3/34 裏切ったのは誰?
昼休み、右左は食堂に来なかった。野ノ崎は気を遣っているのか、神様さんの話をしない。ミミも同じくだった。
自然と進路の話になる。その時、僕の頭の中に「引っ越し」の言葉が蘇ってくる。
右左がせっかく勇気を振り絞ってこの学校に帰ってきたのに、場所を変えたらまた右左が引きこもるとか考えないのか?
あの人達に常識を求めても無駄だ。僕は何もないような姿を装って、ただひたすら時間が過ぎるのを待った。
結局家に帰るまで、右左の姿を見ることはなかった。教室も見に行ったのだが、右左は珍しく外に出ているという話だった。
家に帰って、様子を見る。照明が付いてるところからして、右左は帰宅しているようだ。
僕は右左の部屋の扉をノックした。すると右左が部屋からすっと出てきた。
「右左」
「兄さん、何か聞きたい事があるって顔ですね」
「ああ。今日土川先生に聞いた。引っ越しってどういうことだ」
僕が強い語気で話すと、右左は少し視線を逸らしながらぽそりと呟いた。
「お母さんからメールが来たんです。再婚は私と兄さんのことがあるから、もう考えてないけど、家族として四人で生活するのは悪くないかって。この家を売って、有名な大学に楽に通えるような場所に引っ越しするのはどうかっていう内容でした」
話は分かった。だが僕は腑に落ちない。僕は黙って右左の目を見た。右左は僕から視線を逸らして、左の二の腕を右手で掴んでいた。右左が苦い感情になっている時にする、いつもの癖が出ていた。
「右左、右左はその話をいいと思ったの、悪いと思ったの」
「もうこんな機会なんてないと思ったから、前向きに考えますって返答しました」
「……違うだろ」
「……分かりますか」
「ああ。僕が二宮さんと付き合ってる、そのことが嫌なんだろ、右左は」
僕の怒りを孕んだ言葉に、右左は悲しげに薄く笑いながら黙った。自分が悪女であるという自覚はあるのだろう。
「右左、僕が右左を裏切ったのは分かる。でも右左は今この街で、この学園でしっかりやってるじゃないか。それを全部捨てることになるんだぞ」
「それでもいいです。兄さんが私のところに帰ってきてくれるなら」
「……右左」
右左は顔を上げた。その大きな瞳に涙を浮かべながら。その姿に僕はしばらくの間言葉を失っていた。
「兄さんはこの街に帰ってきた時、私を守るって言ってくれましたよね? でも今は、二宮さん、二宮さん、そればっかり。休日も二宮さんのところに行って……」
右左はそれを言うと、思いきり泣き出し、僕の胸を強く叩いてきた。嘘偽りは意味がない。僕は右左に静かに返答した。
「右左の想像してる通りだ。僕はもう、あの人のものなんだ。右左、僕は引っ越しなんてしたくない」
「兄さんはそう言うと思ってました。……でも最近の兄さん、本当に私のこと考えてくれてました?」
その言葉が胸に突き刺さる。確かに炊事や洗濯なんていうことはしていた。でも気持ちは右左の方に全然向いていなくて、神様さんとどんな日を過ごそうか、そればかりを考えていた。
右左は唇を噛みながら、僕から視線を逸らす。僕の中の罪悪感もどんどん強くなり、次第に僕は告げる言葉を失っていた。
「私は、兄さんに、私だけの王子様でいてほしいんです」
「……右左の、王子……」
「兄妹です、私たちが結ばれる方法なんてないです。でも、知らないところでひっそり暮らして、私と一緒に生きていくのは駄目ですか?」
そんな方法、僕は望んでいない。だがそれを口にすると、右左が完全に塞ぎ込み、また家に閉じこもる生活に戻りそうで、何も言えなかった。
右左は僕から一歩退くと、その涙目で僕を直視し続ける。僕はその目がとてつもなく嫌で、そっと視線を逸らして体を少し反対側に捻った。
それ以上右左に何か言う気持ちもない。僕は黙ったまま部屋に入った。
スマートフォンを手にし、こちらからメールを送ったことのない人にメールを送った。
父だ。
『引っ越しってどういうことですか』
その一文だけで全て分かるだろう。僕は黙って夕食の準備に取りかかった。
右左を大切にしてきたつもりだ。でも神様さんが現れたことで、僕は右左にかける熱量を失った。
右左は一人でも何とかなる。それは僕の幻想だったのだろうか。クラスメイトに勉強を教えて、周りから愛されている右左は、僕がいないだけで不幸になってしまう少女なのか。
何もかもが分からなくて、僕はベッドを一度殴り付けた。
食事の時間になっても、右左はダイニングに来ない。あんな話をした後だ、会話を挟む食事に顔を出しにくいだろう。僕は料理を並べておいて、自室に戻った。
スマートフォンに着信のランプが灯っている。僕は慌ててそれを手にした。父からだ。僕は逸る気持ちを一生懸命抑えながら、電話を掛け返した。
「済みません、一宏ですが」
「ああ、一宏、何だあ?」
父は飲んで来たのだろうか、若干ろれつの回っていない声で僕の電話を受けた。
こんなのが、引っ越しの話を進めているなんて、正直腹立たしい。だが僕は我慢して、父に向かって事の真相を聞くことにした。
「あの、引っ越しをするって右左から聞いたんですけど」
「ああ……それか」
その言葉が漏れた瞬間、酔いが覚めたように呟いた。
「また気まぐれで決めたんですか」
「いや、今回は真面目に母さんと話し合って決めた。右左の成績がいいなら、近い未来のことを考えて、どこか通学に便利な場所に引っ越ししようってな」
父の声は力強かった。否定を許さない、僕の大嫌いなあの声だ。
「父さん、あなたは何も知らないかもしれないですけど、右左は今の学校で周りとうまくやれています。それなのに、それを崩す気ですか?」
「……右左も同意した話なんだがな」
「それは知っています。でも止めるのも親の仕事でしょう!」
僕は珍しく叫んでいた。この人はいつも僕を振り回してきた。もし僕がこの街に居続けたら神様さんともっと早くに知り合って、彼女に辛い思いをさせなかったかもしれない。そんなことも知らず、厚顔無恥を晒すこの男に、僕は腹が立って仕方がなかった。
「一宏、お前こそなんだ。右左を大切にする、そう言っていたくせに右左は辛そうにしてたぞ。お前は何になりたいんだ。右左の保護者か? それとも保護者面した他人か?」
「どっちにもなりたくないです。右左はもう、僕の知ってる弱い楠木右左じゃない。もし引っ越しってなったとしても、僕は意地でもこの街に残ります」
「それは構わないが、そうした場合、生活費も学費も、一切出さないからな。外の社会に出たことのないお前にそれが耐えられるか」
父は「親が言ってはいけないこと」の一番きついことを言ってきた。こうやって子供を金銭で縛る方法は、権利の乱用だ。
それでも僕は残る決断に全てを懸けた。右左が一人で生きていけるなら、もう僕はいらないはずだ。僕を必要としてくれている人の元で生きる、それが僕の生き方だ。
「あなたがどんなことを言って脅しても、僕はこの街に残ります」
「……右左から聞いた。女が出来たんだってな」
僕は沈黙した。右左は口が堅いと思っていた。それなのに一番知らせなくていい父や母にそのことを教えていたことが、大きな失望をもたらしていた。
右左は本気で僕と神様さんを引き離すつもりだ。大切な妹、その感情は変わらない。だからこそ僕は今、この心の中に苛立ちと悲しみの入り交じった焦燥を覚えているのだろう。
でも、ここで怯んでいては、将来神様さんを紹介するなんてことは出来ない。僕は真っ直ぐ自分の偽らざる気持ちを告げた。
「ええ、そうです。愛している人です」
「そうか。そのために街に残るというわけだな、お前は」
「それの何が悪いんですか」
「悪いとは言わん。だが遠距離恋愛もこなせないような人間が、いつまで結びついていられるのか疑問だと思ってな」
相変わらず嫌味だけは上手い。僕は神様さんを側で見たい、側で支えてあげたいと思っている。それにもし僕が離れたことで、他の誰かに心変わりするのも怖い。だから、僕はこの話を徹底的になかったことにしたかった。
「僕のせいで遠距離恋愛になるなら必死になりますよ。でも、今はあなた達の事情じゃないですか。いい加減、僕や右左で遊ぶのをやめろ!」
僕の怒号に、父は黙った。
しばらくの沈黙の後、父は僕に淡々と語りかけてきた。
「お前が付き合いだした子を大切にしたいってのも分かる。だけどな、右左や母さん、父さんがどれだけ家族の形を作りたかったか、お前は分かるか」
「あんた達が勝手に潰したんだろ……!」
「そう、勝手に潰したのは俺達の方だ。でも、この歳になって、金や名誉よりも一緒に暮らすってのが大事に思えてきたのも確かだ。まあ一宏、今日のお前は頭に血が上ってるみたいだから、電話はこの辺にしておく」
そして、通話は切れた。一方的な言い分を残して。
僕はベッドの上に寝転がった。これ、神様さんに相談しなきゃいけないことだよな。そう思っても、電話をかける力が出てこない。普段あんなに雑談してるのに。
僕は右左を裏切った。だから右左は裏切り返した。
あの日、この家に神様さんを連れてきた時、右左が不機嫌そうな顔をした時点で僕は察するべきだったのだ。それを出来なかった、僕の愚かしさが生んだ事とも言える。
右左がこの街がいいと言えば、このままこの家で暮らし続けることも出来ただろう。だがその最大の協力者になるはずであった右左は、この街を捨てることを選んだ。
うまくいかない。僕は真っ白な天井を眺めて、涙を流しながら空笑いを浮かべた。




