3/42 家族に戻る日
夏休みに入って三日目。
僕は電話をかけていた。側には右左がいる。その中でかけた相手というのは、この世界で一番嫌いな父だった。
仕事の都合で、夜にしか電話は出来ない。だから、メールで「夜に電話を待っています」と送っておいた。
「……兄さん、大丈夫でしょうか」
「何とかなる。右左だって、転校するの嫌だろ。そのことはしっかり伝える」
僕達は、不安を共有しながら電話を待った。
夜九時を越え、眠気が少しずつ襲ってきたその時、電話が鳴り出した。
「右左、電話かかってきた。代わるかもしれないから、気を付けてな」
と、僕は右左に注意をしながら、電話に出た。
「一宏、何の用だ」
電話越しに気怠そうに出たのは、やはり父だった。
今日の電話に全てがかかっている。僕は少し黙って、深呼吸した。
「引っ越しのことについて、話をしたくて」
「……なんだ、そんなことか。まだ引っ越ししたくないって言うのか、お前は」
「僕だけじゃないです。右左も今の学校がいいって言ってます」
僕が反論すると、父はまたもや気怠げに答えた。
「お前はともかく、右左は一年だ。二年半もあれば充分別の学校に馴染むと思うがな」
「それでも、右左は今の学園でたくさんの思い出、知り合い、色んなものを得ました。ずっと何もなかったあなたには分からないかもしれませんが」
初めて漏れるような、父をなじる言葉。それを聞くと、父は少しいらっときたのか、声のトーンを落として僕に反論してきた。
「一宏、進路が決まったって聞いたぞ。農学部に進むなんて、まったく予想がつかなかった」
「……それも、大切な人のためです」
「大切な人、大切な人、お前の人生はどこにあるんだ!」
父が怒鳴ったのはどのくらい久しぶりだろう。僕は声の迫力より、その懐かしい思い出に遠い目を見せていた。
「父さん、一つ聞きたいです。僕に好きな人が出来るのは駄目ですか」
「……そうとは言わん」
「僕はあなたと一緒に住んでいた時、自分の人生なんてなくてもいいと思っていました。でも今は違う。大切な人が、この世界にいるんだと知らされました。僕は弱いです。でもその人も弱いです。だから、支え合って一緒に微笑みたい、そんな幸せもあなたは潰すんですか」
僕はとつとつと語る。父はいらついているのか、時折無言になる。
僕は右左に電話を渡した。右左は緊張しながら声を発した。
「あの、お父さん、右左です。私、やっぱりこの街を離れたくないです。以前言ったことと違うじゃないかって言われそうですけど、私はこの街でやり残したこと、たくさんあるんです」
右左はそれだけを告げ、もう一度僕に電話を返した。
「……父さん、僕が引っ越しに応じない場合、学費を一切出さないって言うのは本気ですか」
「ああ、本気だ。そうでもしなきゃ家族四人で集まることなんてないからな」
「……はっきり言います。僕はそうされても、この街に残ります」
僕の言葉に、父はまたもや無言になった。それが信じられないというような、固唾をのむような音が聞こえた気がした。
「僕は大切な人と話をしました。もし学費を出してくれなくなったら、家に居候すればいいと。学費はバイトして稼いで、生活費は大学に入ってから返せばいいとありがたい言葉をもらいました。でもそれは、その人の側にいてほしいという言葉なんです」
「……一宏」
「父さん、もう分かりますよね。僕達は家族です。顔を突き合わせなきゃ分からないような関係で、僕達は繋がってるんですか? 一番大切だった頃にすれ違ったことは悲しいと思います。でも、今でも僕も右左も、父さんも母さんも家族です。どうしても切り離せません」
僕の真剣な言葉に、父は反抗ではなく、静かに聴き入っていた。
僕はそのまま静かに、心の中にしまっていた家族への憧憬を語った。
「家族でいられること、それは幸せなのかもしれません。でも、家族だって更に分割したら一人一人の個人に帰ります。右左も僕も、その個人として大切な時期に今差し掛かってるんです」
僕がそういうと、長い沈黙が走った。そして、静寂を切るように、父が口を開いた。
「……一宏、今付き合ってるって子と、将来結ばれたいという気はあるのか。一時の気の迷いか。それは聞いておきたい」
「変な話ですけど、運命で繋がった人です。付き合い始めたばかりですけど、結婚して、僕が老人になっても支えたいと思っている人です」
「大学の学費は出してやる。だが、お前の高校の学費を出さないと言っても、お前はさっき言ったような道を歩めるのか。今までずっと仕送りで生きてきたお前が」
「父さん、おかしな言い分かと思いますが、今までそれで僕は甘えていたのかもしれません。もし働くってなったら、成績は落ちるかもしれませんけど、自分が見たことのない世界を見られるかもって思っています。それはそれで、いい人生だなって思うんです」
僕がそう告げると、父は無言を貫いた。
「一宏、俺や母さんのところに右左も連れてくるなら、将来は保証されたも同然だぞ。右左だって一流企業に入れる、勿論お前もだ。お前は農学部に行って何をしたいんだ」
「僕は好きな人と一緒に花屋さんを営むつもりです。……済みませんが、大企業に勤めたいとか、そういう気持ちは生まれてこの方一度も持ったことがありません」
僕が淡々と返事すると、電話の向こうから小さなため息が聞こえた。
僕は右左に電話を渡す。右左は上ずった声で父に必死に叫んでいた。
「あの、私今学校でとっても充実した日々を過ごしてるんです。……一年前の自分だったら潰れてた環境が、とっても愛おしくて、温かくて。だから、引っ越しなんて嫌です」
右左はすぐに僕に電話を返す。僕はおもむろに父に告げた。
「父さんが僕の将来を思って道筋を作ってくれたのはありがたいと思います。でも、僕は生まれて初めて、父さんの言うことじゃなく、自分の生きたい通りに生きるという感情を覚えました。……あの人と会わなかったら、僕は人の心が全く分からない冷たい人間のまま終わったかもしれません。だから、何よりあの人を大切にしたいんです」
僕が淡々と告げると、電話の向こうの父の声が途切れた。
何を言いたいのだろう。説得の言葉か、恫喝か。
そんな僕の思いと裏腹に聞こえてきたのは、父のすすり泣くような声だった。
「……そうか、一宏。お前、そんな感情を覚えたんだな」
「……父さん?」
「……お前、ようやく一人で生きる決意、人のことを思う気持ちが出来たんだな」
「え……」
「俺は今まで、お前が道を見誤らないように、必死にレールを敷いてきた。それが本当の意味でお前にプラスにならないって分かっていた。ただお前が俺に見劣りしないような立派な肩書きを持つ人間になれるように、そう思いながら、お前の人生の道筋を付けてきた」
電話の向こうの父は、必死に涙をこらえながら、僕に静かに語りかけた。
「右左のことだって、お前が何とかすれば大丈夫だと思っていた。事実そうなった。俺のやり方が正しい、そう思っていた。そう思っていた裏で、お前が人間らしさを失ってることに、見て見ぬ振りをしていた」
「父さん……」
「そんなお前に好きな人が出来た、そう聞いた時、ただ単によくある学内恋愛だと思っていた。でもお前は違った。自分の生涯を懸けたい、そう聞いた時、信じられない気になった。一時の気の迷いとさえ思った。……一宏、今更だが、立派になったな」
父はその言葉を呟くと、嗚咽を漏らしだした。
僕はその時分かった。父は強い人だと思っていた。僕の人生の道筋をつけ、強い権力を見せつける人だと思っていた。
でも、この人はこの人なりに、僕の人生を幸せなものにしたいと思っていた人だったのだ。
「父さん、僕はどうすればいいんでしょうか」
「お前が本気で学校に残りたいなら、バイトしながら学校に通え。家から追い出すとまでは言わない。右左の世話もしながら、バイトで学費も稼いで、恋愛もする。そこまで行けるなら俺はもう何も言わない。大学も好きな学部へ行け。やれるのか、一宏」
「……やってみせます。父さんの子ですから」
僕が微笑んで告げると、父のくすりと笑う声が聞こえた。
「そうだな、俺も若い頃は無茶ばかりしてた。その俺の血を引いてるんだ、お前が無茶なわけがなかったな」
「……成績も今ぐらいを保ってみせます。父さん、最後になりましたが、頑張ります」
「ああ。引っ越しはなしだが、飯くらいたまには家族四人で食べような」
父は最後にそんな言葉を残して、電話を切った。
電話が切れた後、右左が僕の顔を覗き込んできた。
「……兄さん」
どうかしたのかな。僕は右左をじっと見つめていた。その時僕は気付いた。頬に涙が伝っていた。
今まで否定しかされなかった父に、条件付きで認められた。でも、それは大きな一歩で、ありがたいことだった。
僕は右左の頭を撫でた。右左はそんな僕を心配そうに見てきた。
「右左、引っ越しはなくなったよ。僕はバイト生活になるけど」
「兄さん、夕食とかお弁当とか……」
「それも全部する。全部こなして、父さんにこの道が間違ってなかったって示す」
僕の力強い声に、右左は何も言わず、同じように泣き出した。
僕は右左の涙を見ながら、ようやく家族が一つになれたと思えた。
一緒にいるのが家族じゃない。離れていても、思い合えるのが家族なんだと。
遠距離恋愛は否定的なのに、家族はそれでいいなんて、なんて都合のいいダブルスタンダードだと自分でも思うが、やっぱり好きな人の側にいたい。
夏が始まった。色々ある季節が、始まった。
神様さんを失望させないために努力する日々が、ようやく始まったと言えた。
これから大変になる。でも、神様さんが側にいてくれる。それが僕に勇気を支えてくれた。




