芍薬
――――次の日も、その次の日も女の子はそこにいた。
初めは不思議な女の子だと遠巻きに見ているだけだった。森の野性動物のように、近付き難い空気があるように思えた。ううん、違う。僕が彼女に見つかることを避けているんだ。
電車で3駅以上遠くへ出掛けたことのない僕にとって、外国はもうすでに異世界だし、そこからやって来た女の子は触れていいものなのかどうかも分からない宇宙人みたいな存在だったから。
手を繋ぐことはおろか、目が合うだけでも、この夢のような出会いがUFOに乗ってどっか遠くに行ってしまいそうな気がしてならなかった。
だけど、何日もそうしている内に少しずつ女の子がいる空気に慣れて、近づいても消えないと分かると、抑えていた好奇心がこみ上げてきて彼女のいる木に積極的に近づくようになった。
けれども、僕が目を覚ましている間、あの子は絶対に木から下りてこない。話しかけても一度だって返事をしてくれたことはない。
枝に腰掛け、眠ってばかりいる。
それでもこの村で数少ない僕と年の近い、素性の知れない女の子がいるこの状況を――妖精だろうと何だろうと――、僕は放っておくことができないようだった。気付けば女の子に向ける僕の想いは淡いものでなくなっていた。
だからある日、目を開けている女の子の姿を見た時、背筋がゾクゾクする自分に気付いて妙に納得してしまった。
女の子は目を開けていた。やはり細かい部分までは見えないけれど、宝石のように澄んだ女の子の瞳は日の光を通して黄金色に煌めいて見えた。
女の子は枝の上で器用に立ち上がり、その金色の宝石で何かをジイッと見つめている。
僕はこみ上げてくる衝動をなんとか抑えて、まずは静かに女の子を見守ることにした。
けれども女の子は何もしない。影が30度傾いても女の子の姿勢は少しも変わらなかった。微動だにしないその姿は人形のようにも映った。……僕は、そうでないことを強く願った。
彼女はただ、遠くの一点を見てばかりいる。
何を見ているのか、何度も視線の先を追ってみるのだけれども特にそれらしいものは見当たらない。見えるのは小さな村の全容。そして村の奥に控えている無限の大海原。それは木の上から見える景色も変わらない。
運動神経が悪い僕でも何度か木の上からの景色を眺めたことがある。それはテレビで紹介される王宮の、広々とした通路のように神秘的で威厳があった。
確かに、感動的な光景ではあるのだけれど、僕には女の子が見ているものはもっと別のもののような気がしてならない。もっと、もっと遠くの、僕らには見えない何かを――――。
僕の中で女の子はまだ物語の中の妖精で、僕たち人間には見えない世界、景色が見えている。そう思い続けていられるくらいに女の子は綺麗だった。
見れば見るほど、僕は女の子に現実とはかけ離れた命を感じる。
風にも煽られず、枝葉と同化するように自然な姿でそこにいられる女の子が、僕の呼び掛けにも一切応えないのはそのせいだと思った。
夢の中の住人。だから僕は眠くなり、目が覚めれば女の子はどこかへと帰ってしまうのだ。
次の日も、そのまた次の日も、女の子は遠くを見つめていた。
「何を見ているの?」
「何が見えるんだい?」
僕は間隔を置いて呼び掛けてみる。けれどもやっぱり、女の子がそれに応える様子はない。
本当に、ただ、ただ見つめているのだ。僕には何も見えない場所を。
その日も何の収穫のないまま、僕はおばあちゃんの家に帰る。
「お祖母ちゃん、この近くにお嬢様って住んでる?」
おばあちゃんは豆鉄砲をくらったような顔で僕を見つめた。おばあちゃんの膝の上でトグロを巻いている白猫が薄っすらと瞼を持ち上げて僕を睨んだ。
「どうしたんだい、順くん。誰かに会ったのかい?」
「うん。僕の遊び場で女の子を見たんだ。金色の髪だったし、肌の色も凄く白かったから多分、外国の人だと思うんだ。」
本当は誰にも話すつもりはなかった。けれど、僕はおばあちゃんを誰より信じていたし、おばあちゃんは皆が信じないような話を幾つも知っていた。
何より、いつまでも夢のままで済ませてちゃいけないような気がしたんだ。
「お嬢様?いやぁ、知らないねぇ。わざわざ、こんな田舎に住む物好きなお金持ちなんていないだろうから。」
僕はおばあちゃんの言葉を素直に受け取ってその日は眠ることにした。そうすれば、また明日も女の子に会える気がしたから。
「昔ね…。」
すると次の日の夕食時、前置きもなく、おばあちゃんは切り出した。けれども、おばあちゃんにしては珍しく言葉に詰まっていた。僕はおばあちゃんの中のつっかえ棒が取れるのを根気強く待った。
でも、待っている間、僕はなんだか不安になってしまった。
それは間違いなく女の子の話で、それは彼女が僕の思い描いているものとは別のものだと告げるに違いないんだ。……そういう不安が沸々と湧き上がる。
――――そうして僕は、女の子が僕と同じ人間なんだと知る。
「昔ね、おばあちゃんには外国の友だちがいたのよ。」
終戦直後、アメリカからこの村に引っ越してきた一家あった。おばあちゃんはそこの娘と仲が良かったのだという。
奥さんが日本人ということもあって、アメリカ人の旦那さんは、横柄な他の軍人と違って日本人に紳士的だった。女の子は日本語も喋ることができたので、ほどなく村に馴染むことができた。
殊に家の近かったおばあちゃんとは毎日顔を付き合わせ、笑い合う仲になった。
それでも、女の子は何度となく帰国をせがんで父親を困らせていたらしい。
「好きな男の子がいたんだよ。生まれてからずっと一緒だった男の子と、大人になったら結婚するんだと言っていたわ。」
けれども、日本に越してきたのは奥さん達ての願いらしく、アメリカに帰る予定はなかったらしい。
女の子は、「直ぐに帰るから」という優しい嘘に流され、なかなか帰りたい場所に帰れないことを嘆いていたという。
そうして、女の子の願いが叶う日は最後まで訪れなかった。
終戦直後だから、日本人はアメリカ人に優しくすることができなかった。翌年、村の右翼が一家全員を皆、殺してしまった。
事件の前日まで女の子はおばあちゃんに男の子の話をし続け、おばあちゃんはその話を今でも全部憶えているという。
こんな悲しい話をしているのに、おばあちゃんは涙ひとつ流さなかった。悲しい顔をしているのに涙は浮かんでいなかった。
「どうしてだろうね。女の子は私にその恋人への手紙を預けたんだよ。もしかしたら、そうなることがなんとなく分かっていたのかもしれないね。」
おばあちゃんの表情は心が後から付いてくる。僕の目にはそのどっちもが間に合わせの作り物のように見えた。
僕はそれがなんだか許せないように思えた。
「おばあちゃん、その手紙ってまだあるの?」
僕はおばあちゃんと約束した。大きくなって自分でお金を稼ぐことができたら、女の子の恋人に会いに行くと。おばあちゃんは条件付きでそれを許してくれた。
「見つからなかったら無理せず帰ってくること。相手が結婚していたら会わないこと。無理に手紙を渡さないこと。手紙を渡す以上に干渉しないこと。」
おばあちゃんの声はとても真剣で、何かに怯えているようだった。
反対に、僕には根拠のない自信があった。男の人は今でも女の子を待っている。大好きな想いは今でも輝いていると。
手渡された手紙は年代に見合うくらいに変色していて、見ていると増々良い方向へと妄想が膨らんだ。
――――ところが、ある日やって来た運命が、僕の大事なものを持っていってしまった。
夏休みも終盤にさし掛かり、若干憂鬱な気持ちで帰ったその日、おばあちゃんは玄関で僕の帰りを待っていた。
白猫が甘い鳴き声でおばあちゃんの足に擦り寄っているのに、おばあちゃんはそれに構おうとはしなかった。
「順くん、落ち着いて聞きなさい。」
その日のおばあちゃんは顔と心が先日と逆転していた。
「今…、病院から電話があったの。」
おばあちゃんはポロポロと沢山の涙を溢して言った。
女の子は純白のワンピースをなびかせて、遠く、遠くを見つめていた。
背の高い木の一番高いところで、背筋を真っ直ぐにして立ってなお、もっと、もっと遠くを見たがっているように見えた。
※右翼=保守主義、伝統を重んじる人々。