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リトルフォーチューン―あるいは引きこもりの妹の話であって―  作者: やまみひなた@不定期更新
3.5/ そして始まった夏のバイト生活
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3.5/5 微かに漂う暗雲

 その素振りが少し滲み出ているような、おずおずとした口調で彼女は深瀬さんに訊ねていた。

「あの、執事長とはどういうご関係なんですか?」

「部長が会社勤めしてた頃の最後の部下です。絵が下手くそなのに部長が最後の半年で我慢して使ってくれたから、今があります。簡単に言うなら私の運命を変えてくれた恩人です」

 照れや恥ずかしさなどまったく入っていない言葉で深瀬さんはさらりと呟く。その恩人という言葉は、口調よりも遥かに重くて、大切な思い出がたくさん詰まっていることを僕達に示唆してきた。

「深瀬、お前がうまくなったのはお前自身の力だ。俺は何もしてない」

「部長がマスターアップぎりぎりまで待ってくれたから出来たことです! 部長に怒られた時泣きたかったですけど、それでも私を成長させてくれました!」

 マスターアップ。ゲーム業界でよく使われる言葉だ。要するに制作中のゲームが生産工場に納品出来る状態になった時のことを指す。発売日の兼ね合いもあって、マスターアップの遅れは会社に大打撃をもたらす。それを彼女のために執事長は待ったという。と、僕は以前執事長に聞かされたマスターアップとは何かという話を思い出しながら、目の前にいる深瀬さんの笑う横顔を見つめていた。

 僕はちらりと横目できみかさんの様子を窺った。何だかいつもの明るさが少し消えていて、不安にさせる面持ちだ。

 執事長と昔話も出来て、真っ先に仕事に飛びついてくれる可愛い後輩。そして何度も振られてもここにいるということを選んでいるだけの自分。そんな対比が僕の中にすぐに浮かんで、いつの間にか言葉をなくしていた。

「イベント前には何回か開店前か閉店後にミーティングをするから。その頃には注文した服も出来上がってるだろうし、何とかなるでしょう。それじゃみんな、今日も一日お仕事お願いします」

「はい!」

 神様さんは一際高いテンションで声を上げる。一方のきみかさんはどう見ても作り笑いで薄ら寂しい声を上げていた。

 僕は誰の味方をすればいいのだろう。迷いが心の中を漂う。

 誰の味方もしないのが一番か。僕は布巾を手にもう一度テーブルを拭きにかかった。

「それじゃ部長、私納期迫ってる仕事あるんで、この辺で帰りますね」

「おうお疲れ。俺はカードゲームもソシャゲもやらないが、お前の画集が出たら一応買ってるぞ」

「はは、部長そんなこと言って、昔の部下の人達の画集全部揃えてるじゃないですか」

「……俺は嫌われ者だからな。少しくらい昔の部下の成長ぶりを見ることで自分の中に引っ掛かってる過去を払拭出来るかもしれないってだけさ」

 二人の会話は残された僕達の誰もが入ることが出来なかった。二人しか知らない過去がある。この優しさが溢れ出ている執事長がみんなから嫌われていたというのも、度々本人の口から聞いていたが、深瀬さんの笑顔を見ていると信じられなくなる。

 深瀬さんは深々と礼をしてシャッターが半開きになった店の扉から屈んで出ていった。

 彼女が帰ると、執事長は大きなため息をついて天井を見つめた。きみかさんは何も言わず、机や窓ガラスのチェックをしている。

「懐かしいなあ。あいつ、まだ結婚してないのか」

「あの、執事長とはどのくらいの間の関係なんですか?」

 僕は思わず訊ねた。執事長は笑いながらサイフォンのチェックをしていく。

「あいつが専門学校出て僕のいた会社に入った頃の付き合いだね。最初絵が下手すぎてなんであんなの取ったんだって人事に怒鳴り散らしたもんだよ。でも根性だけは一人前でね。絶対うまくなるから使って下さいって食い下がられて。それで半年間付きっきりで指導したのさ」

「それが今の人気イラストレーターの始まりですか……」

「あの頃の僕はあいつがそんな立場になるとは思ってなかったよ。でもあいつが成功したのを聞いて、嬉しく思ったさ。連絡は業界から離れてほとんどしなかったけどね」

 と、執事長は笑い飛ばす。でも、と僕はあまりにも疑問に思うことばかりで思わず執事長にそれこそ食い下がる勢いで質問を飛ばしていた。

「でも、ならどうして今回誘ったんですか? 付き合いなかったんですよね?」

「以前の町おこしの時のイベントに使った、別の昔馴染みのイラストレーターが、あいつが僕に会いたがってるって話をしててね。それで一度まだ仲のいい方の奴らとあいつを呼んで飲み会やったら仕事に使ってくれってあいつから頼まれたんだ。ギャラ高いだろうって思って最初は声もかけなかったんだけど、逆にあいつからしつこくメールが来て。それで仕方なく起用することにしたんだ」

「でも深瀬さんって凄い売れっ子イラストレーターですよね。ギャラとか……」

「そう、僕も無茶な額吹っかけられるかもって思ったんだよ。でも、あいつと話をしたら昔の恩があるからタダでもいいって。そりゃちょっと人道にもとるってことで、うちで出せるだけって約束したんだ」

 執事長はくすくす笑いながら、その話を楽しげに語る。昔の仲間が立派になった。それだけでも嬉しいのに、その成長した姿を店のために披露してくれる。

 僕は執事長のような立場に立ったことはない。でも、それが色々と嬉しいことであるのは鈍い僕でもすぐに気付いた。

「そうそう、あいつも気合い入れたイラストを描いてくれたよ。ほら」

 と、執事長はカウンターの脇に置いてあったクリアファイルを僕に見せてくる。

 前面、側面、背面、顔アップ、俯瞰、様々な角度でデザインされたイラストが並んでいる。男の子を描いたそれは、頭に狼のような耳が付いていて、眼鏡をかけていた。

「これ、深瀬が塚田君を見てイメージして描いたキャラクター。君にはこの格好でイベントの間接客してもらうよ」

「伊達眼鏡に狼の耳……」

「そう、ちょっと人をたぶらかす悪い人っぽくね。君の性格と正反対だから面白いと思ったんだ、頑張ってね」

 と、執事長は僕に微笑んだ。その様子を窺っていた神様さんが慌ててこちらへ駆けてくる。自分のイラストも気になるようだ。

「双葉君は犬をイメージしたものになった。当日は語尾にワンとか付けて、犬っぽく頼むね」

「尻尾スカートから生えてるんですか」

「そう。まあどっちにしろ下はいつも通りドロワーズだけどね。深瀬が言ってたよ、一番最初にインスピレーションが沸いたのが双葉君だったって」

 その言葉に神様さんは飛び上がりそうに身をよじらせていた。嬉しいのは確かなようだ。

 だが、その会話にきみかさんは入らない。あの人の思いは分かる。執事長が好きなのに、振り向いてもらえない。そして現れた、可愛くて昔一生懸命指導した部下の存在。僕ならここから去りたいほど、辛い思いをしているだろう。

 すると、きみかさんは振り向いて、執事長に真っ直ぐな笑顔を見せた。

「執事長、自分は悪人だったってずっと言ってたのに、随分慕われてるじゃないですか」

「人生半分以上過ぎて心を入れ替えただけさ。トータルで考えたらまだまだ悪徳の方が勝ってるよ」

「そんなことないです。執事長が素敵な人だから、あんな風に慕ってくれる後輩さんが来てくれるわけですし」

 きみかさんの笑顔が寂しい。いつも色んな人に愛想を振りまいているあの元気な姿からは想像がつかないほどだ。

 それに執事長は気付いているのか気付いていないのか、コーヒー関係の道具の手入れをしている。

 十二時になった。お客さんが入ってくる。するときみかさんは真っ先に飛び出して、「お帰りなさいませ!」と元気な声を出す。

 もし僕がきみかさんと同じ立場で、執事長にあんな人がいたって分かったら再起出来ないかも知れない。それでもお客さんに不安を微塵も感じさせない笑顔を見せられる彼女は本物のメイドさんだと思えた。

 イベントは深瀬さんが作ったデザインでお客さんと接する。

 空は夏特有の、薄い雲が少しかかった眩しい日差しに包まれている。

 僕は何をすればいいのだろう。

 初めて迎える、職場での悩み。その日、僕はただ、笑顔を作ってお客さんにリラックスしてもらうことに専念した。

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