な光だけが宿り、何を考えているのかはわからない。いや、何も考えていないのではないかとさえ思える。
「アンタ……よくこの状況でそんなこと言えるわね。頭おかしいんじゃないの?」
「ははっ、よく言われるよ。けどそんなこと言われても俺の頭がおかしいのかどうかなんて俺が決めることじゃなくて他人が決めることだと思うんだよなぁ」
なんだこいつ……急に哲学的なことを言い出したぞ。と、思った途端。
「なぁ、早くパンツ見せてくれよ」
女、メリダはため息をついた。
「姉さん!? こいつ何にも持ってねぇぜ!」
驚きと笑いを含んだ声で取り巻きのひとりがボディチェックの報告をする。おいおい冗談だろ。呆れを通り越して笑いがこみ上げてくる。
「アンタ本当に死にに来たのかい? 休眠時間ったってあのデカブツはウロウロしてるんだよ? 丸腰で水の一本も持たないなんて馬鹿としか思えないね」
「あー、シュバリエね。まあそれが怖いから先にお嬢ちゃん達のところに寄ったんだけどな」
お嬢ちゃん? 一瞬その呼び方に苛立ちを覚えたが、直ぐに気にするところが違うと気付く。シュバリエ。あの巨体のゾンビをそう呼ぶのは軍の人間ぐらいのものだ。そして、その後の言葉……。
「離れろ!!」
そう彼女が警告を発した時にはすでに遅かった。
まず身体検査をしていた仲間が足元を掬われた。そのまま左を抑えていた仲間もろとも突き飛ばされ盛大にひっくり返る。
遅れて反応した残りの三人がトリガーに指をかけるが、見かけによらず俊敏な男は背後の仲間から銃を奪うと同時にその首へ左腕を巻きつけた。銃身が翻り、人質にされた仲間のこめかみを捕まえる。
「動くなよ。頭が飛ぶぜ」
「……」
あまりにも鮮やかな手並みに言葉が失せた。目の前の、お世辞にも強そうとはいえない白髪頭の薄汚い男は先ほどと変わらない面持ちでメリダを見ている。勝ち誇ったり、ほくそ笑んだりということは決してしない。
「うーんとなぁ……まず標的を囲む時は、仲間同士の射線上に立たないことだ。チームキルはFPSの中だけにしとけな」
説教、というよりも、眠たい授業をするハイスクールの教師のような言い方がむしろ苛立たしかった。
パンツがどうのこうのと言っていたのはやはりフェイクで、間の抜けた会話とどうでもいい無意味な言葉で警戒心を緩めることが狙いだったのだ。考えてみれば敵がこちらを舐めてくれていた方が何事もやりやすいだろう。
まんまと男の策に嵌ったメリダはぎりりと奥歯を噛み締めた。こんな奴に。そう思うこと自体が侮っている証拠だが、悪態は抑えられない。しかし、彼が口にした次の言葉に彼女の頭は真っ白になった。
「とりあえず、はやくパンツ見せてくれよ」
「……は?」
「自分でそのジーンズを下げるんだ。その方がいい。あぁ、全部下げるんじゃないぞ! 膝! 膝までだ! その位置が一番興奮する」
屈辱という言葉を、本当の意味で知った瞬間だった。
「さてと……」
銃を調達して可愛らしいクマさんパンツに心満たされた男は、比較的安全そうなビルの一室に彼女達を担ぎ込むと煙草をくわえて火をつけた。耳に挟んでおいた最後の一本である。
「なあ、誰かタバコ持ってねーか?」
その問いに返ってきたのはもごもごとくぐもった声だった。ああ、そっか。それじゃあ喋れねーか。
「っ!」
口にされたガムテープを乱暴に剥がされてメリダが短い悲鳴をあげる。プライドのせいか、それを必死に抑える様が非常に良い。
「……タダで済むと、思うなよ」
恨めしそうに睨みつける視線。しかしその威嚇は逆に男を喜ばせる種類のものだった。
「ははっ。その時はたくさん可愛がってやるよ」
プッ。吐かれた唾が頬に散る。
あぁ、今日はなんて日だろう……こんなに"御褒美"が貰えるなんてっ。
男のドーパミン放出回路は完全に狂っていた。
そんなやり取りがあって時刻は二時を回ろうとしていた。新しい煙草を胸ポケットに入れ、紫煙を燻らせながらビルを出る。"お姫様"のピックアップ地点までは少しばかり歩かねばならない。
「しっかし、良い太腿だったなぁ」
眼福の余韻に浸りつつ、頭の片隅では作戦内容の確認がついでで行われていた。比率で言えば九:一。もちろん九割がメリダの赤面したあられもない姿だった。
地上で生活するものを区別するならば民間人と軍人の二つだろう。この両者の間には大きな溝があった。
前者に関しては地下都市の篩から零れ落ちた者が大半で、後者の軍人達というのはろくに訓練も受けていない徴兵組の面子だ。中には男のように警察やSP上がりの猛者もいるが、彼のように単騎で行動する者は少ない。
「お?」
ふと、荒れ果てたブティックのショウウィンドウに立ち止まる。
ヒビの入ったガラス張りに映るのは薄汚れた男がひとり。髪も顎髭もすっかり白くなり、とても強そうには見えない。背は割と高い方だがそれも黄色人種の範囲内だった。
「……相変わらずきったねぇ成りしてんなぁ」
苦笑混じりの言葉が煙草の煙と共に吐き出される。男はまだ四十二だった。
桐原富嶽はとある要人お抱えのボディガードだった。
朝はボスの大切な一人娘をジュニアハイスクールへ送り届けるところからはじまる。名前はシリカ……シリカ・ラウル。今では痛みを伴う名前である。
あの日も桐原の運転するリムジンの助手席で彼女はムスッとしていた。
思春期に入った少女は父親とよく喧嘩をする。後部座席の彼を避けて助手席に回ってくる時はだいたいご機嫌斜めだった。
「酷いと思わない? 先週もその前の週もパパはお仕事、お仕事、お仕事。そんなに働きたいならオフィスに住めばいいのよっ」
憤懣遣る方無いとでもいうようにフンッと鼻を鳴らす。小さな身体の割に怒った顔はなかなか迫力があった。
「ボスも残念がってましたよ。先月はピアノの発表会にも出られなかったとか……」
「なによそれ。ガク、安っぽい映画で覚えたの? そのフォロー?」
小生意気なお姫様は桐原のことをガクと呼んでいた。富嶽のガクだ。
日本名の発音が難しいらしく、フジヤマ、フガー、キリなどいろいろ試した結果、最後にたどり着いたのがガクというわけだ。
おいおい、俺は犬かよ。最初のうちはそんな風に思ったものだがいつの間にか自分でもその呼び方が気に入っていた。きっとこのお姫様のおかげだったろう。
ガクと呼ぶ声。それはコロコロと変わる豊かな表情といつもセットだった。朝のむくれっ面。学校で嫌なことがあった日の曇り顔。他愛もないジョークで見せてくれた満面の笑み。それを見るたびに、いつしか強い使命感を覚えていた。
この子の笑顔を守るために。この家族の幸せを守るために、盾は必要なんだ。
固い決意と重責。命に代えてでも。
しかし、この日をもって彼の使命と存在価値はあっさりと無に還る。そう……あの日なのだ。
「!!」
唐突に前を走っていたファミリーカーが車線を外れて隣の車体に突っ込む。耳を劈く衝突音。桐原は頭で考えるよりも早くハンドルを切っていた。
即座に反応して路肩にリムジンを滑り込ませることに成功したが、運の悪いことに突っ込まれた車体が桐原たちの方へ後続車を巻き込み迫ってくる。更に言えば、その車体が大きな石油タンクを背負って走る大型タンクローリー車だった。
「ガクっ」
青ざめたシリカの声に応える余裕もなくシートベルトを外して懐からナイフを取り出す。助手席の方のシートベルトをそれで手早く切ると、桐原は彼女を抱えて外へ出た。一歩目を踏み込み一気に走り出す。
「おぉおおおおおおおっ!!」
こんな風に叫んだのはいつ以来だったか。日本にいた頃は自衛隊で下積みをしたことがあったが、その時でさえこんな獣みたいな声は出した覚えがない。"守る"ということの難しさを改めて実感させられた。
混雑した朝のハイウェイは事故を受けて流れが堰き止められていた。後続では何事かと外に出てきたドライバーが野次馬根性を覗かせている。
その脇を桐原がすり抜けるのとタンクローリーが二度目の衝突を引き起こすのがほぼ同時だった。
「伏せろっ!!」
何人の人間がこの警笛に反応したのか。
頭上を破片や熱波が吹き抜けていくと共に常軌を逸した悲鳴が幾つも響き渡る。覆い被さるように抱えたシリカの怯えがしがみつく両手の震えで伝わってきていた。
ちくしょう。なんて日だ。
アクション映画にありがちな悪態を内心で吐き散らす。シリカの言葉もあながち間違っていないかもしれない。
轟音が乾いた風に消え悲鳴が呻きに変わった頃、桐原はゆっくりと頭をあげて辺りを見回した。引火爆発して横転したローリー車は残り火を登らせて焦げ臭さを醸している。周りには巻き込まれたドライバー達が変わり果てた姿で転がっていた。
「大丈夫ですか? お姫様」
頰の煤を拭いながら呼びかける。短い呻きが小さな口から零れて瞼が薄く持ち上げられた。
「こんな時に……さむいジョーク、やめてよね」
ぼやけた声音だが生意気な口がきけるぶん意識ははっきりしている。負傷箇所がないか確かめたが、目立った外傷は認められなかった。
「なにがあったの?」
「わかりません……念のため頭は動かさないで」
「大丈夫、なんともないわ。それより貴方は他の人の手当てに回って。butはナシよ」
制止も聞かずに頭を起こしたシリカは父親の口癖を真似てみせる。一挙手一投足を注視されるボスのイメージアップでも考えているんだろう。ガキのくせに強がりやがって。
「……すぐに戻ります」
「帰りにナゲット買ってきてね」
ジョークがさむいのはお互い様か。思いながら身を翻して走り出す。この選択が間違いだったことに、その時の桐原は気づかない。
最悪の事態を想定して常に警護対象を最優先すること。クライアントの情に流されないこと。プロフェッショナルとして欠いてはならないものだった。その結果……それが彼女と交わした最後の言葉になった。
「……ふっ、はは、ははは」
力なく笑う。左手は緩やかに銃把を掴んで撃鉄を起こし、狙いもつけずに弾丸は吐き出された。ショウウインドウに写る自分が粉々に砕けて飛散する。マネキンは二度三度揺れてから後ろに倒れた。
今の自分に、生きている価値はあるのだろうか。
死にたいとも生きたくないとも思いはしない。ただ早くこんな悪夢は終わってくれとは思っている。それが死という結果なら喜んで受け入れるところだ。
しかし皮肉なことに、彼は投げやりになればなるほど強くなっていった。若き日の戦闘訓練で培われたものは無駄な思考を排除してより一層研ぎ澄まされ、百を超える敵に囲まれてもものともしない。これが仏教で言うところの無我の境地というやつならば、シッダールタに皮肉を込めて望まぬ希望だと言ってやりたかった。
「……ランデブーまであと五時間。死ぬまでには……あとどれくらいだろうな」
自嘲的な言葉を零してため息をつく。と、不意に誰かの視線を感じた。とても近い距離。身体が勝手に戦闘態勢に入り敵にそなえる。しかし彼にゾンビが襲いかかってくることはなかった。
?
気配を感じさせずに至近距離まで近づいてこれるのは死んだ人間くらいのものだ。だが周りを見回してみても歩く死体の姿は認められない。
どういうことか。肩透かしを食らったような気分で呆けていると不意に足元から小刻みに行われる呼吸音が聴こえた。ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……。桐原はシリカの飼っていたコーギー犬を思い出した。
「おいおい……脅かすんじゃねぇよジョン」
誰に向けたわけでもない言葉に四足歩行の珍客がクゥンと不思議そうな鳴き声を出す。桐原は警戒心を解き、ゆっくりとした動作でしゃがみ込んだ。
双眸に宿る青い瞳と白黒灰茶の柔らかな毛並み。一つ頭を撫でてそのまま耳の裏を掻いてやる。心地良さそうに目を細めると"彼"は甘えるように鼻を鳴らした。
「ははっ、こいつぁいい。なかなか面白いネーミングセンスだ」
薄汚れた赤い首輪には漢字で三文字"渥美犬"と記されている。大方ジャパニーズかぶれの飼い主が意味もわからずつけたのだろう。
桐原は少し考えてから彼の青い瞳を覗き込んだ。犬コロのくせに随分なハンサムである。
「一緒に来るか、ヤミイヌ。そう、お前だ」
キョトンとして見上げるハスキー犬に新しい名前をくれてやる。アツミケンじゃあいちいち呼びにくいし締まらない。それならまだこっちの方がいいだろ。渥美から氵を取っただけだが響きも悪くない。
幸い、彼の方もその名を気に入ってくれたのか一声吠えて早く行こうと桐原を急かした。
道中のお供にワンコロ連れて鬼ヶ島か。
内心で皮肉ってみたが、今の桐原には最適の相棒だった。
2
Firstはぬるい液体に浸かって蹲る。胎児が母体の中でまるまるように。獣が眠りにつくときのように。
ここは、どこだろう。
エメラルドグリーンに染まる世界。視線は固定され、ガラス越しの無機質な硬い床だけを映し出していた。天窓から射し込む光も結局は人工照明で、クローン培養カプセルにまですり抜けてくるそれが取るに足らないストレスを与える。
あぁ、そうだ。ここは……私が生まれた場所だ。
Firstはこれが夢だと気付く。それも何度も見たことのある夢だった。
キィィ。金具を軋ませて扉が開く。薄い明かりが暗い室内を朧げに照らし、ひとりの女が入ってくる。これもいつも通りだ。
女はFirstの培養カプセルの前で立ち止まりじっとその姿を見つめる。夢の中のFirstも気怠げに女を横目で見た。
金糸のような長い髪と怜悧な瞳。白い肌に散見される擦り傷。レザーコートにグレーのシャツ。ジーンズは色褪せ擦り切れ、首に巻いた赤いスカーフは返り血で染まり元々の色よりもどす黒くなっている。
Valkyrie。自分と同じ名を持つ過去の英雄。越えねばならないハードル。
初めてこの夢を見たときの事をFirstは思い出す。あれは確か最初の選別テストがあった直後の事だった。
「……」
自分と同じ顔をした仲間との一対一の模擬戦闘。渡されたナイフは本物で、その重みに毛が逆立つのを感じた。
アナウンスが響き、ガラス越しの一段高いモニター室からルールの説明がなされる。優しそうな男の声だった。
『五感……いや、"六感"を駆使して自己のレーゾンデートルを示してくれたまえ。健闘を祈る』
男がそんな言葉で最後を締めると試合開始のブザーが鳴る。その時のFirstにはその意味がまるで分からなかった。




