3/35 心の離れる音
右左は最近、僕と共に登校しなくなった。弁当を置いておくと、それを取って一人で学校に行くという感じだ。
食堂でも昼食を共にしない。野ノ崎やミミから何かあったのかと訊ねられるが、それを相談することも出来なかった。
「右左、ビーフシチュー作っておいたから」
そう声をかけても、夕方の部屋からは声は返ってこない。仕方ない。僕は黙って家を出た。
今日はメイドカフェに行く。その帰りに神様さんに引っ越しの話の相談をしようと思った。
電車に乗る脚が妙に重い。強気に見えて、実は弱気な性格、そんなのは自分が一番知ってたはずなのに、どうしてかそれを意識してしまう。
いつもの駅に着いて、慣れた道を歩く。
「お帰りなさいませ!」
扉を開くと、神様さんが明るい顔で声をかけてきた。と、それが僕と分かると顔を真っ赤にして、こっそり服の端を引っ張ってきた。
何だかこうされるのは、少し恥ずかしい。でも嬉しさの方が勝つ。僕は案内された席に着いて、メニューを眺めた。
家に帰ればビーフシチューがある。でも誰かに作ってもらったものを食べたい、そんな微妙な気分だった。
「ご主人様、何かご所望ですか?」
「ハーブティーとシフォンケーキで」
「分かりました」
と、彼女は奥に行き、オーダーを通していく。それからしばらくして、僕のスマートフォンが震えた。
「あと一時間もしたら店を出るから、それまで待っててね」
その文面が、以前よりも近さを感じさせる。僕が見捨てていったことなんてないじゃないか。
……見捨てて行くのだろうか、僕は神様さんを。そんなことはない。そう思っていても、右左の一緒にいたいという言葉が胸をざくりと刺す。
シフォンケーキとハーブティーが運ばれてきた。運んできた神様さんはにっこりと僕の顔を覗き込む。だが僕は、その顔に明るい色を見せることは出来なかった。
「ちょっとだけ待っててね」
「……うん」
そうして彼女は仕事に戻っていった。神様さんはしっかり自分の夢に向かって、お金を貯めたり働いたり、一生懸命動いている。僕は何をしただろう。右左を守る。掃除をして、弁当や夕食を作る。それのどこが右左を守ることになったのか?
自分の弱さがあまりにも情けなくて、今にも泣き出しそうな思いに駆られた。
一時間が経ち、神様さんが奥へ引っ込んだ。僕は会計のために席を立った。会計をするのはここのもう一人のメイドさんであるきみかさんだ。
「あの、双葉ちゃんと何かありました?」
「あ……分かりますか」
「双葉ちゃん、店の開店前に嬉しいことがあったってこの間言ってたんで。それで、ご主人様と何かあったのかなと思いまして」
僕は軽く笑った。すると彼女も頭を下げてきた。
「双葉ちゃん、思ったよりも弱い子ですから、ご主人様が精一杯守ってあげてください」
その言葉が今は辛い。まだ別れるなんて決まったわけじゃないのに、どうしてこんな思いになっているんだろう。
僕はとぼとぼとした力ない脚で外に出た。
「お待たせ」
店の影に隠れていた神様さんに、僕は声を掛けた。すると彼女はぴょんと飛び出し、店の前だというのに僕の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「お店来てくれて嬉しかった。やっぱり、大切な人に見られながら仕事するのって、気持ち入るから」
「そう。それだったらよかったんだけど」
と、僕がとつとつと話すことに、彼女は何か異変を感じたのか、少し疑問めいた目で僕の目を覗き込んだ。
「大丈夫? 調子悪いの?」
「そういうわけじゃないんだ。でもちょっと、神様さんに相談したいことがあって」
僕の目はすでに少し潤んでいた。こんな調子で引っ越しの話なんて出来るのか。僕は自分を笑いたくなった。
「どうかしたの?」
「……親から連絡があったんだ」
「お父さんとお母さんから? 何かあったの?」
「……引っ越しして、家族四人で生活しないかって」
それを呟いた瞬間、神様さんの声もなくなった。
「僕は嫌だって言った。神様さんの事だって言った。でも、妹がこの街を離れたいって言った。……神様さんじゃなくて、自分だけを見てくれる兄が欲しいからって」
僕の告げた一言で、神様さんは黙りこんだ。僕はそんな彼女を不安にさせたくなくて、空笑いを浮かべながら彼女の手を引いた。
神様さんはこれからのことが怖いのか、僕の腕にしっかり組み付いてくる。
でも、言わなきゃいけない事はいくつもある。僕は気の利いたことが言えず、ただ淡々と事実を列挙していった。
「遠距離恋愛なんて嫌だ。そう言ったら、遠距離恋愛も出来ないくせに恋人を続けられるのかなんてなじられてさ。それでも嫌だって言ったら、生活費も学費も出さないって。ひどいよね、自分の子供にかける言葉じゃない」
僕は笑った。神様さんは、俯いたまま黙り込んでいた。
僕はおもむろに神様さんを抱きしめた。神様さんはそれに返すように、僕の体に腕を巻き付けた。
「引っ越し、か。大変だね」
「まだ決まったわけじゃないよ」
「でも、もう道は決まってる気がする」
神様さんは少し顔を上げた。はにかんでいるようで、その実寂しさの溢れた目元を見せていた。
「……引っ越しした方がいいんじゃないかな」
腕に絡みつく強さが、弱くなった。その瞬間、ふいに漏れた一言、それに僕は絶句した。
「だって、今まで家族で揃ったことがないんでしょ? 妹ちゃんだって素敵なお兄さんのきみを求めてるんだよ?」
「で、でもそうなったら神様さんと遠距離恋愛になるし……」
「きみが一人暮らし出来るような人だと思えないな」
神様さんの声は、足下に向けて発せられた。
「あのさ、神様さんは知らないかもしれないけど、昔父親と生活してた時、自分で炊事洗濯してたし――」
「でも、今度は誰の援助も受けられないんだよ? 援助だけじゃない、家族からの理解だって」
神様さんは困ったように口元だけ緩め、そう語る。だけどその目は嘘をつけなくて、今にも泣きそうな予感を漂わせていた。
「お父さん、お母さん、妹ちゃん、そのみんなが、私ときみが合ってないって思うんだったら、それはそれで仕方ないのかもしれない。ほら、私そもそも中卒だし」
彼女は作ったような上向きのトーンで軽く話す。そんなこと、何の関係もない。あなたが一番大切だ。そう言いたいのに、涙が零れだした彼女の顔を見て、僕はただ虚脱を覚えていた。
「生活費も何もかも出してもらえないのに、生活するのは無理だよ、やっぱり」
「それでも僕は……!」
「……きみは素敵な人だよ。どこに行ってもモテると思う。だから、私を忘れてくれたっていいんだ。私はね、この間、大切な思い出もらったし。だからその、きみは自分の家のことを考えて。妹ちゃんを支えるんでしょ?」
神様さんは顔を上げて笑っていた。笑っていたけれど、頬を涙が伝っていた。
僕は、振られた。いつもの父と母の気まぐれで。
でもその怒りより、神様さんに何も言えない自分の無力さにただ嘆くばかりで、何の言葉を掛けることも出来ない。
神様さんは僕からゆっくり離れていく。そして、距離を取ると、手を振ってそのまま駅まで走っていった。
僕が見ていた未来って、こんなのだったのかな。そうじゃないと思ってたのに。
右左を大切にしたいと思ったのは確かだ。でも、その右左の姿も見たくない。
僕は自分の手のひらを見た。まだ神様さんのぬくもりが残っている。
これで終わりなのかな。僕は暗くなってきた空を見上げながら、瞼を静かに閉じた。
一番大切にしたい人から別れを切り出されるのがこんなに辛いことだったなんて。僕の知らなかったことが、また体に突き刺さる。
一旦家に帰ろう。僕の脚は、千鳥足のように、弱くてふらついたものだった。




