3/43 そして、時は流れて(上)
それからの日々は、あっという間だった。
バイトは何にしようか迷った。ただこれも何かの縁と思い、以前の執事長の誘いに乗る形で、メイドカフェに執事として働かせてもらうこととなった。
流石に客のころとは違ってミスをすれば叱責されることもあったが、全体的に優しく、また神様さんが側にいてくれることで、僕の働く意欲は何倍にもなった。
店ではあの執事と神様さんが付き合っている、という話が働き出した当初から流れた。けれど、それもいつの間にか誰もが知ってる公然のこととなり、僕達の交際は逆にオープンなものに化けていた。
父には大きなことを言ったが、やはり最初は家事、勉強、ほぼ毎日のバイトという組み合わせは苦しかった。だがここでくじければ、神様さんを守ることなんて出来ない。その思いが僕の背を押してくれて、気力が尽き果てそうな日も何とか乗り越えられた。
夏休みに入ると神様さんと花火を見に行ったり、バイトの休日を合わせて、僕の家で二人で過ごしたりと、とにかく一緒にいられる時間を大切にした。でも無理をして一緒にいたわけではない。明日は休みだねと言えば、じゃあ明日は。そんなことを言える関係だ。いつも願っていた、思いが重なればいつでも側にいられる関係、そうなれたことが何よりの喜びだった。
受験の方は、農学部のある大学が偶然近隣にあったことが幸いして、僕はその大学一本に受験勉強を絞ることが出来た。受験が近づいてくると、バイト先でも休日でも、神様さんに電話、メール、常に笑顔で励まされ、やらなきゃというプラスの感情に働いた。
もちろん、高校の学費を稼ぐことは、楽ではなかった。それでも努力で切り抜けられると知ったことが、取り立てて何も自慢出来るもののなかった自分を成長させてくれた。今にして思えば、こんな日々を色んな人が乗り越えている。自分はまだまだ甘かったんだと痛感させられ、僕がそれを成し遂げられたのは、バイト先に僕の一番の思い人がいて、働く日にはその人と必ず会えたからだとしか言いようがない。
寒い大学受験の日、家からわざわざ赴いてきてくれた神様さんに受験会場の駅まで見送られ、僕は受験に向かった。
文系でやってきた僕にとっては、理系のそれは今ひとつ手応えが悪く、もしかしたら落ちたかとさえ思った。しかしその不安を晴らすかのように試験の一週間後、念願の合格通知が届いた。その時、右左を三年まで見届けるという目標に近づくことが出来て、ほっとした。やはり最初に目指していた、右左の三年間を見守るという思いは遂行したかった。それをやれるという結果がついたのは、ある意味神様さんとの関係と同じくらい嬉しいことだった。
神様さんは専門学校に行って、バイトを続けながらフラワーアレンジメントの勉強を始めた。僕も大学に進んだ後も、バイトを続けた。神様さん目当てではなく、僕目当てで来てくれる女性のお客さんなどもいて、世の中は広いな、と思い知らされた、そんな日々の中、僕は大学で花の勉強と開店資金を貯めるための日々を重ねていた。
そして、今。
「一宏、そのお花、後で届けておいてね」
「分かった。双葉は今日入った花に水やっといて」
僕達はそんな会話を繰り広げていた。
僕が神様さんを双葉と呼ぶようになって早二年が経った。
大学在籍中の頃だ。いつもメイドカフェで一緒にやっていて、お互いのこともほとんど知り尽くしている。でも、心の底から湧き上がる恋愛感情は薄くなるどころか一層強くなるばかりだった。
そろそろ、言わなきゃいけないかな。僕はある日、彼女をデートに誘い、何気ない体を装って街を歩いた。
その帰りに、僕は彼女の家の駅前で引き留めた。彼女は突然のことできょとんとしていたが、柔らかい笑みで「どうしたの?」と訊ねてきた。それはまるで、告白したあの日に似ていた。僕は「ちょっと聞いてほしい話があるんだ」ととぼけた振りをして、彼女の目を見据え、静かに自分の中にある「神様さん」ではなく「二宮双葉」への思いを彼女に告げた。
「神様さん……ううん、双葉、こういう呼び方するの初めてだね」
「何? そろそろ呼び方変えたくなったとか?」
彼女はおかしげに笑う。でも僕は、真面目な顔を崩さず、静かに彼女に思いを告げた。
「呼び方を変える話をしたくて、今日デートに誘ったんじゃないよ。もっと、重要なこと」
「……その、どうしたの? 顔つき硬いけど……」
神様さん、いや、双葉の顔つきは僕の言葉を把握出来ない不思議そうな顔だった。ここで言えなきゃ、一生言えない。僕は覚悟を持って、双葉の手を握った。
「双葉と出会って結構時間経ったよね」
「そうだね。初めて出会った時、こんな関係になるとは思ってなかったな」
「それで、今日もずっと一緒にいた。だけど、もっと側にいたいってずっと思ってた」
「一宏君……?」
「僕はもっとあなたと側にいたい、そんな関係になりたいです」
「え……それって……」
「僕が双葉のことを好きだっていうのは、伝わってると思う。でも僕の中にある双葉のことが好きっていう全部の気持ちをもっともっと伝えたいんだ」
双葉は僕の言いたいことがようやく飲み込めてきたのか、目を皿のように丸くして僕の瞳をじっと感情が抜けたように見つめ返していた。
僕は手にしていた双葉の手を優しく包んだ。そして一歩前に出て、双葉に微笑んだ。
「あなたと毎日時間を共有したいんです。何分でも、何時間でも。あなたと出会ったことが、僕の人生を大きく変えた。神様だったってことが、あなたと知り合うきっかけだった。でも僕が好きになったのは、神様さんとしてのあなただけではなく、一人の女性、二宮双葉としてのあなたなんです。お願いです、僕と結婚して下さい」
「嘘……そんなことって……」
彼女は僕の言葉が信じられないとばかりに、その特徴的な大きな目を、より大きく開いて無言になっていた。
双葉に今日言うまで、僕はずっと緊張し続けていた。結婚自体は半年ほど前から考えていたことではあった。でも、いざこうして形にしてみると、やっぱり照れくさい。
僕は笑顔を浮かべ続けながら、彼女に語りかけた。
「嘘じゃない、本当。その、指輪はこれからだけど、結婚式のお金とかも貯めてる。駄目かな」
「そんな……駄目じゃないよ。でもこれ……本当なの? 嘘じゃないよね?」
「こんなこと、嘘で言えないよ。……双葉、もう一度言うね。僕と、結婚して下さい」
僕は深々と頭を下げる。思えば恋人になってほしいと告げたのも、この駅前だった。あれから何年かが経ち、また僕はこの駅の風景の力を借りて、彼女に願いを告げている。
僕は彼女を見た。彼女は嬉しそうに相好を崩しながら、大きな涙をぽろぽろとこぼしていた。
「……すごく嬉しい。一宏君みたいな人が私と結婚したいなんて言ってくれるなんて……私の方がそれを言いたいのに。あの、私もあなたに出会って運命が変わりました。あなたとこれからも、これから先もずっとずっと一緒にいたい。あなたの側でずっと歩いててもいいですか?」
「はい、あなたが僕を見限らない限り、僕はずっとあなたの側にいて、あなたを支えます」
「……ありがとう。あなたと結婚する道を、私は選びます」
付き合っている。でも結婚はまだ早いかと思った。だから、受けてくれないと思っていた。だからこそ、受け入れてくれた時の喜びは一入だった。
何より嬉しかったのが、彼女が僕のその言葉を受け入れてくれたのを、あれだけ今までなじってきた父や母も祝福してくれたことだろう。その時、僕と父や母、そして右左は本当の意味であの日に崩壊した家族の形を取り戻せた気がした。離れているけど血の繋がった家族、そして新しく迎える大切な人で作り上げた家庭の形。双葉は「何だか、大変だったもの、ようやく終わったんだね」と笑っていた。僕は少し涙をこらえながら、大きく笑って「ああ」と答えた。
下らない話といえば、結婚式で、高校以来の双葉を見た野ノ崎は驚いたような顔をしていた。曰く「あんな美人だったか?」と。顔つきはまったく変わってないのに、野ノ崎の言い分は僕と双葉に失笑を寄こしていた。
僕達の結婚はいわゆる出来婚ではなかった。ただ一緒にいる時間が長くて、僕が早く双葉に自分の思いを伝えたいという、僕のわがままから始まった結婚だった。双葉が「ちょっと早いかもしれないけど嬉しい」と言ってくれたことで、僕は救われた。
結婚して大学を卒業し、遂に夢だった花屋を開店することになった。その時、僕と双葉は同時にメイドカフェを辞めた。そもそも働いているメイドと執事が夫婦というのも、店にとってはあまりプラスではないと考えていたのに、雇い続けてくれた執事長には感謝しかなかった。
最後まで店にいたきみかさんも、執事長にしっかり頭を下げ、一つの恋愛に区切りを付け、長らく務めたメイドカフェを去っていった。執事長が微笑みながら発した「さみしくなるけど、これもまた、人生の妙だよ」という言葉は今でも心に焼き付いている。メイドも執事もいなくなったあの店は、今は普通の純喫茶としてかつての執事長が穏やかに一人で営業している。それでもそれなりに賑わっていると聞くのだから、さすがだと思い知らされる。
二人で開いた花屋はすぐにうまくいったわけではなかった。最初の方はなかなかお客さんが来てくれず、一日の客が一人二人なんて日も珍しくなかった。流石にこのまま無理なのかなと二人で落ち込んだ時もあった。それでも双葉と僕は食卓でお互いの顔を見ると、まだ頑張れるよねと自然に声が出た。その気持ちが花やお客さんに伝わったのか、いつの間にか日常で使う花、花束など色々なものを買ってくれるお客さんで少しずつ店が賑わうようになった。今では店が順調過ぎるほど順調にいっているのが、少し怖いくらいだ。
僕と双葉は結婚してすぐの頃は、双葉の家で生活していた。だがそんな事情を知った父と母が、僕の住んでいたあの家を「店をやるのに家賃がかかったら勿体ないだろう。二宮さんにも迷惑だ」と言って僕と双葉に譲ってくれた。その頃は右左も一人暮らしを始めていて、丁度誰も家には住んでいなかった。もちろん登記を変えたわけではなく、あくまで母の持ち物である家に僕と双葉が居住している、ということである。ただ家賃の出費があると、生活していく上で、大きな負担になる。それがゼロになるのは大変ありがたかったし、思い出深い家で双葉と共に同じ部屋で生活するのは、何日経っても新鮮さを与えてくれる。




