3.5/6 夏空を見て、思い思われる心は
閉店時間を迎え、お客さんがゼロになる。
本来ならみんなで掃除をするべきところを、いつも執事長が「遅くなりすぎるといけないから」と言って一人で後片付けをしてくれる。
一人片付けを始めた執事長に、きみかさんがそっと近づいた。
「……あの、執事長、今日もお疲れ様でした」
「きみかくん、君のおかげで僕も随分と助けられてるよ。気を付けて帰るんだよ」
彼が優しい声色で言うと、きみかさんも少し頷いて店を出た。
「一宏君、私達も帰ろう」
「そうだね。それじゃ執事長、また明日お願いします」
「ああ、イベント期待してるよ」
彼の軽口に僕達二人は笑った。そして、一礼した後に店の裏口から二人してそっと出ていった。
今日の神様さんはすこぶる機嫌がいい。やはり深瀬香織と知り合えたことが何よりの刺激なのだろう。
「深瀬さんって女の人っていうのも知ってたし写真も見たことあったけど、あんな優しい人だったんだね。イメージ壊れなくて良かったー」
「神様さんは深瀬さんのファンなんだよね」
「うん。色んなイラストレーターの人がいるけど、あの人の絵が一番好き。柔らかさもあって力強いシーンのところは迫力をしっかり出せてる。可愛いキャラも格好いい男の子も両方描けるしすごい人だよ」
神様さんが僕や右左以外の人でここまで褒めちぎるのは初めて見た気がする。ただ相手は女性だ。僕が嫉妬することでもない。
「ねえ、神様さん」
僕はおもむろに口を開いた。僕と手を繋いだままの彼女はきょとんとした顔つきで僕の横顔を見る。
「きみかさんの様子おかしいの気付いた?」
僕が呟くと、さすがに神様さんも気付いていたのだろう、静かに首肯した。
「きみかさん、あれだよね、深瀬さんにコンプレックス感じてたよね。嫉妬まではいかない感じ。今まで側にいた執事長が遠くに行ったみたいに見えたよ」
「僕も同じ感じ。ただの喫茶店のマスターと思ってたのに凄いイラストレーターが頭を下げてくるんだよ。きみかさん、分不相応とか思ってなきゃいいけど」
僕が呟くと、神様さんの僕の手を握る力が強くなった。
「私はきみと付き合えるようになったから、こんなことが言えるのかもしれないけど、気持ちが伝わらない時くらい辛いことはないよ」
「……僕も神様さんに片思いしてた時、いつ気持ちを伝えようかずっと迷ってた。色んな人の支えがあってようやく言えた。でもそれまでは辛かったよ」
僕の囁きに、神様さんはぴょんと僕の前に出る。そしてゆっくり僕の唇に自分の唇を重ねてきた。
路地裏だからって、外の往来で何をやってるんだと思わなくもない。でも今の僕達を結びつけるのに、その舌先の刺激的な感触は必要なものだった。
一分も経たない頃だろうか。僕達は言葉もなく唇を離した。神様さんは笑顔で僕の目を下から覗き込む。
「あれだよね、深瀬さん、執事長のこと好きだと思う」
「神様さんもそう思うか……僕も何となくそんな気がしてる。でなきゃあんなに積極的に執事長と絡むことはないと思うし」
「ねえ、さっきみたいなキス、私好きだよ」
「え?」
「好きな人とこういうキス出来るのって、やっぱり特別感がある。深瀬さんとかきみかさんがそんなのをしたのかどうかは分からないけど、二人だって執事長とこうしてみたいんじゃないかなって思うんだ」
彼女の屈託のない笑顔に僕は「そうだね」と答えた。執事長のことだ、きっと手は出していない。でも二人の求めるところがそこにあってもおかしくはなかった。
「だからね、夏休みの間にこんなキスを何回でも出来る日が来たらなって……そう思うんだけど、無理かな?」
神様さんは照れくさそうに、最後の方は小声になりながら僕に促してきた。
そんな誘い、嫌なわけがない。僕は笑いながら彼女の手を引いた。
「今度の休み、その日に僕の家にでも来て」
「でも妹ちゃんいるんでしょ?」
「……流石に妹ももう見て見ない振りするよ。そのくらいの信頼関係はようやく築けたところだから」
僕が一笑に付すと、神様さんは恥ずかしげに縮こまった。人葉さんをして脳内ピンク色と言われている神様さんでも、ストレートに受けられると流石に恥ずかしいらしい。
彼女はキスをしたいと言った。でもそれは表面上の理由で、それより深いことが一日の間にいくつもある。
そう言えば、深瀬さんは執事長と随分と懇意にしていたような口調だった。あの二人にも特別な関係でもあったのだろうか。あったのか、なかったのか。結論が出ない思考ほど嫌なものはない。
「ねえ神様さん、きみかさんって執事長と何かあったの?」
「何って……何?」
「その……さっきのキスみたいなこととか、僕達がいつもしてる……その、そのなんだろう、その先みたいなこと」
と、僕が照れながら言うと、神様さんは少し笑ってから僕の腕にしがみついた。
「ないよ。一回も」
「付き合い長いし告白もしたっていうから何かあったのかもって思ったけど……なかったんだ。意外だな」
僕が呆れたようにぼやくと、神様さんは星空を見上げて僕に答えた。
「意外じゃないよ。執事長は相手を大切にする人だからね。本人も時々言ってるけど、人生半分以上終わって、恋愛がどうこうでもないんだって」
「じゃあ会社員勤めしてた時とか……」
「その頃は出世とか売上とかそういう方面ばっかり気にして、人がどうこうってわけでもなかったって言ってたよ。でも深瀬さんは最後の部下だし、随分と師弟関係が出来てるみたいだからもしかするともしかするかもしれないね」
そうかも、僕はそう答えた。そう、彼女だけが執事長の特別な関係の枠に入っていてもおかしくない。それを危惧しているからこそ、きみかさんの迷いはどんどん強くなっているのだ。
きみかさんの恋愛がうまくいってほしいと僕や神様さんは願っている。でも僕達みたいに不思議な力で結びついているわけでもないあの二人が、うまくいくようには思えなかった。
方や五十歳、方や二十代、親子のような年齢差だ。それを分かっているからこそ、執事長も引く部分があるのかもしれない。
「何とかしてうまく出来ないかな」
「うまくはいかないとは思うけど……きみかさんに深瀬さんとうまくやってほしいっていうのは私も思ってる。うちのメイドカフェにギスギスしたのは似合わないから」
彼女のはにかむ横顔に、胸がきゅっと絞られるような思いに駆られる。お互いに全部さらけ出して繋がりもしたはずなのに、まだ初恋の感覚が残っている。
それはもしかするときみかさんや深瀬さんも同じで、ずっと接しているのに、執事長のことを大事に思っている証拠かもしれない。
なかなかうまくいかないな。僕は腕にしがみつく神様さんに少ししなだれかかった。
暗くなった夜道を街灯が照らし出す。満天の星空の下、きみかさんはどんな思いを抱えているのだろう。
そんなこと考えていても仕方ないか。僕はふう、と大きな息をこぼし、神様さんを振りほどくこともなく、人気の減った駅へとゆっくり二人で歩いていった。




