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3/31 逢瀬のセッティングは案外側が調えてくれるもので

 僕は洗面所の鏡の前で自分の姿を見つめた。そして、よし、という言葉を発し、玄関へ向かった。

 今日は神様さんの家に行く日だ。つまり、何が起こってもおかしくない日ということでもある。僕の心拍数は、否が応でも高まらざるを得なかった。

「あ、兄さん……」

 玄関先に出ると、階段を降りようとしていた右左に出会った。

 右左は僕が出かける準備をしていたのに気付き、ここ最近よく見せる影の差した笑顔を見せてきた。

「お出かけですよね。恋人さんのところですか?」

「まあ、そう。夕方までには帰る」

 僕がそう言っても、右左は何度か頷くだけだ。

 右左の心の閉ざし方はまずい領域に入っている。それでも僕は、右左に傾倒してやることが出来なかった。それが、右左が自立していく上の第一歩だからと信じているからだ。

「恋人さんとはうまく……行ってますよね。よく電話で楽しげに話してるの、ドアの向こうでも聞こえますから」

「まあ、右左にそう言われるとちょっと辛いけど、事実は事実だからな。右左、勉強の方ははかどってる?」

 僕が訊ねると、右左は口を閉ざしたままこくりと頷いた。

「ならいい。それだけが心配だったから。それじゃ右左、留守番頼む」

 そして僕はそれ以上の雑談を挟むこともなく、静かに玄関から外に出た。

 神様さんの陽気な姿は、夏を連想させる。でも彼女が一番好きな季節は冬だと言っていた。右左はまるで逆で、その儚く見える姿が冬のイメージを漂わせている。でも右左は、夏が好きだという。

 僕は何か、とんでもないことをしてしまったのか。自分の中に様々な悔悟の念が過ぎる。でも右左にとっても、僕にとっても必要なことなんだ。今は自分にそう言い聞かせるしかなかった。

 気分を変えよう。僕は駅に出て切符を買った。チャージ型のICカードを作ってもいいのだが、基本的に外に出かけるのが神様さんの働いているメイドカフェに行く程度なので必要ないと思い、現金主義者になっている。それに現金の方が、金の減り具合がすぐに分かって計算が楽な側面もある。

 自動販売機でお茶を買う。五百ミリ入っているものではなく、小さな二百八十ミリリットルの奴だ。

 電車が来た。今日一日の命運を左右するかもしれないという緊張感が僕を襲う。

 電車に乗って、揺れに身を委ねる。神様さんは今日、どんな一日を僕に与えてくれるのだろうか。人葉さんとかはもう出かけているのかな。

 僕のせいで何度かメイドカフェを休ませることになっているのは、多少申し訳なくもある。今度は店でゆっくりしよう。

 しばらくして神様さんの家のある、見慣れた駅に着いた。思えばここで、小っ恥ずかしくなるような告白をしたんだっけ。そう思うと、ちょっとだけ笑いが漏れる。

「おはよー」

 改札口の前から手を振る姿が見えた。神様さんだ。今日も白地のミニスカートに、淡い青が浮かぶワイシャツ姿だ。

 先日よりもボディラインが出ている姿に、思わず生唾を飲み込んでしまう。

 ここは平静を装って。僕は笑顔で手を上げた。

「おはよう」

「おはよう、今日、凄く楽しみにしてたんだよ。そしたらそわそわしてなかなか寝付けなかったんだ」

 その割には、顔に元気が溢れている。人葉さんならちょっと寝ると言うところだ。

「さ、早く行こう」

「いいけど、コンビニとか寄らなくていい?」

「飲み物とかは用意しておいたから。さ、行こう」

 と、彼女に手を引かれ、僕は彼女の早足に付き合う形となった。

 何度見ても飽きない、高層マンションの群れ。その中の一角に、神様さんは住んでいる。

 指紋式のエントランスのドアを開け、彼女は僕を連れてエレベーターに乗る。

 今日、何を予定してるの。分かっている。分かっているけど聞けない。

 しばらくしてエレベーターが止まった。神様さんは手を引いたまま角にある二宮家の部屋へ向かう。

 彼女が鍵を開けようとすると、それを押し返すように突然扉が開いた。

「おー一宏君、おはよー」

 偶然を装うような言葉を発するが、目の前にいた二宮人葉さんは、にやりと笑いながらドアに頭をぶつけた双子の妹を笑っていた。

 何とも厄介な人である。神様さんはむっとしながら、僕に入ってと言って後ろに付いた。

「一宏君、いらっしゃい」

「どうも。今日はあなたの相手はしませんよ」

「別にしなくてもいいよー。ただ双葉がどんな行為に及ぶのかやや興味があってね」

「……お姉ちゃん」

 予定事があったとしても、人葉さんのイタズラ癖は神様さんには嫌なものなのだろう。

 だが、神様さんが怒って自分の部屋に向かう最中、人葉さんが僕に目を合わせて笑ったのが見えた。頑張れよってことか。

 僕も神様さんに付いて部屋に行こうとした。すると、若い、大学生くらいであろう神様似の美人な女性が奥のダイニングから出てきた。

「あら……」

「あ、あ、初めまして」

 こんな姉までいるなんて知らなかったぞ。僕は神様さんとの関係をどう説明しようかと、混乱しつつある頭に冷静になれと念じた。

 すると、僕が来るのが遅いことに気がついた神様さんが、廊下に戻ってきた。

「あ、お母さん、紹介するね。塚田一宏君。ってまあ、付き合ってるって話したから知ってるとは思うけど」

「お、お母さん? 神様さん、この人どう見ても……」

「まあ神様だからね。年齢不詳のままでも生きていけるっていうか」

 神様さんは失笑しながら「母」を指さした。すると彼女も頭を深々と下げ、泰然自若とした笑みで僕に話しかけてきた。

「双葉から話は聞いています。あなたみたいな素敵な人と、双葉が心を病んだ時に出会えるなんて、この子は幸運の星の下に生まれたんだと思いました。出来れば、末永くこの弱い双葉を支えてあげてやってください」

 本来なら僕が双葉さんとお付き合いをさせていただいてありがとうございます、と言わなければならないところを、神様さんのお母さんは逆に丁重に挨拶してきた。

 これはもう、どうしたものだろうか。

 すると、人葉さんがしれっとした顔で、神様さんと人葉さんのお母さんの方へ振り向いた。

「おかーさん、どうでもいいけど、今日は買い物付き合ってくれるんでしょ。ついでに美味しいものも食べたいし」

「人葉は本当にせっかちね。双葉、塚田さんと一緒にお留守番、頼むわね」

 と、彼女は笑って、ダイニング奥の自室らしき場所へ向かった。

「……人葉さん」

「ん、何かな? 私が成績優秀だから我が母上に買い物をねだってみただけなんだが、どうかしたかね?」

 人葉さんはしたり顔で笑う。それはどう見ても、今日の僕と神様さんの逢瀬のセッティングを調えたとしか思えない。

「双葉、どうでもいいけど慌てすぎないようにね」

「そ、そんなことお姉ちゃんに関係ないでしょ!」

「は? 慌てるって言っても、お菓子食べ残した時とかの話したんだけど。双葉は何の話と誤解したのかな?」

 と、人葉さんは相変わらずの当てて躱す嫌な喋り方で神様さんの顔を真っ赤にさせていた。ついでに僕の顔も真っ赤になっていた。

「人葉、お待たせ。それじゃ、買い物に行きましょうか」

「OK、母上待ってたぞ。それじゃ、双葉も一宏君も、ごゆっくり」

 と、人葉さんが言うと、二人のお母さんがしっかりと頭を下げた。僕も合わせるように、頭を下げた。

 二人が家から出て行くと、ようやく重苦しい空気が振り払われた。神様さんは冷蔵庫に向かい、ペットボトルのスポーツドリンクを取り出してきた。

「ごめんね、お姉ちゃんが変なこと言って」

「いや、気にしてない。というか、お互いに落ち着こう」

 慌てて僕が作り笑いを浮かべると、神様さんも同じように誤魔化すような笑顔を浮かべた。お互いに、思うところはどうやら同じようだ。だが、それを人葉さんに「焦るな」と釘を刺されたようであった。

 彼女は黙ったまま逃げるように勢いよく自室に飛び込んだ。でも耳まで真っ赤で、その話題がとてつもなく恥ずかしいことだというのはすぐに理解出来た。僕だってこんな会話恥ずかしい。僕は前髪をくしゃりと掴んで、神様さんの部屋に追うように入っていった。

 部屋に入った神様さんは、先ほどまでの会話が嘘のように、辺りに目をやっていた。フィギュア、ラノベ、ポスター。相変わらず趣味に走っている。

 でもその中に、園芸関係の本が混じっているところが、以前と少し違うと感じさせた。

「でも、きみと進む夢か……。花屋さんって難しいのかな」

「固定客を掴めばそうでもないと思うよ。花って日常的に使うこともあるし」

「だよね。その日常的に使うお客さんを定着させるのが難しいんだけど」

 すると彼女は、ベッドにだらりと寝転がって、僕に訊ねてきた。

「ねえ、きみは私に花束とか渡したい?」

「花束……か。渡したいって思いはあるけど、タイミングがそんなにないな」

 花屋を営むに当たって必要な主力商品。花というのは色々な場で必要とされる。だがそれが日常生活でどうしても必要とされるのは、冠婚葬祭以外あまり想像出来ない。

 ただ彼女の本棚に花屋の営業ノウハウでも書かれたような本もあり、そういう方面でも勉強しているのだなと思った。

「結婚式のブーケとか、自分が売る側になるけど、投げる方、あれすごく憧れるなあ」

「……そのさ、神様さんは僕とそこまでなりたい?」

 僕がしんみりした声で呟くと、彼女は顔を真っ赤にしながら枕に埋め、脚をばたばたさせた。

「あの……」

「その、なりたいに決まってるでしょ! なんでそんなこと説明しなきゃいけないわけ」

 それを聞いて、僕はほっとした。

 僕はこの人の側でずっと歩いて居続けられるのだろうか。出来れば、歩き続けていきたい。そのために何か努力をしろと言われるなら、報われるまでずっと努力し続けるだろう。

 彼女は嬉しそうに本棚に手を伸ばし、色々な本を取り出す。園芸の本を手にしたと思えば、僕にそれを見せてきてこんなのを育ててみたいとか、軽い調子で話す。園芸のことなんて何も知らない僕も、それを見聞きして、少しずつ興味が沸いてくるのが分かった。それは何より、この一番大切な人の力になりたいという思いが根底にあるというのが、手に取るように分かる。

 今日という日を忘れないように――僕達の一日は、人葉さん達が帰ってくる夕方五時まで続いた。

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