人生って何だろうね
僕は夕食の材料を買い込みに、日曜午後三時の間怠い空気をまとった街へ赴いた。
休日という魔法の時間もあとわずかで解ける。その余韻に浸るように、あくびをしたりカップルで腕を組んだり、十人十色の光景が見て取れる。
僕はというと、恋人ではないが大切な人間に変わりのない右左のことをひたすら考えていた。
今の右左を支配するもの、それは罪悪感だ。根が真面目なせいもあるのだろう、右左が自分で選んだはずの学校を休むという選択肢が、右左自身を苦しめている。生活リズムは確かに狂っているきらいはあるが、ネット漬けやゲーム漬けではなく、ただ黙々と家で自主勉強に励む辺り、僕は右左の生き方を嫌いになれない。
右左の幸せ。簡単な言葉が異様に重たい。
右左にはなりたいものがあるのだろうか。そんなものなんてない僕に、それを想像するのはちょっと無理だった。
右左は誰かと付き合ってみたいとか思うのだろうか。そんなことをしたことのない僕に、それを想像するのはちょっと無理だった。
右左が今一番心待ちにしているのは何だろう。僕は右左じゃないので、それを想像するのはちょっと無理だった。
結局僕は、右左のことを何にも知らないまま、やれるという根拠のない自信でここまで来た。それはやはり根拠などどこにもない自信だったと右左の曇った笑顔を見て思い知らされた。
とりあえず食事を共にして、会話をするところから始めなきゃいけないか。スーパーへと赴く僕の足が、鉛のように重くなっていることに気付いた。
「あれ? カズくんだ!」
聞き慣れた呼び方に、思わず周囲を見回す。視界から丁度消え去る角度の曲がり道からミミが手を振っていた。
僕が少し立ち止まっていると、ミミはすぐさま駆けて僕の元へ寄った。苦笑する僕を尻目にミミは僕の横につく。
「何してたの」
「休みだから色々。甘いもの食べたり、可愛いもの見てたり。カズくんは?」
「夕食の買い出し。今日の夕食何にするか悩んでるんだよ」
適当に、とってつけたことを言ってみる。ミミは素直で嘘をつかれるということを知らない少女なので、すぐさま僕の言葉を信じた。
「よし、じゃあ私もスーパーへ行くぞ!」
「いいけど、用事は?」
「一人でぶらぶらってしてただけだから大丈夫だよ」
そっかと僕が笑むと、ミミも満面の笑みで答えた。
僕はミミと共に、スーパーへ入った。スーパーのテーマソングのリズムに、行き交う人々の足が合わさっているような幻想に囚われる。
考えてみれば、この街で僕のことを知ってくれるようになった人は増えた。右左のことを知っている人もたくさんいる。でも右左と僕が一緒に生活していた昔を知る人は、ミミや野ノ崎くらいだ。
「カズくん考え込む顔が多くなったなあ」
スーパーで野菜を見ていると、ミミが苦笑いしていた。そうだろうかと僕が首を傾げてみても、ミミは何度も頷いて肯定を促す。
「妹さんとうまくやれてる?」
ミミが僕に訊ねた。僕はそうだな、ともったいぶってから、ああと返答した。
「妹さん可愛いもんね」
ミミが右左のことを知っていると仮定して、僕はミミに訊ね返した。
「右左が可愛いのは分かるんだけど、あいつ前、夕方頃に夕食食いに出てたんだろ。目立ったりとかナンパとかなかったのかな」
「うちの学生が妹さんナンパしたことあるって聞いたよ。でも黙ってすぐに逃げたからどうしようもなかったって」
「そりゃそうだよな」
「あとは行くところ、あんまり一カ所に集中しないとかかな」
「噂になるのが嫌だから?」
「そうかも。コンビニ行ったかと思ったら、スーパーでまとめ買いしてたり。でもそういうのカズくん来てから解消されたから問題ないよね」
そうだなと僕はミミの言葉を受け流した。人目を気にするタイプだとは思っていたが、右左がそんなところまで気にしていたのは少し心苦しい。僕がいることで、食事などの面倒が解消できたならそれでよいのだがと、僕は口を結んだ。
「……結構長い間離れてると、他人みたいだよな」
「そりゃそうだよ」
ミミは僕の言葉を肯定する。
「だって私とか野ノ崎くんだって、カズくんじゃなくて塚田くんって思うようにしたら、そうなってたと思うよ」
「心持ち次第、か」
僕の言葉にミミはまた頷いた。今の右左にとって、僕はあの頃のお兄ちゃんではなく、兄さんなのだ。
溝があるのか、それともこの溝を埋めるべきなのか。僕は考えあぐね、ミミを見た。
「昼間にパスタを作ったんだが、夕食も同じはまずい。ミミなら何にする?」
「えっと、一緒に食べてるんだっけ?」
「いや、今日偶然一緒に食べた。普段は一緒に食べない」
「だったら……汁物かな。カレーとかシチューとか、あっためたら食べられるやつ」
その手があった。僕はすかさずカートをUターンさせブロッコリーとジャガイモを手にした。
「寝かせないの?」
「その方がうまいのは分かるんだが、右左に冷えたものを食べさせるのが心苦しい」
「妹さん思いだなあ」
ミミが照れたようににこにこ笑う。僕は少し口をつぐんでから、ミミにだけ聞こえるように心情を吐露した。
「僕はあの時、右左に何にもしてやれなかった。せめて、今度はいい兄でありたいんだ」
「でもカズくん、妹さんの時間が戻るわけでもないし、きっとそんなこと妹さんは気にしてないと思うな」
「それも分かるし、単なる自己満足かもしれない。でもこうしないと、自分がもたない」
僕が沈痛な面持ちでそれを口にすると、しばらくミミは黙り込んだ。僕達の耳に飛び込む陽気なスーパーのテーマソング。少し足を動かすと、鮮魚売り場のまた違う陽気な歌が僕達を飲み込んでいく。
ミミは水槽で泳ぐタイを覗き込みながら、僕に一声かけてきた。
「妹さん、食生活のことばっかり言ってるけど、洗濯とかはどうなの?」
「ああ、それは何かよく知らないけど、普通にこなしてるみたいだ」
「じゃあ掃除も出来る感じだ」
「そうだな。料理だけが無理だ」
ミミはにっこり笑ってかごに入れてあるジャガイモを手にした。
「洗濯物は一緒?」
「そうだな、まとめて一緒に洗ってる」
「干すのもカズくんがやってるの?」
ミミの言いたいことが今一つ分からないまま、僕は素直に質問へ答える。
「ああ」
「つまり妹さんは、カズくんに下着とか触られたり洗われたりしても嫌じゃないわけだ」
「……何だそれ」
「ほら、よく年頃の女の子とかお父さんとかと洗濯物一緒なの嫌って言うでしょ? 妹さんそこらへんどうなのかなって思って」
確かにそこは盲点だった。右左の下着をまじまじと見る趣味はないが、一通り洗った後、丁寧に家の中で陰干しする。僕の着ているものは外で適当に干しているが、右左のそれを外に出すことは出来ない。
と、ここまでの考えに至っておきながら、右左が僕の洗濯物と一緒にされることを拒むという発想に至らなかったのが不思議である。自信がどうこうではなく、単純に思いつかなかった。
「ミミは嫌がる?」
「一頃嫌がってたなあ。今は気にしない感じだけど」
「ミミでも嫌がるのか……世の中分からないな」
「私ごくごく普通の人だよ」
「いや、お前くらい性格のいい人間でも家族のそういうのを嫌がるとか、そういう発想がそもそもなかった」
僕はその言葉を噛みしめるように反芻した。父と二人、男二人の生活においてそういうことはあまり気にしない。ましてや父は仕事で忙しい人間で、家には僕一人ということが大半だった。だからそういうことに気配りをしてこなかった。
僕は今、右左が洗濯に対してどういった態度を見せているか改めて考え直した。あいつは洗濯物が乾いていると、僕の分も含めて全部取ってくれる。僕の分の服は、いつもリビングに丁寧に畳んで置いてある。もちろん、僕が先に取ることもあるのだが、右左同様にリビングにそっと置いていても、右左は何の文句も言ったことはない。
多分、嫌われているということはない。ただ右左の中で「他人様」として割り切っている感情があるのではないかと、僕の胸に気持ちの悪い寒さが一瞬過ぎった。そんなものは一%に満たない可能性だと分かっている。それなのに、今の僕はその一%未満に脅かされている。
右左がどういった性格なのか、僕は分からない。それが今に来て、大きな重しになりだそうとしていた。
「カズくん、妹さんのこと知らないって顔だなあ」
「……分かるか」
「うん、付き合い長いもん」
「戻ってきて少しで付き合い長いって言われてもなあ」
「ブランクはあるけど、カズくんが変わってないから分かるんだよ」
「考えてみたら、野ノ崎とかミミと同じくらいあいつと会ってなかったんだ。ていうか、一生会うことがないって思ってた時期もあったし」
僕は冷凍のシーフードミックスを手にし、ミミに話した。ミミはシーフードミックスを僕から奪い「ビーフシチューの方がいい!」と主張した。僕もそうかと頷き、鮮魚売り場から一旦離れた。
「妹さんの趣味とか知ってるの?」
「全然。ていうか、あいつも僕に似て無趣味属性だと思う」
「うーん……確かに以前から趣味の噂とか聞いたことない」
「部屋の中がちらっと見えたけど、ポスターとか貼ってる様子もないし、すごく整理された部屋だった」
僕がとつとつと語ると、ミミも同様に悩み出した。
「結局こういうのって、相手を知ることから始まる気がするんだけど」
ミミの言葉が頭の中で反復横跳びした。以前にも似たような言葉を聞いた気がする。と、僕はそこで得心がいった。神様さんに言われたことである。彼女はそこから踏み込んで、相手がどう思っているか、自分で考えられる人間であれと言った。
右左の気持ち、つまり右左がどうありたいか。それを右左に直接聞いても、右左自身分からないことだろう。
他人を推察し、おもんばかる。神様さんの言葉に隠された真実の一端を垣間見たようで、僕はまたもや彼女に一本取られた気持ちになっていた。
「難しいな」
「当たり前だよ。何年も会ってなかったのに、以前と変わらない感じで落ち着いたらそっちの方が怖いよ!」
「それもそうだな」
僕はくすりと笑い、カートを前に進ませた。ミミは慌てて僕についてくる。
知るっていうことは、きっとそういうことなんだろう。そのために、ビーフシチューが必要なのだ。
腕を組みながら、サラダを横に付けるか否か、ミミに訊ねた。
結局、思ってもみなかったほど大量の荷物になってしまい、僕は帰りに「しまった」と呟いた。