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Valkyrie  作者: 右利きのアイツ
第1章
2/3

出撃

1



2XXX年。


某傘社の陰謀かそれとも宇宙人の侵略か。世界に突如発生したウィルスによって人口の半数は死滅し、歩く屍と化した。


その発端となったものは未だ究明されておらず、人類は今ある命を優先して地下へと潜った。そして地上はウォーキングデッドの住まう異界へと変貌する。


この事態を重くみたG7加盟国は直ちに合同協議会を設立。フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、カナダ、日本、イタリアの7カ国に加え、周辺国のトップが一同に集まった。その中には北の指導者までもがいたというのだから事態の深刻さが伺えた。


まず最初に挙げられた提案はワクチンの精製という抜本的なものだった。


しかしそんなものが易々と作れたならばここまでの窮地には追い込まれてはいない。抗体を作り出すにも捕獲したサンプルから抽出したウィルスは外気に触れた瞬間に劣化が始まってしまう。培養液に移したところで、あとに残っているのは血中のアミノ酸とタンパク質の残骸だけだった。


つぎに挙げられたのは地上に徘徊する感染者達の掃討作戦だった。


これはアメリカ主導で大部隊を動かしたわけだが、その結果は悲惨なもので、帰ってくる頃には輸送機一便で事足りるだけの人員であった。言うまでもなく、帰らぬ者は地上を喰屍鬼となって彷徨い続けている。


こうなれば最終手段の核弾頭だとアメリカ初の黒人大統領は猛々しくいきり立ったが、その頃にはどこの国も消耗しとても花火を打ち上げる体力を残してはいなかった。あまりにも滑稽な話である。


万策尽きたというその頃に、こんな策が打ち出された。生きた人間が戦地に赴き感染するのなら、死体を再利用して感染しないアンドロイド(人造人間)を生み出そう。北の指導者と北欧の問題児のこの提案には投げやりな失笑が漏れた。


それから12年の時が経ち、地上は死の瘴気に包まれ絶望だけが蔓延していた。


有効な打開策は望めず先細りの未来を待つしかない人類はよもやこれまでかと思われたが、ここに来て一条の光が差す。最も感染密度の高い広大なオーストラリアの大地に幾千幾万もの落下傘が投下されたのだ。



落下傘を用いての三点着陸。撃ち鳴らされるAK12アサルトライフルの轟音を奏でるのはいずれも端整な顔立ちの女兵士だった。


流れるようなブロンドの長い髪。無機質で刃物を彷彿とさせる冷たいその瞳。腕に抱いた最新モデルのAKシリーズと相まり、彼女達はまさに戦闘兵器と呼ぶに相応しい出で立ちだった。


謎の戦闘集団による武力鎮圧は数時間足らずで沿岸部を制圧し、四方から網の目を縮めるようにゾンビ達を追い詰めていく。個人個人の戦闘力の高さ。一級品の武装の数々。それらが相互作用を引き起こした結果は全人類の寿命を引き延ばすものとなった。いままでどこの国もなし得なかった奪還作戦を見事成功させたのである。


謎の部隊の所有国として名乗りを上げたのは12年前に協議会の場で失笑を買った北とロシアの両代表。長い時間を経て生み出されたという人造人間こそ、オーストラリア奪還を果たしたあの女兵士達、Valkyrie(ヴァルキリー)と名付けられたアンドロイドだった。


かくして世界の主導権を握った北と露の両国だったが、その繁栄は長くは続かなかった。


北と露の主導権争い。独裁により押さえつけられた人々の不満。消耗に追いつかない弾薬、武装の生産量。何よりも廉価品に置き換わっていく武装を手に、ヴァルキリー達は苦戦を強いられ、ひとり、ふたりと戦場に倒れていく。


そしてそのヴァルキリー達の遺骸を吸収した強力なゾンビChevalier(シュバリエ)の出現によって、情勢は大きく傾くことになった。


消耗していくヴァルキリー。資源の枯渇。統治能力の弱まった二大国は地盤からガラガラと崩壊していく。やがて国力を取り戻したアメリカにより、彼らの圧政国は呆気なく幕を閉じた。


政権解体と共に新設されたのは民主主義、人権に則ったモラルの高い統合国家Global All、通称G-ALLという共同体だった。




2





「さあ! 本日ご紹介するのは! な、な、な、なんと! かつて世界を救ったヴァルキリーシリーズの最新作!! 司会はみんなのアイドル!キリクとぉ!!!!」


「ミリアの提供でお届けするよ」


披露会場にクラップハンドの音が鳴る。招待されているのはG-ALLの重役に加え、物質的、金銭的な援助者達である。壇上では男とも女とも判別つかない自称アイドルがマイクを握っていた。


「ドイツ、アメリカ、日本の技術国家が結託して改良を施された新型アンドロイド! その名もValkyrie!!!! って! 前とおんなじ名前じゃない!!!!」


「違うよ。これは"ヴァルキリー"て読むんじゃなくて、ドイツ読みで"ワルキューレ"って読むんだよ。打ち合わせ出てたのにどうして覚えてないのかなぁ?」


「え、あっ、いや……あ、あぁ、これドイツ読みね。知ってたよ? もちろん……いや、えっと……タブンネ」


明らかな言い訳に会場からはちらほらと薄い嘲笑が聞こえ、自称アイドルの顔が徐々に赤みを帯びてくる。それがおかしいのか楽しいのか、相方はクスクスと微かな笑い声を零した。


「と、ととと、とにかくっ! これからその新型あんどりょいろの最終テストを行います!!」


噛んだ。噛んだ。あ、赤くなってる。可愛い。


世の中は需要と供給で回っているのだなと、ミリアは会場のコアなファン(?)を見て思う。これはこれで相方の武器なのかもしれない。真似はしたくないけども。


「ち、中継繋がってます! 我らが統合国家G-ALLの英知の結晶! とくとご覧あれっ!!」


ライフポイントは0に等しいがなんとか乗り切った。キリクは火照る身体を扇ぎながら舞台袖へと逃げていく。中継の切り替わりが思いのほか早かったのかヘリのローター音と共に大型スクリーンに映像がすぐに映し出された。



会場は期待と興奮に息を呑み、液晶スクリーンに誰もが釘付けになっていた。それがために、予想外の醜悪さと混沌をきたしたバラ色の画を直視してしまう。口元を抑える者が多数。キリクは凍りついた会場の空気を感じ取り、ゆっくりとスクリーンの方へ視線を巡らせる。



「軍曹っ、軍……ケビンッ!! らめぇえっ!!これ以上はぁあぁぁあっ!!」


「あぁ……いいぞぉレプ。可愛い声だ……ぐぅっ」


大画面の迫力。圧倒的な破壊力。キリクは膝から力が抜けていくのを感じたが辛うじて堪えうわずった声を発する。


「カメラ回って! カメラ!!」


緩やかに流れていく超小型球状ドローンのモニタリング。そして唐突に現れる端整な顔立ちの女がひとり。右手に構えた大振りの銃口から火花が散り、悲鳴と絶叫、調子外れなエンジンの唸り。


数秒の間にここまでが上映され、不意に映像がプツンと切れてブラックアウトした。なんでだよ……何があったんだよ!!??


背中に突き刺さる冷ややかな視線。ざわつく会場とご婦人型が嘔吐する音。キリクは後ろを振り返るのが恐ろしくて仕方なかった。





3




倒壊したビル群。砕け散ったアスファルトの舗装。打ち壊された赤煉瓦の家屋。夜の闇に晒された街は荒廃を極め、少し首を巡らせれば喰屍鬼の餌食になった無残な骸が目にとまる。引き千切られた四肢が腐臭を放つ。


自分が落とされる街はいつもこうだと女は思う。常にあるのは血と腐敗した肉の臭い。そして鼻腔の奥をツンと刺激する硝煙だ。


当初の投下ポイントはクイーンズ地区の方だったが、ヘリの中で発砲したために制御系を撃ち抜いてしまったらしい。コントロールを失ったヘリは舵を失いそのままマンハッタン区へと墜落。女はもともと背負っていたバックパックの落下傘でブルックリンへと降り立った。


もしかしたら、あれは撃ってはいけなかったのだろうか。


そんな風にも考えたが、あの生き物への生理的嫌悪感は我慢できるものではない。自分は兵器の筈なのにどうしてこんな感情なんていう複雑怪奇なものを持っているのか。女には理解できなかった。


G-ALLの次世代型ヴァルキリー、"ワルキューレ"開発計画は難航をきたしていた。


従来のヴァルキリーの基本スペックをはるかに上回る身体能力。PSY研究の成果を注ぎ込み人間には会得不可能なレベルの念動力を付与。膨大な戦闘データをインストールし生み出されたのは百戦錬磨の軍神になるはずだった。


しかし実践投下された第一世代プロトタイプはそのポテンシャルを活かすことなく終わってしまう。フィリピン内陸部に投下された彼女達は序盤の攻防は良かったものの、後半に差し掛かったところで唐突に機能を停止させた。


要因としては蓄積された経験によるデータ圧迫が考えられた。大脳に後付けされた記憶媒体がショートし、自前の思考回路が飛んだのだ。


模擬戦闘でのデバッグでは見受けられなかったバグだがそれもそのはずで、実践で得られるものとテストで得られるものとでは大きな差があった。問題点の解決には不要なデータを削除し、インストールするソフトウェアの取捨選択が必要不可欠である。


そうした失敗を踏まえて生み出された第二世代プロトタイプはまずまずの戦績を上げて見せた。が、それも戦績だけの話だった。


先のテストで全滅しゾンビに取り込まれてシュバリエとなった第一世代プロトタイプ。その討伐作戦に導入された第二世代は本来の力を遺憾なく発揮して今度こそフィリピン内陸部の制圧に成功する。この結果に歓喜した開発チームは目を輝かせたが、次の瞬間にはその顔色は蒼白なものに変わっていた。


目標を失った彼女達は、前触れもなく仲間同士で銃火を散らしたのだ。


その行動原理はある意味集団自殺に近かったのかもしれない。彼女達に付与したPSYにはサイコキネシス、パイロキネシス、重力制御など多々あったが、その中でもネックになってしまったのがサイコメトリーの能力だった。


考えてもみればこれは至極当然な結果といえた。自我を失い、ただ食欲だけを満たそうとするゾンビの内側を覗き込む行為がどれほど彼女達を苦しめただろう。そこにあるのはどこまでも続く虚無の闇と酷く単調な電気信号の連続のみ。涙を静かに流して仲間の頭に9mm弾を撃ち込む姿は、感情を排他してきた研究員にさえショッキングな光景だった。


だがそんな悲劇の中にも救いがあった。フィリピン内陸に投下された一万五千体の内で唯一生き残った個体が存在したのである。


開発チームは己のレーゾンデートルを守る為、この個体の解析に全力を尽くした。その結果わかったことは、この開発計画を根幹から覆すこととなる。PSYによる念動力の付与、記憶媒体を用いた戦闘技術の底上げ。チームが心血を注いで生み出した新技術の全てが瓦解していく。


この個体には、何もかもがインストールされていなかった。



PSY能力の付与は施されてはいるものの、各スキルの使用権限はロックされたまま。戦闘技術の記憶媒体に関しては、デバイスそのものが移植されてすらいなかった。単純な確認ミス。本来ならば不良品の扱いだ。


それでも彼女は他の個体には到底真似できない荒技を次々とやってのけた。


二丁を携えての精密射撃。マニュアルから逸脱した応用度の高い近接格闘。PSYは使えなくとも、圧倒的な吸収力を有した自己学習能力が彼女を一騎当千の兵士に跳ね上げていた。


機械に囲まれ整然と培養された花よりは、自然のまま太陽の光を浴びた花の方が美しい。つまりはそういうことなのだろう。開発チームはこれまでの指針を変更し、彼女をモデルとした第三世代の設計へ足をかけた。


有益なブレイクスルーのきっかけとなったこの個体には敬意と共に自ら死を選んだ第二世代への鎮魂の意を込めてFirstという名が与えられた。研究員達からするとせめてもの償いだったのかもしれないが、彼女自身にはただ飼い主に名前をつけられたというだけのことだった。


そうして今回Firstが投げ落とされたのは元アメリカ合衆国ニューヨーク州。作戦内容は第三世代へフィードバックするためのデータ収集だ。


現状のワルキューレではその完成プロセスにリスクと手間がかかり過ぎている。Firstの場合はいくつもの幸運が重なったわけだが、何もインストールしていない生の状態で実戦に投下するのだ。その生還率は恐ろしく低く、とても量産配備するのは不可能に近い。


数え切れない出撃の日々。いったい何時になればこの戦いは終わるのか。そして……全ての役目を終えた時。自分はいったいどうなるのか。


Firstは考えるのをやめた。


彼女は凛と冷え切った空気をひとつ吸い込み、緩やかに足を進める。まずは情報収集だ。時刻は0時58分。この時間帯ならばまだ休眠時間の範疇である。


不思議なことにこのゾンビ達は毎日決まった時刻に活動を中断した。日本時間では午前11時に、ここNYでは21時に全てのゾンビが休眠時間に入る。彼らが眠るというのもおかしな話だが、実際にそうなのだから仕方ない。ゾンビも身体が資本なのか。


だが休眠時間のおかげで探索が楽になるのはありがたいことだ。実際に地上で生活する生存者はこの現象を利用して生き延びている。彼ら彼女らの救出もまた、Firstの任務の内だった。


今日は何を撃てばいいんだろう。


Firstは廃墟と化したビルを見上げた。


サーモ機能に切り替えた視界にゾンビの高い熱源が浮かび上がる。ロックされたままの状態でも、これぐらいのPSY能力は行使できた。簡単な索敵ならお手の物だ。



まずは周辺の地理情報が欲しい。地図は頭に入ってはいるが、実際のそれとは大きな違いがある。建物はほとんど朽ち果て、道は所々で分断されている。


本来の投下ポイントであるクイーンズ区への道のりはここからならばブルックリン橋を渡った方が一番だ。が、建造物が薙ぎ倒された開けた景色から見える橋は半ばからバッサリと途絶えている。落ちた端と端との距離は50mあるかないか。流石にあれを跳び越えるのは無理というものだ。


海を渡って上陸する手もないわけではないがそれはいくらFirstでも遠慮したいところである。夏場とはいえ夜の街を濡れ鼠よろしく駆け回るのはごめんこうむる。やはり遠回りでも陸路を行くしかないだろう。


「?」


ザザッ。不意にそんな耳障りなノイズが耳に届いた。集中して音源を探る。


それは打ち捨てられランドローバーの中から聞こえていた。外装には草木の蔓が絡みつき、投棄されてからだいぶ年月が経っている。とてもバッテリーが生きているとは思えないが……Firstはウィンドウに張り巡らされた蔓にナイフを差し込んだ。




「もしもし……街にいる誰か、これを聴いていたら返事をして下さい」


壊れかけのラジオから微かなノイズが聞こえる。


ランドローバーの助手席にあったのは錆び付いた一台のラジオだった。電池式のもので、今にも息絶えそうなそれは雑音の中に若い女の声を紛れ込ませる。

挿絵(By みてみん)

「わたし……いま家にいるの。エンパイアステートビルから東に2ブロック行ったところ……向いにベーカリーがあるわ」


女の声からは明らかな恐怖が読み取れた。何かに怯えて声を潜めているのが理解できる。


「もう……ダメかもしれない。あれが。あの大きなゾンビが……いっぱい集まってきてる」


大きなゾンビ。それがシュバリエである事はすぐにわかった。彼らの休眠時間は極めて短く、大柄な体躯は小さなもので2m。大きなものになると10mを超える。何度か戦ったことがあるが、なかなかの強敵だ。


あの時はたしか、至近距離からショットガンを撃ち込んだのだったか。いま手元にあるのはHK45ハンドガンとグレネードが二本、ナイフが一振り。追ってSMGかアサルトライフルが投下される予定だが、現段階ではシュバリエとの戦闘は困難だ。火力が、足りない。



「お願い……誰か……っ……死にたく、なぃ」



それでもエンパイアステートに向けて歩を進めたのは何故だったか。


兵器であるはずの自分が極めて不合理な行動をしているのがFirstには理解できない。ただ、内側を焦燥が燻っているのは理解できた。



4



目を覚ましたとき、家の中には女はひとりだった。


ダイニングテーブルには食糧調達に行ってくるというリーダーの書き置きが一枚。扉や窓はしっかりと施錠され、ガレージのファミリーカーはなくなっていた。眠りこけていた彼女は置いて行かれたらしい。


普段なら留守番を任せるときは二人一組が決まりだったが、いまはもう人手が足りないのかもしれない。そんな風に女は思っていたが、本当の理由はもっと別のところにあった。


「……どうして……なんでよ」


それから三時間ほどが経とうとしていた。


カーテンを締め切り明かりも灯さない室内は外の闇よりも暗い。時折その隙間から差し込んでくる月光の明るさに思わず外へ飛び出したくなる。しかしそれをしてしまえば本当に終わりだ。


もはや助かる見込みなど無に等しいが、この穴倉のような闇にうずくまることで少しでも死を先延ばしにできるなら……それになんの意味があるのかと頭の片隅で誰かが呟いた。


シュバリエは最初何かを探すように鼻をひくつかせていた。そのときはただの巡回だと思っていたが、その数がひとつふたつと増えていくにつれて嫌な汗が滲み始める。


なに? なんで? 探してる? 何を?


いつも通り、息を殺してじっとしてさえいれば。そう考えていたのに、気付けば何度も何度も家の周りをシュバリエが廻っている。もしも見つかれば。堪えようのない悪寒が背筋を走った。


死にたくない。口には出さずに内心で同じ言葉を繰り返す。ズシンというシュバリエの大きな足音。また数が増えたのか音と音との間隔が狭く不定期になっていく。


何故こんな時代に生まれたのか。女は声を押し殺して啜り泣く。


世界が変容した年、彼女はまだ12歳の少女だった。春からは新学期が始まり、冬休みの思い出を級友と話し合う。そんな当たり前の日常があるはずだった。


狂犬病の犬みたいに猛り狂った人間がウィルスを拡散していく。噛まれれば長くて数時間。早ければ10分とかからずゾンビになる。あとは鼠算式だ。NYの広い街並みに感染者が溢れるのにそう時間はかからなかった。


いっそあの日のうちに死んでしまえばよかった。そう思えるほどに、その後の生活は辛く苦しいものだった。



世界が激変した当初、人々は生きる事に必死だった。



食糧と安全な塒の確保のために夜の街を駆け回る。八時間の休眠時間。昼夜は逆転し、胃を締め付ける飢餓感が心身ともに消耗させる。風呂にもろくに入れず、五日目を過ぎたあたりから犬のような異臭がしだした。およそ人間らしさなど見当たらない。


そんな日々のなか、真っ先に音をあげたのは母親だった。


もともとヒステリック気味な性格は抑圧されることでさらに拍車を増し、気付くと娘の声すら届かないところまでいっていた。


父は最後まで献身的に尽くしていたが、彼が自分や母に隠れて泣いていたことを彼女は知っている。だから母が屋上から身を投げて死んだときは、正直な話ホッとする気持ちの方が強かった。


それからは二人での生活が始まったが、父はすっかり人が変わったように気力が抜けていった。


来る日も来る日も母の写真を眺め、彼女が調達してきた僅かな食糧を二人で分け合った。それだけでは足りなくて青果店で拾ってきたジャガイモを庭に植えた。何度も何度も失敗してようやく花が咲いた。夏には収穫できるようにまでなった。そして彼女が15の歳になった時、それは起こった。


食糧の確保にある程度の余裕ができて二日に一度は休眠時間に安心して眠れる日ができた。彼女は母の寝室で、父はリビングのソファで眠るのが当たり前になっていた。


安息の深夜帯に父が寝室にやってきたのは初めてのことだった。


彼女は寝ぼけ眼で薄暗い寝室をぼんやりと見ると天井と覗き込む父の顔が視界に入る。お父さん? 呼びかけには応えず、彼はベッドに肘をついて彼女の髪を撫でた。


こんな時間にどうしたんだろう。まだまだ幼かった彼女には父の目に宿ったぎらついた光がなんなのか理解できなかった。


ゆっくりと、父の顔が近付き、そのひび割れた唇が耳元で囁く。ごめんよ。サシャ。彼女の名を呼んで、彼は唐突にその手を下着のなかに滑り込ませた。


なんで? なにをしてるの? お父さん?


あまりの衝撃に彼女の身体は凍りついたように動かなかった。されるがままに、痩せ細った父の腕に抱かれ、舐められ、痛みに顔を歪ませることしかできなかった。


全てが終わったあと、父はボロボロと涙を流しフラフラと寝室を出て行った。泣くくらいなら初めからやめておけばよかったのに。彼の絶望を内に注ぎ込まれたように、その時から彼女は諦めと達観のようなものを纏うようになった。それは裏切りから彼女を守ってくれる薄い繭のようなものだった。


そんなことが一週間の内に何回か続いたある日、野太い雄叫びが家のすぐ外から聞こえてきた。


慌てて服を着て家の中から必要最低限の物をリュックに詰められるだけ詰める。水、食糧、残り少なくなったジャガイモを種芋としてビニール袋に包む。


ようやく急仕度が終わっていざ逃げ出そうとした時に父の姿がないことに初めて気付いた。


彼女は汗ばんで汚れたまま家のなかを探すと物置から出てくる彼と鉢合わせた。手に握るウッドストックの散弾銃がぞわりと背筋を震わせる。


「なに、してるの? 逃げなきゃ……逃げなきゃでしょ!?」


父は声を荒げる娘に今にも泣き出しそうな脆い笑顔を見せた。そうだな。逃げなきゃだな。口で言っている言葉とやっている事が一致していない。彼女は必死で父を引き留めた。


なんで? どうして? わたしを……わたしを独りにしないでよっ! 泣いて惨めに縋る彼女は、彼を父としても男としても嫌いにはなれなかった。


おまえは逃げなさい。アレは普通に逃げてたんじゃやられてしまうから、お父さんが時間を稼ぐから。


涙と洟を垂らしていやいやをする彼女を、父はギュッと抱きしめて首筋に唇をつける。そしていつもと同じ調子で、顔だけは笑みの体裁を保ったまま力なく囁いた。



死なせてくれ。



もう止めることもできなかった。






踏み荒らされたジャガイモの花を、サシャは無感情に見下ろした。


結局、このイカれた世界では人の生き死になんてこんなものなんだ。吹いて飛ぶ紙屑みたいに呆気なく散ってしまう。拾い上げた散弾銃の中にはまだ二発の薬莢がちゃんと収まっていた。


ぐりゅっ。ひゅるるっ。擦れた呼気が耳に障る。


サシャはこの家の前に戻ってきたことを後悔していた。しかしここに来なければそれからの彼女が生きていくことは出来なかっただろう。避けては通れないことだった。


胴から下を噛みちぎられ、横隔膜と肉の間からは引き摺り出された腸がだらしなく垂れている。仰向けで鳴き声ともなんとも言い切れない音を漏らす肉塊に、彼女は銃口を突きつけた。


「痛かった?」


顔面の歪んだ肉塊は答えない。左目が弾けて眼窩には粘ついた血が溜まっていた。皮膚は早くも夏の熱波に当てられて腐臭を放っている。その醜い姿を見て、サシャは死よりもその先の事に恐怖を覚えた。


私はこうはなりたくない。どうせおなじ死なら、最後は自らこの命を絶とう。それがこの世界へのせめてもの抵抗だ。


ゆっくりとした動作で引き金に指をかける。クラシック構造のシンプルなショットガンは反動の強さを除けば女子供にも優しい銃だ。ストックを折って、上下二つの鉄管に弾を込める。あとは銃身とストックを戻せばいつでも撃てた。


さようなら。それを最後に彼女は言葉を発することをやめた。


これはもう、私の愛した父ではない。縋るものを失い、娘を絶望の捌け口にして毎度のごとく目を泣き腫らした哀れな男ではない。ただの動く遺骸。破れた皮袋に詰められた肉の集合体。それが単調な電気信号によって動いているだけだ。


それなのになんでこんなにも涙がでるのか。視界が滲み、嗚咽をこらえようとすると

銃身がふるふると震える。ダメだ。一発で仕留めないと。音はゾンビを呼び寄せる。しっかり、確実に……。サシャは土色に変色した唇の間に銃口を突き入れた。


粘ついた唾液と共に前歯が飛ぶ。差し込み過ぎた銃身を僅かに浮かせ、口腔に隙間を作ると長い息を吐いた。コレなら、脳幹だけじゃなくて頭ごと吹き飛ばせる。


さようなら。もう一度、内心で呟いてから彼女は引き金をひいた。ボシュッというくぐもった破裂音と共に、肉の鞠が弾け飛ぶ。残った右の眼球も、腫れ上がった赤黒い舌も、腐汁と血を撒き散らして勢いよく彼女に降りかかる。


さぁ、逃げなきゃ。


自分の中で何かが壊れた気がしたが、サシャは目を逸らして頬に張り付いた血と皮膚の切れ端を払い落とした。






それからはいろんな所を渡り歩いた。


ひとりではさすがに食糧や安全の確保に限界がある。休眠時間を利用して他の生存者のグループを見つけるとあたりをつけて参加した。潮時は見誤らず、沈む船からはさっさと降りる。生きるノウハウが自然と身についた。


女ばかりのグループではダメだ。肝心なところで芋を引くし面倒なしがらみがついて回る。かといって紅一点というのも危ない。男という生き物は秩序のない世界では個人個人のモラルが求められる。集団になれば我が増長して尚更だ。


ベストは三分の一を女が占める小規模グループ。ひとりふたりに抱かれることをよしとするならもっとハードルを下げてもいいかもしれない。妊娠というリスクは拭いきれないが、その時はその時だ。


こうしてサシャは若さと性を武器にリーダー格につけいった。もっとも情報の集まってきて、尚且つグループの指針に口を出せるポジション。残念ながら彼女にゾンビとやりあえるほどの運動神経は備わっていなかったが、人の采配や操作に関しては合理的な強さを持っていた。



今のグループに流れ着いたのはだいたい一年前ぐらいだった。


例のごとく落ちぶれた集団を見限って抜け出してきた彼女はまた青果店でガーデニング用品を漁っていた。


主食の代替としてジャガイモ。水分の代わりにナスやトマト。夏野菜は優秀だ。世界が壊れていても変わらず太陽と大地の実りを提供してくれる。菜園という静かで土臭い趣味もサシャの性分にはあっていた。


「スイカの作り方がわからないんだけど、よかったら教えてくれないか?」


不意にそう声をかけられて彼女はびくんと肩を跳ねさせた。振り向けば男がひとり立っている。なんの気配も感じなかった。


「……スイカは、結構難しいけど。はじめての人には無理じゃない?」


警戒心も露わに応える。男は何かが異様だった。


ネイビー色のパンツスーツに腕まくりをした長袖のワイシャツ。ボタンをふたつほど開けたうえにネクタイを緩く締めた姿は徹夜明けのビジネスマンのように見える。まさか今まで企画書を作っていたわけでもないだろうが、目の下には付き合いの長そうな隈が浮いていた。


「はじめは誰でも初心者だろう。君さえよければ、ウチに来ないか?」


見た目に反して理知的な物言いにふと誰かに似ていると思う。それが死んだ父だと気付くと、サシャは己に強い憤慨を覚えた。


「わたし、今は独りでいたいから」


言って手早く荷物をリュックに詰め込む。こんな奴、ぜんぜん似ていない。つまらなそうなただのビジネスマンだ。じゃあ父はどうだったのか。彼もまた、傍目にはつまらなそうなビジネスマン以外のなにものでもなかった。


「嘘はよくない。自分を偽ることは不貞よりも重い罪だ」


脇をすり抜けようとしてその腕を捕まえられる。猫のように鋭い視線で威嚇したが、男に怯む様子は微塵もない。それどころか、ぐっと顔を寄せて大きな目で彼女の視線を真っ向から受け止めた。


「キミは良い。大して魅力的な女でもないのに"あれだけ"男を手玉にとれるのは才能だ」


私のことを知っている? 言葉では形容し難い、危うい何かが背筋を走る。


「生き物は環境によって進化する。もちろん外見から一目でわかる変化は何世代も重ねなければ表れないが、人間のここは違う」


白く細い指が彼女の額を撫でる。不思議と不快感はない。それどころか男の黒目がちな大きな瞳はサシャの意識をつよく惹きつけた。


「精神は酷く不安定で複雑だ。それでいてその汎用性と適応性は他の器官とは比べ物にならない」


吸い込まれそう。ゆっくりと、焦らしながら指先が肌を撫でていく。その手を払いのけることも、異質な瞳から目を反らすことも、彼女にはできなかった。


「鼻はどんなに呼吸を繰り返しても鼻腔が増えるわけじゃない。眼球もいくら努力したって5キロ先の物が鮮明に見えるわけじゃない」


男の親指が下唇に触れる。下から持ち上げられた人差し指とで柔らかく挟み、自然な動作で下がっていく。下唇は緩くめくられ、ピンク色の歯茎までが晒された。


並びの良い白い歯。それに囲まれる濡れた舌。ぞくぞくと、体の芯が火照っていく。この時にようやく枯れ木を思わせる外見がフェイクだと気付いた。


この男は、肉食獣だ。これまで出会った雄の中でも、群を抜いて獰猛な……。


「それなのにどうだ? 何百何千回キスをしても、その舌は裂かない限りずっとそのままだというのに、精神の発展は急速で有用じゃないか。実に素晴らしい」


普通は。こんな事をされて、こんな飛躍した話をされれば誰だって拒否反応を示す。けど、彼だけは違った。圧倒的な存在感。警戒心をすり抜けて相手の内側を激しく掻立てる視線。なによりも、その瞳。危険なものだと頭では理解できても、一度捕まったら麻薬のように逃げられなくなる。あとはもう好き放題だ。


「ぼくはね、君がどんな経過を辿ったのか知りたいんだ。もう一度言う。ウチにおいで」


意思に反して、サシャは頷くことしかできなかった。




そうして新しいグループでの生活が始まった。


サシャを含めて全部で十人の小規模な集まりは男女比が半々。男と女で別れてしまうのが常だが、ここはかなり居心地の良い場所だった。


それというのもグループを統べるリーダーがしっかり纏めているところが大きかった。日比谷宗助。それがあの男の名前だ。


日比谷はフェイクの言葉と笑顔で人の心を掌握し、変化のない日常にサプライズを忘れなかった。思わせ振りな言動で女を悦ばせ、そのままお膳立てをして男達に割り振る。男性陣のなかには彼自ら相手をする者もいた。それだけ日比谷は色気のある男だった。


「やけに愛想がいいのね」


一度そんな風に突っかかってみたことがある。初対面でその本性を目にした彼女には日比谷の振る舞いが芝居をみているようにしか見えなかった。完成度の高さ故に尚更だ。


「拗ねた顔は案外見ものだな。けど、君も楽しんでいるんだろ?」


内心を突かれてぎくりとする。本当に、この男にはなにもかも見透かされてしまう。他のみんなが知らない彼を知っているという優越感。それが全くないといえはしない。


「君は特別だ。滅多にお目にかかれない掘り出し物」


「人を骨董品みたいに言わないでくれる」


「なら、宝物だ」


「……」


溜息を吐いてなんとか外面を保つ。


不意打ちの甘い言葉。特別という意味合い。その二つはこれまでサシャが得られなかった蜜の味。いけないと警戒心を強めても、彼はスルリとかわして入り込んでくる。彼女が心を絡めとられて溺れていくのに、そう時間はかからなかった。





5




ズン……。シュバリエの大きな足音が身を震わせる。どんなに強がってみたって、アレの前ではめそめそと泣くしかない。


もう自分に残された時間はあと僅かだろう。先ほど流したラジオの電波。あんなものを聴いてのこのことやってくる人間がいるとは思えない。


サシャは小型無線機を一瞥すると静かに立ち上がってキッチンへ足を進める。


一ヶ月前に、仲のいい女の子が死んだ。まだ十二歳の愛らしい少女で、名をケイといった。


あの純粋で無垢な瞳にサシャはかつての自分を見た。幼く繊細で、疑うことを知らない羊の目。庇護者の下でしか生きられない弱い生き物。昔の自分を見ているようで、放っておく選択肢はあり得なかった。


死というものはあまりにも唐突で無慈悲なものだ。彼女達の警戒が足らなかったといのもあるがあの時は何か異質な力が働いたきらいがある。何にしても、あの子はもういない。


休眠時間の終わりにはまだ半刻ほどの余裕があったはずだった。


サシャと彼女ともう一人、日比谷の右腕として動いていたリューイというロシア男が一緒だった。線の細い輪郭。柔らかい茶髪が印象的で犬を思わせる二十代。けれど決して飼い主以外には懐かない。そんな男だ。


無線から日比谷の連絡があったのはその頃だ。


詳しい内容は彼が無線を取ったのでわからなかったが一度合流してくれとのことだった。


効率を考えてリューイはサシャたちに探索を任せ単独でそちらに向かうと言いだす。多少の不安はあったが貴重なグレネードを一本づつ渡されたことで首を縦に振ってしまった。今ではあの判断が悔しくてならない。


左手の腕時計で時間を確認しつつ二人はそれなりの収穫をあげていた。ケイの背負ったリュックには軽い生活用品でいっぱいになり、サシャのバックパックもシリアルや缶詰などで重みを増していた。


「そろそろ合流地点まで戻ろっか。ここからなら五分くらいで……え?」


一瞬、視界に現れたものが何なのか理解できなかった。


左腕を根元から引き抜かれた五体不満足の人影。鼻をつく腐臭。覚束ない足取りでケイの背後のビルから出てきたそれがゾンビだと気付くのにたっぷり三秒。サシャはすぐに彼女の手をとり走り出した。


「お姉ちゃん!?」


状況を理解しきれていないケイが驚いて目を丸くする。順応できていない。彼女が生まれたときには既に世界は死でありふれていた筈なのに。やはり誰かが守ってやらなければ。


そう思うサシャの眼前に、崩れかけた女の顔面が不意に迫った。


「!?」


押し倒される身体。頬に垂れてくる腐った肉。腕に何重にも巻いたタオルの白に黄色い歯が食い込む。鈍い痛み。


「あ、やっ、お姉ちゃん!?」


いまここで倒れれば。ケイの生き残る可能性はゼロになる。結果的にはサシャ一人の力では守りきれなかったのだが、この時の彼女は本気で少女の命を背負っているつもりだった。ぐっと息を詰めて腕に力を込める。


ゾンビの力は人間のそれとは大差ない。それどころか平衡感覚の狂った身体は筋肉の統制もままならないようだった。つまり。


「ふっ!!」


ちょっとした力を加えてやるだけで簡単に転倒する。


「あぁっ、ぁあぁぁあぁあぁぁっ!!!!」


跳ね上がる心拍が雄叫びを震わせた。ベルトに差していた鉈を引き抜き馬乗りになって口中に突き込む。首を断つよりも、構造上脆い部位を破壊して下顎から上を寸断した方が的確で早かった。


もとより肉が崩れかけていたせいか女ゾンビは一分とかからず沈黙した。切り離した頭の半分の中で眼球だけがせわしなく動く。それを乱雑に蹴り飛ばしてサシャは呼吸を整えた。


「ふっ、はっ……んぐっ」


まともに相手をしたのはいつ振りだったか。そんな事を考えているうちに泣きじゃくったケイが腰にしがみついてくる。タオルの上から噛み潰された右腕が痛む。


熱い涙を流すケイの頭を血のついた手で撫でた。そして顔を上げてゾッとする。右から左から、あちらこちらからぞろぞろとゾンビの群れが集まってきている。サシャは渡されていたグレネードへ素早く手を伸ばした。



ドイツ軍のSTIH GR24手榴弾をモデルにした対ゾンビ手榴弾LURE GR52。


通称ルアーと呼ばれるこの棒型手榴弾は柄に取り付けられたストラップピンを引き抜くと音協と特殊な周波数でゾンビを引き寄せ炸裂する。その特性から大量の標的を一度に処理するため炸薬の量はSTIHと比べると1.5割り増しだ。


ゾンビの視力は極めて低い。索敵は基本聴覚に頼りきっているようだが、どうにもそれだけではないようにも見えた。この分野の研究は急ピッチで進められているためか所々で穴が空いている部分が多い。が、それは表向きの体裁で実は単純に知らせたくないからなのではないだろうか……勘繰りを入れたところで、地上の人間には詮無い話だ。




かくしてストラップピンを抜かれたトーチ型の手榴弾は十数mを緩やかな円弧を描いて飛んでいった。投擲に特化した形状のそれはアスファルトの上を何度か跳ねて更に5mほど転がっていく。逃げるには充分な距離だった。



「走って!!」


切羽詰まった声で少女を急き立て一気にスタートを切る。とはいえ元来運動は苦手分野だ。子供のケイとサシャの走力に大した差はなく、むしろ持久力では負けている感が否めない。


それでも背後で轟音が響き渡るまでにかなりの距離を稼げたのはアドレナリンラッシュというやつだろう。爆風が空気を揺るがし、榴弾の破片が腐った肉を引き裂いていく。燃え盛る炎。あまりの衝撃に三半規管が麻痺する。


もつれそうになる脚にグッと力を込めてケイの華奢な身体を支える。まだ止まれない。合流ポイントまで、走らなくては。


千鳥足と言ってもおかしくない足取りでふたりは走った。鉢合わせるゾンビをぎりぎりで躱し、ビルの影を利用して距離をとる。次の角を曲がれば目的地点。ここを……曲がれば……。


「!」


視界に飛び込むレミントンM700の無機質な銃口。距離は10mと離れてはいない。頭の中が真っ白になる。スコープを覗くリューイが警笛をあげなければサシャの頭蓋は弾け飛び脳漿は盛大に撒き散らされていたことだろう。



「伏せろッ!!」


「っ」


再起動した理性と本能が咄嗟にケイを突き飛ばして前のめりに倒れこむ。同時に吐き出される弾丸。背後で唸るゾンビの声。


大音響が再び鼓膜を叩き、頭上を掠めていった流星はサシャに迫っていたゾンビの右目を狙い違わず撃ち抜いた。死角からの不意打ちがすぐそこまで来ていたことにゾッとする。


「いつまで這いつくばってる。逃げるぞ」


淡々としたリューイの口調は酷く機械的だった。内心で舌打ちをつきながら体を起こす。ぱた、たたっ……。鼻腔から垂れた赤い液が灰色のコンクリート舗装に滲む。


「ん、ぐっ」


急な貧血にぐらりとくる。鼻血くらいで倒れるとは我ながら軟弱だ。仲間の姿に安堵してしまったせいか、サシャの身体に力は入らない。


「……世話の焼ける」


「ごめ、ん」


レミントンの携帯用ベルトを肩にかけてリューイは当たり前のように彼女を抱き起こす。サシャは肩を借りるだけのつもりでいたのだが、彼はそれでは遅いと判断したようだった。


「!?」


軽々と持ち上げられる身体。それを支える両の腕の心強さ。繊細なガラス細工を思わせる中性的な容姿とは裏腹に雄としての機能は平均以上らしい。


「ガキは自力でついて来い。出来ないなら死ね。荷物が減る」


「ぁ……は、はい」


配慮のない言葉には他人を甘やかさない響きがあった。しかしそれは本当にそれだけの理由だったのか。今でも真意のほどは明らかではない。ただ、この時は何もかもが異様だった。




「リュ……イ、はや、い……ケイが」


青白い顔で抑制をかけるが走り出した猟犬は目的遂行以外の興味を見出さない。それで死ぬならそこまでだ。呼吸も乱さず呟いた一言に不安が増していく。首を巡らせ彼女の方を見ると、いまにも泣き出しそうな顔で必死に走っていた。


もう、いいから。そんな荷物捨てていいから。お願いだから、逃げ切って。


叫びは内側で反響するだけで声にはならない。身体が重い。頭がぼぉっとする。まるで悪夢を見ているよう。が、すぐにその感覚は冷水を浴びせられたように覚める。捲れ上がったアスファルトの瓦礫に足を取られ、少女の身体が崩れ落ちた。


ケイッ!?


「止まってっ!!」


切迫した視線と声音には流石に反応したようでリューイは靴底を鳴らして制動をかける。早く、助けて。だが彼の口から零れた言葉はやはり無慈悲で機械的だった。


「諦めろ。俺にふたりを抱えて逃げる腕はない。ここで奴らの相手をしても、リスクと利益は見合わん」


「リスクと……利益? アンタ、本気で言ってるの? 仲間でしょ!?」


精一杯の抗弁。それに一瞬の驚きを顔に浮かべ、すぐにリューイはニヒルな笑みを滲ませる。


「……仲間を捨てて生き延びてきたお前からそんな言葉が聞けるとはな」


サシャの柔らかくデリケートな部分を抉った嘲笑はすぐに消え、また機械的な無表情へと戻っていく。


「ルアーを使え! "運が良ければ"なんとかなる!」


あくまでも、こちらからは手を出さないというスタンス。それでも少女は懸命に身を起こしてリュックからグレネードを引き抜いた。頑張れ。もう少し。願うサシャの傍らで猟犬の瞳にギラついた光が灯った。


え?


精神力の抑制から滲み出てくる危うい光。例えるならばいったいなんだろう。恍惚。愉悦。狂気。それらの入り混じったどす黒い興奮が彼の瞳から読み取れる。


なに。なんなの、こいつ。


人は理解出来ないものを前にしたとき本能的に恐怖する。未知とは常に恐怖と共にやってくるのだ。それは初めて日比谷に出会った時にも感じたものだった。


キンッ。金具の跳ねる澄んだ音が聞こえてグレネードのピンが抜かれる。発信される周波数が僅かに鼓膜を震わせ、次にピーッ、ピーッ、というけたたましいブザー音。手榴弾が作動した。が。


「え?」


それはその時、その場所、その瞬間において決して起きてはならない偶然だった。


弱々しく放たれたルアーはゾンビを引き寄せ路面に落ちると更にそこから数メートルの距離を転がる。鳴り響くブザー音。標的集めるブービートラップ。音と音との間隔が狭まり炸裂のカウントダウン。5……4……3……2……1!



…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………炸薬は作動しなかった。


「あ、ぁ……うそ」


なん、で? どうして? ……なんでよっ!!


ミスファイヤー(不発弾)。


込み上げてくる怒りは誰にぶつければいいのか。サシャは気が狂いそうな勢いで力の限り少女の名を叫ぶ。ゾンビを集めるだけ集めて沈黙したLURE GR54。ブザー音の止んだ途端にケイを取り囲む腐った人垣。


震えた悲鳴が夜明けの空に谺した。



そこから先はよく覚えていない。


断片的に残っている記憶には尋常ではない少女の叫び声と生きたまま噛み砕かれる咀嚼音。じゅるじゅると卑しく血肉を啜る不快なBGMが吐き気を誘う。それを聴きながら……サシャは洟を垂らして泣き喚いていた。





自分もまともに守れなかったというのに、誰かを守ろうなんて身の程知らずだったのかもしれない。





サシャは思う。死は平等でも生は不平等なのだ。人生がそうであるように、地上の人間と地下の人間とでは生の売値が違い過ぎる。最新の兵器と隔壁に守られた人間には、きっと死に怯えて震える夜なんて想像もできないに違いない。



キッチンに立った彼女はまず、水を出して汗と脂で汚れた顔を洗い流した。


出来るだけ、死に顔は綺麗でいたい。こんな風に考えるのは女性特有の傾向なのかな。などと思っているうちに濡れた顔を備え付けのタオルで拭きはじめる。生乾きの臭いがした。


「くやしぃなぁ」


口にした声が思いの外明るかったのは自分が意を決したからだった。


感染して歩き回るのはごめんだ。野晒しになるくらいなら、自ら生を終わらせたほうがいい。この家はシュバリエの巨体に押し潰され、死体は瓦礫の下敷き。掘り起こすものは誰もいない。



サシャはキッチンの抽出しに手をかけた。中にはマカロフPMが一丁。支援物資からこっそりくすねたものだ。


銃弾は一発しか残っていないけど、己の脳幹を破壊するにはそれで充分だろう。父を撃ったショットガンもクローゼットに隠してあるが銃身の長い銃は自決には不向きだ。


そういえば、鍵かけてたんだっけ?


思い出してどこにしまったかと思考を彷徨わせる。が、抽出しは何の抵抗もなくスルリと手前にスライドした。


え?


頭の中が真っ白になる。


開き切った木製の型枠の中には何もない。黒光りする銃身も、なめし皮のような色合いのグリップも。そこにはただ平坦な杉の木目が流れているだけだった。


なん、で…………!!


頭の中で強烈な火花が爆ぜる。足音を忍ばせることも忘れ、彼女は家中を走り回った。


武器庫にしていたガレージにも、屋根裏にも倉庫部屋にも、貯め込まれていた物資はそっくりそのまま姿を消していた。ライフルから弾丸一発までも残っていない。冷蔵庫やバスケットの中までからっぽだ。


そのときサシャは全てを悟った。自分が留守を任されたわけではないこと。日常の何気ない笑みの裏で交わされていた密談の内容を……日比谷宗助が彼女から興味を失ったことを。


「……ふ、ふふっ」


大きな失望が笑いに変わってこぼれ落ちる。


なにをいまさらショックを受けることがあろうか。いままで自分がしてきた事が巡り巡って返ってきただけじゃない。ただ自分が切り捨てられる側にまわっただけ。それだけのことだ。


ふらふらとした足取りでサシャは自室へと向かった。日に焼けたカーテン。脂の染み込んだ黄色い壁紙。それまで気にも留めなかった細部がくすんで見える。


あぁ、ここが私の最後の場所か。


お似合いだと思う反面、自分の人生はなんだったのかという思いが込み上げてくる。クローゼットを開けると、そこにはあの日のショットガンが物悲しげに転がっていた。




ねえ。アンタにとって、わたしはなんだった?




返ってくる声はないが、答えは容易に想像できた。物珍しい、最良のモルモット。



ショットガンの弾倉は空だった。



6


うちひしがれ、絶望した彼女はフラフラと立ち上がる。階段を危うい足取りで降り、ゆっくりとリビングに戻ってくるとポツリ一言零れ落ちた。


「頭を……潰す」



舌を噛み千切っても脳が残っていればウィルスに感染してしまう。確実に、頭部を破壊するにはどうしたらいいだろう。屋根に登って身を投げても脊髄が砕ける程度で終わってしまう。どうしようか。


頭を潰す……頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す頭を潰す……じっとりと背中を汗が濡らす。


銃声が聞こえたのはその時だった。


単発の射撃音が三回。アスファルトを蹴る音がしてからまた三回。次にゾンビの低い雄叫びが鳴り響く。


力まかせに舗装を打ち砕く衝撃。シュバリエが目標を捉え損ねたのか振動が大地を揺るがした。そしてまたすぐハンドガンの射撃音が谺する。


誰?


無気力に顔を上げてカーテンを敷きっぱなしの窓を見る。もしかして……そんな思考を内側に溜まった諦めのヘドロが絡め取った。


あんなラジオでやってくる人なんかいるはずない。きっと運の無い誰かが最後の抵抗に撃っているだけなんだ。他人を助けるような余裕は無いのだ。


そんなマイナス思考の最中にも銃声は鳴り響く。無駄な抵抗だよ。諦めなよ。それが微かな希望をまだ持っている自分への言葉だとは気づいていない。


一際大きな唸りが耳障りな輪唱を奏でた。


ほら、もう終わりだ。


その雄叫びはシュバリエが獲物に飛びかかる時に発する特有のものだった。怒号を轟かせてから数秒の間力を溜め込み、一気に標的めがけて突撃する。見上げるほどの巨躯は敵味方関係なく跳ね飛ばし、瓦礫と血肉が宙に舞う。あれから逃れる術はまともな人間にはない。終わりだ。


怒号の数からして、外にいるシュバリエの数は四から六。対する不運な闖入者は一人だろう。かなりの速射をしているが銃声の数は一人分だった。


ズズンッ。激しい縦揺れに家屋が軋む。シュバリエの攻撃が始まった。


ただでさえ巨大なやつが一度に何体も突っ込んでくる。そんな光景を目の当たりにすればどんな人間だって恐怖に竦んで動けなくなる。日比谷のような頭のネジが飛んだ人間なら別かもしれないが、そんな人間はそうそういない。


シュバリエの奇声が甲高く、これまでで一番大きくなる。衝撃が、くる。サシャがそう構えたとき、唐突に爆発音が近くで響いた。グレネードの爆音だ。


自爆? だったら私も一緒に行けばよかった。一瞬の思考を、更に大きな揺れと衝撃が

掻き消す。とうとう私は独りだ。


軋む家屋の中で彼女は壁を頼りにキッチンへと戻った。きっとキッチンナイフも持っていかれてるに違いないが、皿くらいはあるだろう。それを割って、地下室に籠って首を切ろう。それなら、万力に頭を挟んで自分で締めるよりずっと現実的だと言えた。


食器の並んだ棚の一番下。そこにはケイのお気に入りだったトムとジェリーの平皿があった。古いアニメだったが、サシャが瓦礫の中から拾ってきたビデオをいつも見ていた。


家に機械の猫がやってきて、追い出されたトムとジェリーマウスが協力してやっつけるお話。それが平和な世界を知らない少女のフェイバリットムービーだった。


ごめんね……そっちに逝ったら、いっぱい遊んであげるから。胸の内で謝り、両手で持ったその皿を…………振り落す寸前でぴたりと手が止まった。


ダンッ。


響き渡る銃声。アスファルトを蹴る音。生への執着が内心を激しく掻立てる。


なんで。どうしてそんなに頑張るの?


どうせ生きていたってこの世界に未来なんて無いのに。廃れていくだけの世界なのに。どうして? なんのために?


"理由はいらない"


誰かの穏やかな声が頭に響く。


"ただ、悲観しても、絶望しても。それでも生きたいと願う気持ちがあるのなら"


柔らかで染み渡るような女の声。直接思考の中に流れ込んでくる不思議な感覚。心にぽっかりと空いた穴があたたかなもので満たされていく。


"その想いに……間違いはない"



打ち震える感情。溢れ出す涙。


手にした皿の中で、ジェリーマウスが笑ったような気がした。




誰かが生きている。誰かが戦っている。


聞こえてくるのは幻聴なのかもしれないが、そんなことはもうどうでもよかった。


闇に響く銃声がサシャに叫ぶ。生きろ。そして証明しろ。自分の生きてきた全てを。これまでの出会いが決して無駄ではなかったということを。


ショットガンを支えにしてゆっくりと立ち上がる。少女のお皿をそっと棚に戻し、彼女は一つ長い息を吐いた。


ごめん。少し……弱気過ぎたよね。


生きている人間は、自分の足で立って戦う義務がある。死んでいった大切な誰かのために。贖罪のために。私は生きなくちゃ。私も……戦わなくちゃ。


キッと顔を上げ、涙を流したまま走り出す。


私は出来る。まだ戦える。父の弱さ。ケイの生きた儚い命を無駄にしない為に……私が戦うんだ! サシャの中に迷いはもうなかった。


その時だ。


「!」


轟音に揺らぐ足元。身体は宙に浮き、視界が軸を失って回り出す。


なに、これ?


サシャの鼓膜にこれまで聞いたことのないシュバリエの絶叫が叩きつけられた。咆哮というよりも、これは悲鳴そのものだ。


窓からは唐突に燃え上がった橙の光が煌々と家の中を照らす。そして遅れてやってきた爆音にグレネードが放たれたのだと気付いた。


まさか、シュバリエを……倒し、た?


続いて巨躯がアスファルトの地面に崩れ落ちる衝撃を感じ、改めて驚愕する。


たったひとりで。ハンドガンとグレネードだけで……?


「冗談、でしょ」


そんな言葉が口から零れた。


伏せた身を起こして窓の外へ視線を走らせる。が、外の様子はそこからでは望めない。


助かった、の? 口中で呟くと、不意に銃声が響き渡った。近い。と、いうか。それはすぐ傍にある玄関の向こうから聞こえたものだった。


撃ち抜かれたキーロック。勢いよく蹴破られたであろうドアが彼女の視界でスローモーションのように倒れていく。眩いオレンジの光が暗がりに慣れた目を射抜き、その先に浮かび上がるシルエットをぼやけさせた。


「え」


そこに立っていた人物の姿に、サシャは驚きのあまり言葉を失う。


色素の薄い綺麗な髪は光に照らされ青白く反射し、強い意志を秘めた瞳には命の炎が燃え盛るようだった。背はサシャよりも頭ひとつ分高いが……細い。いや、そんなことよりも。


目の前に立っていたのは、自分と同じくらいの女だった。



「……」



端正な顔をした女はなにも言わずにサシャをじっとみつめる。その内心はまったく窺えないが、リューイのような危うさは感じない。むしろ湖面のように凪いでいた。


ポカンとした面持ちでサシャが女を見上げていると、彼女は親指を立てて外を示す。


それが逃げるぞという合図だと理解するまでに、また少しの時間を要した。

挿絵(By みてみん)






7





シュバリエの数は四体。手持ちの火力はHK45とLURE GR54が二本。換えのマガジンは六。


予備弾倉の一つを除いたその全てを使い果たした時点で、敵影は最後の一つまでに減っていた。鈍く光る銃身を左脇のホルスターベルトに収める。


「……」


Firstは相対するその巨躯を静かに観察した。グレネードの残り火に照らされた5m級の個体の体色はオレンジ。まともな人間には手に余る相手だが、幸いにも彼女はまともではない。


振り下ろされる拳の初動と共にスタートを切る。パワーよりもスピード。火力がないのなら一撃の精度を高める。数多の戦いの中で手に入れたノウハウだ。


砕けて飛散するアスファルト。それが宙に浮いて落ちる頃には股座をくぐりバックを取る。抜いたナイフを片手に溜めをつくると、後頭部の露出した小脳へ鋭い投擲を放った。


放たれた刃は体勢を整えつつあったシュバリエの脳へ狙い違わず吸い込まれていく。


ゾンビの感情を司る小脳は極めて小さく薄い。そしてその裏にあるのは脳幹だ。右手の平にナイフが達するのを"人外の特権"で感じると、彼女はぐっと拳を握りこんだ。


「……!……」


大脳皮質の裏側が激しくスパークする。手中には離れたはずのナイフの感触。確かめるように握り直し、Firstは虚空に向けて一閃を解き放った。


『!!??!?!!?!!』


ぎゅるっ。舌をもつれさせてシュバリエの全身から力が抜けていく。弛緩した筋肉。断線した神経回路。ぐらりと巨体が揺らめき、盛大な土埃をたててFirstの傍に崩れ落ちてくる。彼女は身を躱す必要性を感じなかったので目と口を閉じるだけに留めた。


「……」


どっと、疲労を感じて汗が流れ出す。やはりロックされた状態でのPSYは無理を隠し切れない。深層心理にかけられた錠前の堅牢さに辟易し、Firstはひとつ溜息を吐いた。


自分はどうしてこんなことをしているのだろう。ここまでの道中ではよくわからない焦燥感に急き立てられていたが、一息ついたいま考え直しても理解できないままだった。戦況も、バイタルも最悪の出だしだ。


だが、ここまで来たからには土産を持って帰らねば。


ふらつく足元に気合いを入れて汗を拭う。向かう先はベーカリーの向かいにある煉瓦造りの家屋だ。


Firstの言語能力はハッキリ言ってジュニアスクールの子供と大差ない。しかし喋ることが苦手なだけで、意思が伝えられないわけではない。こちらの思考を直接飛ばせれば、あとは相手の言語能力が足りない部分を補完してくれるという具合だ。一種のサイコメトリーと言ってもいい。


けど……どこかで休まなきゃ。


ゲストの生存確認のためにこのPSYを行使したわけだが、思ったよりも無理がきていた。一度に四体ものシュバリエを相手にした緊張感のせいか、思うように力を出し切れてもいなかった。先が思いやられる。


とにかく。今日のところは探索を切り上げ、安全な場所で休息を取ろう。


緩やかな足取りで、見方を変えれば体力を温存した隙だらけの動きで赤煉瓦の家屋へと向かっていく。



その背中を、ようやく被写体を見つけた超小型球体ドローンが静かに見つめていた。




.




会場は憤怒と罵詈雑言の嵐で満たされていた。


「お見苦しいものをお見せしてしまい大変申し訳ありませんでしたぁあぁぁあっ!!」


無駄にプライドの高いキリクが寝下座までしなければならない程の張り詰めた空気感。消える相方。青筋を立てて震えているG-ALLの研究員数名。飛び交うグラスや銀器。


最早これまでか。


なんとかG-ALLの広報社員として食い込んだまではよかったが、この失態ではクビも覚悟しなきゃいけないかもしれない。いや、クビで済めばまだいい方だ。


今にも飛びかかってきそうな面持ちの研究員はその気になればキリクを新しいモルモットにするくらいの権限と考えを持っている。ワルキューレの量産にサンプルはたくさん欲しいのだ。なくが音もなく消え去った一番の理由もこれだろう。


次生まれてきたら、いい加減平和になってるといいなぁ。人生で初めて本気の世界平和を願う。背後で回線が再び繋がったのはその時だった。


『会場にお集まりの皆さん。先ほどはたいへんご迷惑をおかけしました。会場の清掃は末期が責任を持って行いますのでどうぞお席にお戻りください』


ミリア!?


驚きと助け船の感激で背後のディスプレイを振り向く。そこには愛らしくデフォルメされた相方の姿があった。出ているフキダシには『キリクそうじよろ』の文字。


なんで私ばっかり! キリクは泣きが半分安堵が半分の面持ちでホウキとちりとりを取りに駆け出した。


『ドローンが清浄で正常な映像を取得したのでスクリーンにご注目下さい。安全で健全な血みどろの地獄絵図をご提供するよ』


ゆるふわキャラがにこやかな笑みを作る。デフォルメし過ぎだろとキリクは思うが、思いの外会場の空気は弛緩している。計算された愛くるしさと緩さがが観衆の血の気を削いでいるようだった。



ミリアのファインプレーによって会場の怒りはなんとか収まったが、冷静さを取り戻した有識者達の評価は鋭いものになった。


「確かに動きは従来のヴァルキリーとは比べものにならん。が、優先順位を無視した判断は手を叩けるものではないな」


そう語ったのは元アメリカ陸軍中将であり、この地下都市"ソドムブルグ"の西管区を統括するマーチス・ハンク議員である。


威厳の塊のような白い顎髭はもみあげと繋がり、鷹のそれを彷彿とさせる瞳には彼がまだまだ現役であることを証明していた。ピンとした背筋もたしかな胸の厚みもおよそ老齢を感じさせぬ活力に満ちている。


「それにPSYの出力と消費エネルギーが見合ってませんね。"カタログ"には一撃でシュバリエを跡形もなく消し去れるだけの数値が記載されてますが……」


ボサボサの頭を掻きながら初老の丸眼鏡が失笑気味に呟く。ヨレヨレの白衣にくたびれたワイシャツ。およそこの場に相応しくないこの男。実は初代Valkyrie開発チームのリーダーだ。



名を朝倉次郎といい、世界がゾンビで溢れる以前はケンブリッジ大学の医学生だった。


若い頃から学問に没頭し、身繕いを放ったらかして図書館に籠るのが常だった彼は誇張なしの天才だった。成績は勿論トップクラスで幾つかの論文で大きな賞を授与されることもあった。貰ったトロフィーや盾はサッカーボールと一緒に物置にしまっていた。


そんな彼が初期の"選別"で最初の地下都市に招待されるのは必然であり、そこでめきめきと頭角を現した天才の最高傑作"ヴァルキリー"は世界の救世主となるはずだった。が、実際にはいまなお闇は健在である。




「まさか水増しの数字というわけではないでしょう? なにかネックになっているものがあるのでは?」


彼にとっては分かりきった事だったが、そこは敢えて疑問としてみる。細められた目を向けられ、G-ALL研究員はごくりと息を呑んだ。


「そ、それに関してはまだ実験段階でして。PSYの行使には幾分不安材料があり……」


「ハッキリ言えばいいじゃないですか。人の器に見合わない力を注ぎ込んだ結果だと。大方サイコメトリーで自我崩壊でも起こしたんでしょう」


「……」


「これだから嫌なんですよ。元は"死体"とはいえ人を人とも思わないその思考回路。だいたい、軍隊のお偉いさん方が無理な作戦さえ立てなければヴァルキリーだけで奴らを一掃できたんだ。それを……」


「まぁまあ。その辺で許してあげたらいかがか。彼らもその点に関しては重々承知の上で君を呼んだんだ」


宥めたのは北管区の領主ハインド・レイだった。



「レイ……それはつまり、ぼくにチームへ戻れと?」


眉を下げて歪んだ笑みを領主に向ける。穏やかな笑みを浮かべた領主は、これもまた穏やかな声音で返す。


「君は先ほど、人を人とも思わないと言ったが……君自身そうだったろう?」


「!」


優しげな笑顔が発した言葉は、朝倉の急所に鋭く突き刺さった。


被験体をモルモットとしてみる事はヴァルキリーに携わる研究員には必須スキルのひとつだ。


驚異的なまでの身体能力と戦闘力。ただそれらを持っているだけで、彼女達にも人としての心があった。抑制することは出来ても決してなくすことは出来ない不可視の実像。中には猫のように懐いてくる個体もいた。


そんな彼女達を薬漬けにし、殺し合いまがいの模擬戦をこなさせ、送り出す先は絶望の広がる戦場だ。一週間前に見送った一個大隊が両手で数えられるだけの数しか帰ってこない。そんなことがザラだった。


ヴァルキリーはモルモット。ヴァルキリーは消耗品。そう考えなければやっていられない。


その思考に各々が疑問を抱きつつも、「仕方ない」「これは人類の為だ」「自分達は世界を救う為にやっているんだ」そんなチープな言葉で打ち消すのだ。あの空気感を身をもって感じた朝倉が、苦悶の顔で閉口する研究員の心情をわからないわけがなかった。


「君は現場から離れてただ目を逸らしてるだけだろう。手厳しいかもしれないが、正論は強くて卑怯だ」


的を射た言葉はいつだって辛辣だ。朝倉とレイ。この二人が無二の親友である事がそれに拍車をかける。


「それでも人道を説くのなら……君があのモルモットを人間にしてやればいいんじゃないか?」


血が頭に登り、気づくと朝倉は椅子を跳ね倒して立ち上がっていた。


「……っ……ぐっ」


涼しげな顔でレイは笑う。


ふざけるな。おまえの、おまえの言ってる事だって正論じゃないか!


わなわなと震える拳を振り上げなかったのは強い自尊心と負い目のせいか。朝倉は突っかけるように踵を鳴らして出口へと向かう。レイはやれやれという具合に肩を竦めた。


「あっ、ちょ、ちょっと!」


「大丈夫ですよ。これくらいで折れる男じゃありませんから」


北管区の領主は相変わらず穏やかな笑みを湛えて研究員を宥める。朝倉が退場して周囲の注目が自分に移ったのを感じると、彼は悠然と立ち上がり澄んだ声音を奏でた。


「場を白けさせてしまったようで申し訳ない。ここは私の顔に免じて御許しを……」


返答の代わりに戸惑いがちな手を叩く音。ある程度それを聞き流し手を挙げて制すると、再び口を開いた。


「どうやら彼女もまた動き出したようだ。ここはもう少し様子をみようじゃありませんか。あぁ……キミ」


「ふぁっ!?」


唐突に声をかけられたキリクがおかしな声を出す。会場内を駆け回って汗だくになった横顔に、レイは優男(ロメオ)よろしく愛想を振りまいた。


「ミリア、くんだったかな? 悪いがボトルを少し追加してくれ。頼んだよ」


傍にしゃがみ込んで汗を拭くように手渡したハンカチには幾ばくかのチップが忍ばせてあった。


受け取った自称アイドルは自分の席に戻っていくレイをぽかんとした顔で見送り、ハッとして叫びそうになる。



キリクな!!!!!!



辛うじて口に出さなかったのはG-ALL研究員の機嫌を損ねぬためか自らの保身の為か。



兎にも角にも末期は再び走り出した。頑張れわたし! 負けるなわたし!!



会場を出た途端、料理を運んできたウェイターと勢いよく衝突した。





8





彼女は酷く無口な女だった。


「あ、あの……」


「……」


「いえ……なんでもありません」


「?」


表情や所作での意思表示はするものの、まともな返事はかえさない。喋れないのだろうか? そうも思ったが、よく集中して聞くと微かな相槌は打っている。それも「そう」とか「あぁ」とかいう朧げなものではあるが決して喋れないわけでもないらしい。


「名前、聞いてもいい?」


「……」


女は宙を眺めて少し考えるような仕草をする。それからコクリと首を縦に振って胸元から一枚の小さな板を取り出した。


「え?」


じゃらん。渡された銀色のチェーンが小気味いい音を鳴らす。なにかと思って見てみれば、それは認識票(ドッグタグ)だった。


軍の人? Firstというのが氏名にあたるのか。記憶の中にいる粗暴な兵隊を思い出して警戒心が沸き起こる。が、手中のタグに刻まれた最後の文字を見てサシャは安堵と驚きを同時に感じた。3rd Valkyrie. The origin。


「ヴァル、キリー……貴女、ヴァルキリーなの……!?」


唐突に彼女の人差し指がサシャの唇を抑える。声がデカイということか。


女……Firstはさっと床板に耳を当てて伏せる。すぐに小さな舌打ちをして立ち上がると今度は家の中をぐるりと見回した。


「ど、どうしたの?」


それには応えず、彼女はツカツカとガレージの方へ向かっていく。サシャは慌てて彼女の後ろへ着いて行った。



ガレージは相変わらず殺風景だった。


留めていたファミリーカーが大半を占めていた上に棚に備えてあった弾薬や銃はそっくり持って行かれてしまっている。残っているのは使い道のわからぬ工具や油指しのスプレー缶くらいだ。


「ねぇ、ここには何もないわよ? みんな……持ってかれちゃったから」


胸がズグリと痛む。見捨てられたという事実が自分で思っているより答えている。


Firstはそんなサシャを振り向きもせずに迷いのない足取りで壁の方へ歩いていった。


「……ここ」


ポツリと呟く彼女の目の前にはなんの変哲もない壁があるだけだ。が、よく目を凝らしてみればその一部分だけが僅かに色が違う。


「なんだろ。こんなとこ、誰か穴でもあけたのかしら?」


眉を寄せて首をかしげるサシャの隣でFirstは大ぶりの工具を手に取る。何かを確認するように空いた左手の甲でその周囲をコンコンと小突き、最後に色の違う部分を軽く叩いた。コォン。そこだけが、やけに音が高い。


「え? ぁ、うん」


Firstはサシャに退がれと促すと狙いを定めて工具の柄を突き入れた。ガスッ。やはり軽い破砕音。


それを数回繰り返してできた穴にガレージの頼りない電灯が差し込む。缶コーヒーが入りそうなくらいの小さなスペース。そこにあったのはサシャにも見覚えがあるものだった。


「……グレネード」


Firstの手のひらに取り出されたそれはルアーグレネードで間違いなかった。違う点といえば炸薬から柄が外され、起動時ランプだけが点滅しているという事だ。


「信管、抜かれてる……奴ら、あつまる」


「ウソでしょ?」


嘘だといってほしかった。


信管の抜かれたルアーは当然起爆しない。つまり攻撃対象を寄せ集める周波数だけが放出されるわけだ。


そんなものが壁に埋め込まれているという意味くらいはいくらサシャでも理解できる。囮にされたのだ。


「そんな」


信じたくなかった。それでも、ある思考が彼女に目を覚ませとがなりたてる。信管の抜かれたLURE。起爆しなかったケイのグレネード。渡したのは……日比谷宗介の従順な猟犬。


ぎっと噛み締めた奥歯が鳴く。込み上げてくる激情。堪えきれずに震えだす肩。いったい……なんの為に!! 溢れ出した感情が勢いよくスチールラックの足を蹴っ飛ばした。




9



Firstはルアーグレネードの放出電波を解除するのにまたPSYを行使する。血中の酸素濃度が低下し眩暈を覚えたがゲストに気取られるわけにはいかない。余計な不安をかければそれだけで今後の作戦に支障をきたす。


「……行くよ」


「どこ、に?」


取り乱したサシャは呼吸を荒げたまま問う。Firstは答える代わりにガレージの隅へ向かう。左手に握られているのはマイナスドライバーだ。


彼女はここには何もないと言っていたがひとつだけ見落としている物があった。


鼠色のシートに包まれた機械仕掛けの黒豹。剥ぎ取ったカバーの下にいたのはYAMAHA製造、1200ccV-MAX。この時代ではもはや骨董品と言ってもいい代物だが、Firstには"彼"がアスファルトの大地を駆けたがっているように見えていた。





風を切り、闇を疾る。ヘッドライトの照らす先には暗澹たる街の影。オートバイという前時代の利器にまたがっている時だけが荒廃したこの世界で、唯一彼女が好きな瞬間だった。



「ヴァルキリーって、本当になんでもできるのね」



後ろに乗せたサシャが感心した声で呟く。おそらくはドライバー一本で鍵の無いV-MAXを動かしたことか。


風の音でそのほとんどが聞き取れはしなかったが、足りない部分は思考を掬いとって補完だ。バイタルはとっくに最悪の域に達している。いまさらセーブしたところでなんの意味があろう。


ヴァルキリーじゃない……ワルキューレ。


発声も一応してみたが、Firstの小さな声は案の定サシャの耳には届かなかった。流れ込んでくるこちらの思念に、彼女の内心がほんの僅か乱れる。


「わる、きゅぅれ……親戚か、何か?」


親戚。そうなるのか? 技術的には姉妹、もしくは親子とも言えるが生き物としてはまったくの別物だ。



人間がベースのボトムアップ型人造人間ヴァルキリーと死体がベースのワルキューレとでは発展の仕方が大きく異なった。


受精体から培養された前者はデザインチャイルド、つまりは遺伝子操作技術に預かるところが大きい。しかし死体を基礎とするワルキューレは当然ながら細胞が死んでいる。


そんなものを用いて新たな生命を生み出すことなど到底できるはずもなかったが、それを可能とした者がヴァルキリー開発チームからワルキューレ開発チームへとやってきた天才朝倉次郎だった。


死んだ細胞を再び活性化させる方法。誰もがその結論に達し得なかったなか、彼だけが答えを導き出す。その答えはこの世界にありふれ、当たり前となっている存在……。



そこまでの思考を展開して、Firstは車体を90度捻りブレーキを握った。



「ちょっ!? わっぶ!?」


急な制止運動にサシャが鼻を背中にぶつける。


ちょっと! ただでさえ低い鼻が潰れたらどうすんのよ!


そんな文句が頭に流れ込んできたが、Firstは無視して索敵を開始する。やはり、集まってきたか。


鋭い舌打ちにサシャが後ろでビクリとする。あぁ……どうにも人間は扱いづらい。


「飛ばす。しっかり……つかまって」


その言葉だけで察した辺りは多少評価に値する。腰に彼女の白い腕が巻きつくのを確認するとFirstはギアを入れ替えてアクセルを開いた。走り出した先には、ずんぐりとした大きな影。


「え! ちょ、まままっ、待って! あれ! あれ!!」


そんなの見ればわかる。前方に見える巨大な熱源は言うまでもなくシュバリエだ。その体長は目測だけで8mはくだらない。


おそらくはブルックリン地区に配置されたゲートキーパーだろう。身体が大きいだけの木偶の坊ではない。もしも……あれが筋肉の統制を整えた完全体ならば、いずれ戦闘は不可避だ。


ならば、挨拶のひとつもしてやるのが筋というやつか。


ゾンビ相手に礼儀もなにもありはしないが相手がシュバリエならそれは宣戦布告になり、牽制にもなる。というのも、ヴァルキリーを取り込んだ彼らには自我の残滓が残っており、それを行使して他の個体を統率している節があった。


取り込まれた彼女達の精神は極めてシステマチックで、人間のそれよりはスパコンなどの機械的なものに近い。


だからこそ、原始的なゾンビでも同化する事が出来た……いや、あの身体を動かしている真のところは彼女達の方か。



「きた!」



背後でサシャの悲鳴混じりな警笛が響く。見上げるほどの巨体の体色は最悪のホワイト。石灰石のような白が夜目にも映える。


さあ、第一ラウンドだ。


再びギアを切り替えて速度を上げる。この日最大の強敵を前に、Firstは微かな高揚を覚えていた。




シュバリエはその体色によって戦闘能力が大きく異なった。


元々の身体的性能は大差ないが、体色が薄くなるにつれて筋肉の統制が上がってくる。それはつまりひとつひとつの動作が精度を増すということ。


健常者でさえ完璧ではないそれを使いこなし、脳のリミッターを解除された完全体は数百のゾンビよりも危険な存在である。


考えてみればすぐにわかる話だ。


ボールを握り、的の真ん中に十球投げて十球当てる。角度、スピード、回転数。その全ての誤差をコンマ単位まで抑える。それは特殊な訓練を積んだスペシャリストにも容易なことではない。


いま、それを当たり前のようにやってのける化け物が目の前にいる。


かつてはFirstと同じように荒廃した街に落とされ、生まれ持った使命のために命を落としたヴァルキリー。死してなお異形に呑まれながらも自らの使命を果たさんとする哀れな殺戮兵器。


盲目な彼女達を撃ち貫き、安らかな眠りを与えられるのは、私しかいない。Firstは自らの感情の昂りに気付かず、本能のまま最初のアプローチをかけた。



ゴォオオオオオオオオオォオオッ!! 白の巨人がけたたましい絶叫を迸らせる。そうだ。はじめよう。そして、近い内に必ず眠らせてやる。懐の愛銃へと、左手をグリップから離しかけたその時だ。


「ダメ! 横!! 挟み討ち!!」


「!」


咄嗟にハンドルを握り直して周囲を素早く見回す。大きな交差点の左右から。遮蔽物に身を潜めていた中型のシュバリエ二体が覆い被せるように拳を振り上げていた。体色は、いずれもイエロー。


……くそっ!!!!


激しい悪態を内心で撒き散らす。調子に乗り過ぎだ。自分だけが? 自惚れるな。お前は、お前はただの兵器だろ!



己へ対する怒りと悔しさに歯をくいしばる。だが、そこからのFirstの判断は極めて冷静だった。


左右から打ち下される岩のような拳は互いにクロスを描いてVーMAXの行く手を阻む。一分の狂いも許されないハンドル捌き。奴らの拳が衝撃を生み出してしまえば、車体は浮き上がり身体はアスファルトの上に投げ出されて終わりだ。


怯えるな。突き抜けろ。


ギアを下げかけた足を精神力で抑え込み、右手でアクセルを全開まで捻る。しがみつくサシャにPSYで指示を送り、Firstは頭を下げて体勢を低くした。



「!」


ベルトに吊るした不発のルアーをサシャが外して宙に放る。ガレージの壁に埋め込まれていたグレネードだ。


咄嗟の指示で行動に移せる反射神経。手先の器用さ。それがFirstのミスを上手くフォローする。この時に関しては掛け値なしにサシャの存在に救われた。先ほどの要約された的確な警笛もなかなか素人ができるものではない。幾年も地上で暮らしてきた経験値の為せる業だろう。



本当に、浅はかだった。



背中に命を乗せているという認識の甘さ。目の前の敵に一人で熱くなってしまった自分の稚拙な思考回路に腹が立つ。が、今は反省会よりもこの場を切り抜けねば。Firstは今度こそ左手でHK45をホルスターから走らせた。


「っ!」


片手で耳を塞ぐサシャの右肩に左腕を預けて照準を合わせる。無防備な半身の体勢をすぐに立て直すため僅かな時間で後方に流れていくグレネードを捉えた。


外しはしない。


ブローバックと共に銃口から吐き出される銃弾。射角、反動による手振れ補正、純粋な狙撃技術。その全ての誤差修正とスキルレベルが極限まで高められた時、神業は生まれた。


点のような小さな的を、さらに小さな弾丸が目視すらかなわぬ速度で射抜いた瞬間、閃光が夜の大気に炸裂した。


信管を抜かれたグレネードは起爆することはない。しかし、弾頭の炸薬は必要十分な火力があれば当然爆ぜるものだ。



前方に向き直りアクセルを開いて加速する。後方からまばゆい光が迫り、肌をヒリヒリと

熱が焼いた。それでも二体のシュバリエを倒すには至らないだろう。目眩しと分断がいいところだ。


「……?……」


ほんの少しの間ではあったが、待ち構えていたはずの白のシュバリエが動きを止めた。そして瞳孔の開き切った目に意思のようなものが映り込む。それは……かつて一度だけ戦場を共にした第二世代ワルキューレ達の目とよく似ていた。


……迷い?


読み解くと同時にシュバリエが再び動き出す。だがやはり動きが鈍い。思考が混乱しているようだ。だとすれば。



「跳ぶ……つかまって!!」


「は!? 跳ぶって?! え!? じょ、冗談でしょっ!?」




こんな状況でジョークが出るほどユーモアでもないし、出し惜しみしていればやられてしまう。堪えて。


ああっ! わかったわよもうっ!! やるならさっさとやって!!




サシャの思考が流れ込んでくる。応答もないままに、FirstはV-MAXを全速力で捲れ上がった舗装の上に走らせた。


ビュゥウッ! 風を引き裂き、機械仕掛けの黒豹はメーターを振り切ってとてつもない重力加速度を提供する。バックファイアが迸り、唸るエンジン音。


乗り上げたアスファルトのジャンプ台から跳び上がるタイミングで、Firstは奥の手を解放した。


「!」


通常なら、車体が浮き上がると搭乗者は浮遊感に襲われる。しかし、サシャの身体にかかったものは間違いなく落下にかかる負荷だった。


「え!? えっ!? えええっ!?」


二人を乗せたV-MAXは更に速度を増して宙を駆ける。いや、駆けているのではない。かといって飛んでいるというわけでもない。車体は確かに"落ちていた"。




数秒後の速度=初速+秒数×重力加速度。等式とするならばv=v0+gt となる。つまりは鉛直下方投射の速度計算だ。


V-MAXのトップスピード240km。プラス秒数×重力加速度9.8。5秒後には時速298kmに達し、更に5秒後には338kmにまで達する。そこから空気抵抗を減算したとしても直に新幹線並みの速度に到達する計算だ。


これがFirstの現時点で行使できる奥の手、PSY"重力制御能力"だった。


自己とそれに付属する物質の"重力のかかる方向"を任意の向きに変換できるというものだ。


汎用性の高さとその絶大な高威力。しかし強大な力にはリスクが付き物である。全身が軋み、流れる汗が急速に冷えていく。


なによりも、人間は時速150kmを超える速度ではまともに呼吸する事はできない。マッハを越えれば音速の壁を突き破ると同時に骨という骨は砕け、マッハ3ともなれば空気加熱により一瞬で消し炭になる。


それを考慮すれば、最も気を使わなければならないのは目の前の敵よりもサシャの存在だ。どんなに保ってもあと10秒。


更に急な減速をかけてしまえば身体がGに耐えられなくなる。着地時には周囲を一瞬、無重力状態にしなければ機体もろとも木っ端微塵だ。




大丈夫……あなたなら、やれるよ。




不意に、古い記憶の中からあの日の彼女が囁きかける。懐かしい響き。


朧げな記憶の彼女はいつもFirstが窮地に陥るたびに現れて消えていく。その正体不明な存在は気付くと自分の内から感じなくなっていたが、普段では引き出し得ない潜在能力を引き出してくれていた。そんなことが出来るのは彼女と同じ存在か、あるいは……。



Firstは思考を切り替えた。



『!!??!!??』


標的の突発的な変化にシュバリエが驚愕する。ほんの短い時間で300kmを超えた機体は翼を得て頭上を遥か高く羽ばたいた。


刹那、標的と目が合う。




「……」


冷静さを取り戻したFirst。獲物を逃した白の巨人。互いの思考が緩やかに流れ込んでくる。


次は仕留める。


やがてV-MAXの黒い車体は夜の闇に溶け込み消えていった。

挿絵(By みてみん)




【出撃】 了





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