3.5/7 失恋を吹っ切るにはエネルギーが結構いる
深瀬香織が店に来て数日。特に変わったこともなく何気ない日々が過ぎていた。
今日は神様さん共々、夕方五時で早上がり。僕は夕食の材料を買いにスーパーへ赴いていた。
「うりゃっ!」
いきなり背に衝撃が走る。バランスを崩してこけそうになるが、ぐっとつま先に力を込め、何とか倒れることは避けられた。
「あの、僕倒れるの下手なんです。頭ぶつけたりしたらかなり危ないと思いませんか、人葉さん!」
「そんな心配したことないなあ。それよりあーあ、うまく倒れたら人葉お姉ちゃんのパンツ合法的に見られるチャンスだったのに」
と、後ろから軽い調子の声が飛ぶ。やっぱりこの人か。神様さん、つまり二宮双葉さんの双子の姉の二宮人葉さんが得意げな顔で突っ立っていた。
ミニスカートに薄手のシャツ。男を誘蛾灯のように誘うような色気がうっすら漂っている。だからといって彼女の下着を見たい欲求は僕にはない。
「何ですか」
「脳内ピンクで出来ている妹とその妹に付き合っている男のチェックをしようと思ってね」
「本当は何しに来たんですか」
「はは、嘘はバレるか。最近会ってなかったでしょ。だから久しぶりに会いに来ようと思って。ほら、人葉さんお友達少ないし」
彼女の苦笑に、僕は肩を落としながら「まあ、そうですね」と返答した。本当に嫌な人ならこんな返事もしないのだが、彼女は彼女で、何故か気が合う。
僕が歩き出すと、人葉さんは僕の腕に絡みついてきた。妹と付き合ってるのを知ってるのにこんなことをするなんて、大胆なのか頭のネジが抜けているのか、どちらか分からない。だが僕は振りほどくのも面倒で、そのままスーパーへ歩いていった。
「やっぱりこの位置が落ち着くなあ」
「……神様さんがこれするのは分かりますけど、よく他人の男の腕に絡めますね」
「……まだ、ちょっと好きだからね。君は分かんないと思うけど、失恋振り切るのってエネルギーも時間もいるんだよ?」
彼女は寂しげに呟いた。僕はそんな彼女を見て「迷惑だからやめてください」とは言えず、何も言わないまま腕を差し出し続けた。
失恋。失恋と言えば執事長ときみかさんの関係を思い出す。きみかさんは何回も振られた。それなのに彼に甲斐甲斐しく尽くし続ける。
いや、彼女はメイドとしての仕事が好きなのだろうか。ならば彼女が尽くしているのは執事長ではなく、店に帰ってくるお客さんということになる。
そのどちらも分からなくて、僕は口を真一文字に結び続けた。
「悩んでる顔だ」
「そうですね。悩みというか、どうすればいいんだろうって思う気持ちはあります」
「よかったら私に話してよ。少しくらい役に立てるかもしれないよ」
人葉さんの言葉にくすりと笑顔が漏れた。僕はそうですねと間を置いてから、人葉さんにゆっくり事情を説明した。
「僕の働いてる店の古参メイドさんが店長のこと好きで。そのことは店長も神様さんも知ってるんですけど、その人何回か告白して振られてるんです」
「はあ、なるほどね」
「で、今度イベントあるんですけど、そのイベントをプロデュースしてくれるのが、店長の昔の知り合いの有名イラストレーターさんで。二人の会話見てたら特別な空気が漂ってるんですよね」
そう言うと、人葉さんはなるほど、と一拍置いて僕の腕に自分の顔をぎゅっと押しつけた。
「……一宏君の男の子の匂い、凄く好き」
「……人葉さん」
「好きな人の匂いって、案外忘れられないものなんだよ。そのイラストレーターさんがどのくらいの付き合いかは私は知らないけど、その人はその人で、思う部分があるんじゃないかな」
彼女の呟いた言葉に、僕は黙ってしまった。人葉さんは失恋を引きずっている。でもきみかさんはもっと長い時間、執事長のことを思い続けている。それが振られたという結果であったとしても。
すると人葉さんはくるっと回って僕の前に出てきた。何だろう。僕がきょとんとしていると彼女は背伸びして呆然とする僕の唇にさっと自分の唇を重ねていった。
「ひ、人葉さん!」
「ファーストキス。ま、このやけに神聖に扱われるものを投げ捨てたことで未練を綺麗に断ち切れたらいいんだけどね」
寂しげに笑う人葉さんの言葉に、僕は怒るという感情を忘れた。神様さんからしたら相当な裏切りかもしれない。でも、人葉さんが自分の思いを吹っ切るにはそれは大事なことだったと思える。
「双葉に言ってもいいかな」
「……いいですよ。あの人も片思いの時期が長かったから、人葉さんの気持ちを汲んでくれると思います。というか、姉のそういうことに怒る人だったら、僕は好きになってません」
「私だから特別、か。それはありそうだね。でもファーストキスの相手が一宏君でよかった」
彼女は少しだけすっきりした顔ではきはき喋った。人葉さんは色々厄介なことを言う人だ。でもその根底に流れていたのは、やっぱり普通の恋愛をしたい等身大の少女だったのだと思い知らされる。
「バイト、どう?」
人葉さんは僕と交わしたキスのことを早く忘れたいのか、矢継ぎ早に質問してきた。僕はスーパーの天井を見つめながら、そうですね、と答えた。
「学費に関しては二学期と三学期の分を収めればいいんで、バイトが順調なら普通に払えると思います。あとは補助金も出ますし。ただバイトが忙しくて受験に落ちたら本末転倒な気もするんですよね」
「まあねえ。君、お金貯めてどうしたいの?」
「……僕も神様さんの経営する花屋さんの開業資金貯めてるところです。秘密ですけど」
それを聞いて人葉さんはくすりと笑った。それはまだ他にもあるだろうと言いたげな顔つきだ。
「見てて分かりますか」
「分かるよ。大学の費用も自分の生活費も全部まかなおうとか思ってるでしょ」
「そうなんですよね。ようやく、父も僕のことを理解してくれるようになった。そこで甘えてたら今までの自分に逆戻りしそうで」
僕の言葉に人葉さんはふむふむと頷く。
正直、メイドカフェだけの収入で大学の授業料までまかなうのは大変だ。それでも僕はやり通してみせるという意地を感じていた。だから今、まだ高校の学費だけで何とかなるこの時期に出来るだけたくさんお金を貯めておきたいという気持ちがあった。
「一宏君、前も言ったけど、もし生活に困るようならうちに居候してくれていいんだよ」
「妹の世話がありますからね。それはちょっと無理ですね」
「そこは妹さんを信じてあげようよ。でなきゃ、いつまで経っても独り立ち出来ないよ」
確かに、右左を一人にして無理に独り立ちさせるというのは手としてはある。だが僕はそれを選ぶことは出来なかった。友達に出来ない右左の相談事を聞いたり、勉強を教えたり。料理を作る以外にもやることはたくさんある。
でも、神様さんと一緒の家で生活出来たら、どれだけ幸せだろうか、そう思うことはある。いつかそうなりたい。それが僕の今を支えるモチベーションになっていた。
「しかし難しいもんだねえ。店長さんと古参のメイドさんとイラストレーターさんの関係。これに関しては完全に双葉も君も部外者だもんね」
「部外者なら部外者なりに出来ることもあるような気がするんですけど、それもなんていうかうまく浮かばなくて」
僕がじめっとした梅雨のような声で呟くと、僕の背を思い切り人葉さんが叩いてきた。直後にその目を見る。相変わらずの、呆れたような、厳しい目だった。
「出来ることは探せばいい。でも無理に首を突っ込むことはしちゃ駄目だ。君がその人達の何を知ってるのか。今考えるべきことは別にあるでしょ」
「……ですね。店の一員になったからって勘違いしてたのかもしれません」
僕が困り顔で笑うと、人葉さんも満足げに頷いた。店に流れるスーパーの軽快なテーマソングが妙に僕達の心を包んでくれる。
「そう。勘違いが過ぎる。君はまず人のことより自分のことだ。でも、もし君や双葉がきっかけでその人達がうまく行きそうなら、その時は進んで行動を起こすんだぞ」
やっぱり僕はこの人には敵わない。相談を聞かせてほしいと言ってきて、首を突っ込むなと一見矛盾したようなことを言う。でもその先にきちんと、やるべきこと、なすべきことの指針をくれる。
もし神様さんと出会わずに、この人と直接知り合うようなことがあれば、多分僕はこの人の魅力に惹かれて恋に落ちていたと思う。やっぱり、この人は神様さんの姉だ。
「お、ところで一宏君、ジャガイモが特売だぞ」
「……それは暗にビーフシチューを作れと言ってますね」
「ははは、妹さんを喜ばせるにはそれが一番だろー。……一宏君、私は君の妹さんも双葉も、もちろん君も応援してる。幸せになってね」
その言葉に僕の背がぴんと張る。それはまるで、僕から離れることを選んだような言葉で、辛さが滲み出ていた。
人葉さんはいつまで過去を引きずるんだろう。それが分かれば苦労はしない。でも、僕は守りたい、人葉さんも。
人葉さんは僕の腕にしがみつくことをやめず、結局買い物の終了までずっと二人、まるで恋人に見えるような姿で買い物に勤しんだ。
夏の終わりが近づく。そんな時に、僕は何が出来るのだろう。
悩んでいたって仕方ない。僕は僕でやれることを探そう。そう、無理のない範囲で。
久しぶりに会った人葉さんは以前と変わらず、僕に刺激を与えてくれる人でそのことが僕に安寧を与えてくれた。




