3/28 初めてのデートは言えないことを期待しながら自宅の部屋で
とうとうその日がやってきた。
「……眠い」
僕は自分の目をこすった。今日は神様さんがこの部屋に来る日だ。
僕はなるべく早くに寝ようとした。だが眠ろうとすればするほど、緊張が先に立ってしまい結局ほとんど眠れないまま大切な日を迎えてしまったのだ。
相変わらず右左とは食事時に顔を突き合わせている。だが、右左は愛想笑いと適当な相づちを打つ以外、僕と接触するのを避けているように見えた。
部屋の掃除は徹底的に終わらせた。床も綺麗にして、取り立てて何かあるわけでもない部屋のレイアウトもしっかり見直した。
「これなら大丈夫かな」
眠い目をこすりながら、僕は部屋を出た。
「あ……」
部屋を出ると、一階に降りようとしていた右左とちょうど鉢合わせになった。右左はしばらく硬い表情をしていたが、少しすると笑顔を向けてきた。
「兄さん、今から例の人、迎えに行くんですか?」
「うん。ここら辺に来るのは初めてだから」
「そうですか。私、朝食取るんで。来られたら教えて下さい」
右左は一声残し階段を足早に降りていった。右左は右左で、色々あるんだなと僕はふと何もない廊下を見て、胸を叩いた。
時間に余裕があるとはいえ、あの人は早めに来る方だ。僕は鏡の前で私服の乱れがないか今一度確認して、駅まで早足で向かいだした。
今日はここ最近の雨模様が嘘のように快晴だった。こんな日だと分かっていれば、外を歩くのも楽しかったんじゃなかったと少し考えるが、僕の部屋に招き入れるという、少し先に進んだ関係を味わうことが出来ないと思うと、やはりそれはそれで良かったと思えた。
五分もすると駅に辿り着いた。いつもならこのまま駅を突っ切って、学園に向かうところだが、今日は改札口に行く。
いた。普段よりも短い赤いチェックのミニスカートにテキスタイルのシャツ。やはり彼女は早くに来るというのは間違いではなかった。ちなみに今は、約束した時間の十五分前だ。
いつもより少し露出の多い服装に、僕の胸も自然と高鳴る。今まで見えなかったので気にしたこともなかったが、彼女の程よく肉の付いた太ももも、肌がきめ細やかでとても綺麗だと思い知らされる。
「あ、おはよう」
彼女が僕に気付き、真っ先に声をかけてくる。小走りで駆けてきて、僕の側にぴったり付いてきた。こういう自然な触れ方が心地よい。
僕がにこりと笑うと、彼女も同じように笑う。以前からそうだったのに、恋人になってからその意味合いが大きく変わったんじゃないかという妄想と錯覚を覚える。
「きみの家か……上がるのちょっとドキドキする」
「来るのいいけど、本当に何もない部屋だよ」
「何もなくてもいいよ。きみがいるもん」
彼女が何気なく言ったこと。そんなちょっとしたものが、心に響く。
彼女がゆっくり手を出してきた。僕も何も言わず、手を繋ぎ返す。彼女ははにかみながらきゅっと強く握る力を強くした。ごく自然に振る舞っているつもりだが、内心ではどうしようもないくらい心臓が破裂しそうだった。
「コンビニとか寄ってく?」
「それはいいかな。まずきみの家に行くのが先」
彼女の明るさと対照的にただ焦るだけの僕というのは、どれだけ間抜けなことだろうか。それを悟られまいと自然を装っているのも、また間抜けそのものである。
彼女は僕の家に行くまでの、店など何もない街並みをぐるりと見回していた。何か珍しいものでもあるのかな。僕は彼女の視線を横目で窺っていた。
「学校の方は結構行ったことあるけど、こっち側は来たことないなあ」
「学校辞めた後とかに来たことないの?」
「来なかったかな。この近辺は何か来る気しなかったんだよね」
と、彼女ははにかむ。その姿が妙に可愛らしく、思わず抱きしめたくなる。
この道がもっと長ければいいのに。そう思っているのに、僕達はすぐに家に着いてしまった。
「ここが僕の家」
「ふあー綺麗な家だね」
「何年か前にリフォームしたらしいから」
「あ、そう言えばきみ、半年くらい前に引っ越してきたばっかりだったんだね」
「そう、で、引っ越してきたその日に神様さんと知り合ったんだ」
得意げに言ってみると、彼女は恥ずかしげに身をよじらせながら俯く。運命めいた出会いと言ってしまえばそれまでだが、僕もこんな関係になるとはあの日思ってもみなかった。
チャイムも鳴らさず、鍵を開ける。重い扉を抜けた先もいつもの見慣れた家だが、彼女は珍しいものを見るようにあちこちに目をやっていた。
お邪魔します、彼女がそう言ったのとほぼ同じタイミングで、右左が食卓から出てきた。朝食をちょうど取り終えたところらしい。
右左と神様さんの目が合った。神様さんは笑顔で頭を下げる。右左は何だか苦い顔で、同じように頭を下げた。
「あの、私、二宮双葉って言います。一宏君と最近付き合いだしたばっかりだけど、妹さんには挨拶しておきたいっていう気持ちがずっとありました。よろしくお願いいたします」
「……私は楠木右左って言います。その、よろしくお願いいたします」
右左はそれだけ呟くと、それ以上の事を言わずに階段を駆け上ってしまった。
何だか、態度はあまりよくない。ただ右左としても思うところはあるのだろう。今は仕方ない。僕は若干諦めながら、神様さんの手を引いた。
「まあ、妹もまだ複雑なんだと思う。許して」
「許す許す。あんな可愛い子が妹さんだなんて、お兄さん冥利に尽きるね」
「それを言ったら神様さんのお姉さんだって美人そのものだと思うけど」
「あの人は……いいよ」
「じゃ、部屋に行こうか」
と、僕は彼女の手を引いたまま、階段を上った。リフォームして数年の家に、汚れた染みなどない。神様さんはそんな僕の家を何度も見つめていた。
「綺麗なおうちだね」
「慣れてるとあんまり気にならないけどね。さ、ここが僕の部屋」
僕は自分の部屋の取っ手を引いた。広がる、何もない部屋。
「ここがきみの部屋か……」
神様さんは僕の部屋に足を踏み入れ、驚いたような声を上げた。本当に何もない。本棚と勉強机と、脇に置かれたノートパソコン、そしてベッド。それ以外に面白いものは何もない。ゲーム機すらない。
彼女は戸を閉め、辺りをきょろきょろ見つめながら、破顔一笑、僕のベッドの上にぽんと飛び乗った。
「ここできみ、毎日生活してるんだね」
「そんなに気になることかな……」
「気になるよ。今までは想像の中で過ごしてるところを考えてたのが、現実になったわけだから。きみは私の家に来た時そういうこと考えなかった?」
彼女にそう言われ、僕はそう言えば、と思い返した。彼女の部屋に入った時、ここがこの人の生活している場所かと感じた。それが強いイメージになって、僕の中にある彼女の姿をまた強く想起させるきっかけにもなった。やはり何もないところの妄想より、想像させる片端のある妄想の方が、自分のイメージを膨らませてくれる。
僕が自分の机の席に着くと、彼女は僕の布団をきゅっと握りながら、軽く横になった。
「……きみの匂いがする」
「……神様さん」
彼女は求めるようにとろんとした目をしていた。
このまま神様さんの横たわってる姿を眺めていると、我慢が効かなくなる。ここは一旦席を外そう。僕は立ち上がって、彼女に微笑んだ。
「飲み物取ってくる」
「お、ありがと。じゃ、私はここでもう少し横になってるー」
と、彼女はからかうような口ぶりで、布団を手にしながら何度もごろごろしていた。
彼女の艶っぽい姿を見て、何とか抑えるので精一杯だ。僕は焦る気持ちを抑えながら廊下に出た。
「……右左」
階段を下ろうとしていた右左と、偶然鉢合わせした。右左は薄く笑うと、暗い顔に戻って静かに俯いた。
「兄さん、邪魔なら今日一日どこかに出かけますよ」
「いや、気にしなくていい。別に何かってわけでもないし」
僕が止めると、右左は顔を上げてそっと告げた。
「綺麗な人ですね」
「そうだな。僕なんかにもったいないくらい、美人で優しくて……付き合えたの、運がいいって思うくらい」
「そうですか。兄さんと付き合える女の子の方が運がいいって、周りの人達は言いますけど」
「野ノ崎の言うこと真に受けるなよ。僕が付き合いたいなんて思った人なんて、生まれてこの方始めてなんだから」
僕が言い切ると、右左は黙って階段を下っていった。そのまま玄関に直行したわけではないので、恐らく家にいるというのは確かだろう。
右左、随分と気にしてるな。ただそれをどうこう出来るという気もしない。時間が解決してくれるのを待つしかないだろう。
僕は大型のお茶の入ったペットボトルと紙コップを持って自室に戻った。野ノ崎やミミが定期的に勉強に来るので、最近はこの手の備品を用意しておくのに余念がなくなった。
「お待たせ」
「お、ありがと」
彼女はベッドに横たわっている状態から起き上がり、部屋の真ん中にあるテーブルの前に正座した。僕も微笑みながら向かい合わせになるように座る。
「とりあえずお茶にしといたけど、何かほしいのあったら買いに行くよ」
「そこまでしてくれなくていいよ。でも本当にこの部屋、広いし綺麗だね」
神様さんは辺りを眺めてそう呟く。本棚には、最近神様さんに勧められて購入したライトノベルの類もあるが、基本は教科書参考書だ。
取り立てて何もない。僕の無趣味さがよく現れた部屋だが、それでも神様さんが褒めてくれることは胸の奥をくすぐるようだった。
「さっきさ、廊下で妹とばったり会って」
「どうなったの?」
「邪魔だからどこか行こうかって言われた。だからって言って何かあるわけでもないけど」
神様さんは笑った。この部屋に来て、僕が妙にそわそわしていることに気付いているのだろう。でも、そのそわそわした姿も、彼女にとってはおかしなことだったのだろう。
「あのね、今日はきみに言ってなかった夢、言おうと思ってきたんだ」
そう告げてくる彼女の横顔はすっきりしていた。迷いがない。一体どんな夢なのだろう。僕は少し前のめりになりながら彼女の次の言葉を待った。
「きみと結ばれるのが一つの夢。それは叶ったから、これからのことも楽しみにしてる。で、もう一つの夢、これが言ってない分かな」
と彼女は頬杖を突いて、お茶に少し口づけた。
「あのね、私、お花屋さんやりたいんだ」
「花屋さん……」
「クヌギの精霊がどうとか、その土地に根ざした神とか色々あるけど、それも全部含めて、植物が好きになってきて。……それでね、そのお花屋さんできみを朝と晩だけでもいいから毎日見送ってお帰りって言っていられたらな……って」
僕は無言になった。これ、もしかしなくても、将来におけるプロポーズみたいなものじゃないか。
美人が経営する地元の花屋さん。確かに、開店資金とか花をどうやって育てるのとか、色々学ばなきゃいけないことはたくさんある。
だから彼女は僕に言わなかった。自分で学ぶこと、貯金の理由。それを知って、僕の心は熱くなった。
何も考えてこなかった僕の胸がうずうずする。今まで適当な近場の大学でいいなんて考え方が、一瞬にして吹き飛んだのが、手に取るように分かった。朧気にも見えなかった僕の目指す道、それが一瞬の内にはっきりと見えた。
「あのさ、神様さん。……僕も一緒に働くのって、ありかな」
「え、え? きみは何かしらの会社で働くんじゃないの?」
「いや、全然進路決まってないし、せっかくだから農学部なんかで花とか学ぶのありかなって今決めた」
「って今か! でも、そう言ってくれるの嬉しいな。さすがにそうしてとは言えないけど」
と、彼女は口元を押さえながら、少し立ち上がった。
ゆっくり、彼女は僕の側に座る。僕の前髪を一房手にして、息がかかるくらいの距離で僕を見つめた。
「今日はキスだけはして帰るって決めてたから」
彼女は少し目をつぶり、僕を促す。僕は何も言わず、彼女の首元に手を回して優しく抱き寄せた。
彼女の髪から包むような甘い香りが漂う。それすらも刺激的で、僕の目の前がくらくらしていく。
少し唇が震える。柔らかな彼女の綺麗な桃色の唇が少し触れた瞬間、僕の背筋に電流が走った気がした。
軽く唇を交わすつもりだった。でもなかなか離せない。神様さんは僕と同じように僕の首元に手を絡める。そして、強く強く、自分の唇を僕の唇に押し当ててきた。
神様さんが僕の唇から離れていく。そして、間近で僕の目をしっかり見つめ、くすりと笑った。僕も、彼女の熱量と同じ温度で、にこりと笑った。
「……ふう、神様さん、ありがとう。何か特別変なことしたわけでもないのに、凄く気持ちよかった」
「うん。じゃ、しばらくはこの部屋で遊ぼうかなー」
と、彼女はぐるりと部屋を見回した。何か遊べるようなものを探しているらしい。
僕は立ち上がり、ラノベの一冊を手にした。この間勧められて読み終えたものだ。それに関して色々話をするのも悪くない。
そうして僕達の、本当の意味で邪念を挟まない下らない休日がようやくスタートした。
僕はこの日を忘れないだろう。でも、具体的なことはきっと忘れている。そんな矛盾をはらむ日々も自分にとって大事だと、彼女に何度も教えられた。
あれこれした一日、僕と神様さんは最後に僕の部屋でキスを交わして、しばらく会えなかったストレスを一気に発散していた。
いつまでもこの人の側にいたい――そう思う僕の脳裏に、確かに「農学部」という文字が刻み込まれた。




