3/23 なかなか踏み込めない恋愛ビギナー
家に帰り、夕食の下ごしらえを終えた僕は、自室に戻って携帯を手にした。
神様さんとこれからどう過ごそうか。そんな話をしたくなった。
少しのコール音の後に、すぐに電話は取られた。
「あ、あ、一宏君! 久しぶり!」
久しぶりって、数日前電話したとこだよ。メールだって昨日もした。それでも声が聞けることがこの人にとっては久しぶり、ということなのだろう。
彼女の僕の呼び方は以前から使っている「きみ」を軸にしているものの、時折「一宏君」という呼び方に少し変わっていた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「うん、お姉ちゃんに会ったんだよね」
その言葉にびくっとする。あの人とノイズに近い情報から、人生相談まで色々な話をした。それがどう作用するかは、僕自身分からないが故に、どうこう語れなかった。
「人葉さん、ようやく悩みが少し晴れたみたいだよ」
「みたいだね。大学行かないって言ってたのに、どこの大学なら何を学べるかとか色々調べだしてるよ。ほんと、きみは人を乗せるのがうまいな」
彼女はことさら嬉しそうに話す。僕も彼女の救いの一助になれたのなら、それはそれで幸せだ。
今日は何の話をしよう。僕はベッドに寝転がりながら、彼女に話しかけた。
「相変わらずバイト忙しい?」
「割と。新しい子が来てくれたらもうちょっとシフトに余裕が出来るんだけど……。でも、そうなると私の働く時間が短くなってお給料も少なくなるから歓迎出来ないんだよね、難しい」
彼女は給料のことを口にした。今まで色々働いていて疲れる、というのは聞いていたけれど給料が少なくなるのが困るというのは聞いていない。
彼女のもう一つの夢はそこにあるのだろうか。変に洞察するのはやめよう。僕は笑って彼女に訊ねた。
「神様さんのメイド服姿、店で見ても可愛いからなあ」
「そ、そんなことないよ。でも……じっくり見たいんだったら、今度、家で見せてあげてもいいよ」
彼女の声が、もじもじしたものになる。電話の向こうで恥ずかしげに体をよじらせているのが目に見えるようだった。
「見たいな」
「……本当?」
「でも神様さんの働いてるお店に迷惑かかるし、それはお店での特権にしとくよ」
僕が笑うと、電話の向こうから聞き取れない程度の小声が響いた。
「……きみにだけに見せたいって気持ちもあるのに」
「え? 何か言った?」
「何でも無いよ。ところで妹さん元気?」
「あー妹か……それがちょっとややこしいことになってね……」
と、僕が落胆したような声を漏らすと、彼女はどうしたの、と早速訊ねてきた。
「生徒会に入らないかって先生達から声かかってるんだ。成績トップだし、このままだったら来年にでも生徒会長務めてもおかしくないんだけど、その体力があるかなあって」
ため息を思い切り吐く。神様さんも少し困ったように苦笑を電話越しに伝えた。
「確かに妹さん、病み上がりだもんね。順応出来るかどうか、凄く難しいと思う」
「そう。舵取りも一歩間違えればまた家に引きこもる生活になるかもしれないし。でも本人はちょっとやろうかなって感じになってるんだ。失った自分を越えるくらい頑張るってことで」
僕の若干呆れた調子の言葉に、神様さんは少し考えたように黙り込んだ。
そうだね、そんな一言が漏れてから、神様さんは淡々と僕に告げてきた。
「妹さんがやりたいって言うなら、後悔することになってもさせてあげるべきだと思うよ」
「……そうかな」
「うん。このまま何もせずに学校でトップのまま卒業しても、やらなかったことでもやもやしたものが残るのって辛いと思う」
「神様さんの経験則?」
「まあ、そういう点はあるかな。私も学校行ってる間にあれやっておけばよかったなとか色々あるもん。だから、妹さんには思い切りやってもらって、きみが精一杯支えるのがいい」
なるほどな、と僕は頷いた。右左が生徒会に入って後悔するかもしれない。でも僕はそのマイナス面ばかりに気を取られて、右左が成功するビジョンを見つめていなかった。
右左がやりたいって言うなら、それを見守ってやるのも家族の務めかもしれない。そこで右左が失敗したなら、また僕が支えればいいだけの話だ。
神様さんと知り合えてよかった。僕は自然と笑みをこぼした。
「でもきみは本当に妹さんのこと、心配っていうか、溺愛してるね」
「……嫉妬してる?」
「ちょっとはね。その気持ちの少しくらい私に向けてくれないかなって時々思うもん」
「うーん……僕の気持ち、全部神様さんに向けてるつもりだけど、そう見えるのか……」
僕がしんみり呟くと、途端に神様さんから慌てたようなフォローが入った。
「あ、あのね、きみが私のこと凄く大切にしてくれてるのは分かってるんだよ! でも、でも、もうちょっと強引でもいいっていうか、きみのわがまま通してくれてもいいかなって」
彼女はまたもじもじした話し方をした。確かに僕は彼女を尊重して、自分を出すことはあまりない気がする。でも、自分を出したら出したで、とんでもないことになりそうだ。
僕は神様さんに優しい塚田一宏でいたい。でもやっぱり女の子としてはちょっとくらい強引さがある方が、魅力的に見えるんだろうなと、ちょっとばかり得心した。
「神様さんに無茶苦茶甘くしたい。それが僕のわがまま」
彼女は納得出来ないのか、電話越しに「むー……」と難しい声を発している。そう言えば、お姫様願望が強いんだったか。強い王子様が来てくれるのが夢でもおかしくない。ただ僕がそれを演じられるかどうかは、別だ。彼女をガラス細工のようにそっと大切に扱いたい、それが僕の彼女への接し方だ。
そうだ、そんなことより重要なことがあった。彼女をデートに誘うか否かだ。
恋人になって、始めて行く何処か。言葉を発しようとするのに、なかなか喉が動いてくれない。気付くと胸の鼓動が強く高鳴っているのが分かった。
「あ、あのさ」
「どうかした?」
「その……どこか行きたいとことかある?」
振り絞るような、小さな声。電話の向こうの彼女も黙り込んでいた。
やっぱり、デートはまだ早かったかな。僕が長考に入ると、彼女は「うん」という言葉を発した。
「行きたいとこはいっぱいあるよ」
「え?」
「海も行きたいし、ショッピングモールも行きたいし、遊園地とかもいいかな。きみとだったら行きたいとこ、数え切れないくらいある」
彼女は嬉しそうに告げてくる。それが僕の気持ちを昂ぶらせて、嘘偽りのないこの人が好きだという感情を露わにさせていた。
「夏祭りとか行きたいな。神様さんの浴衣姿、見てみたい」
「それ、いいかも。……考えられなかったな、昔はこういうの。他の子がすることで私には一生縁がない、そう思ってたのにきみが現れて、色んなことを教えてくれた。こういうのが、世間で言う普通なのかな」
彼女は笑いながら、困ったように呟く。普通のカップルがどんなことをするのかは知らないが、僕達の間柄はこれでいいような気がした。
「その……恋人同士だから……」
「何かある?」
「その、何でもない。でもどこか行くの楽しみだなあ。今度日曜店休めるかどうか聞いてみるよ」
彼女は僕の提案に積極的に乗ってくれた。それは大変ありがたいことで、僕にとって福音以外の何ものでもなかった。
「僕も楽しみにしてる。また店に行くよ」
「うん、待ってる。それじゃ、今日はこのくらいで終わろうか」
僕が「うん」と頷くと、彼女は「お休み」と返し電話を切った。
「……これからどんな感じになるのかな」
僕はスマートフォンを手にした。その中に収まっている、神様さんの横顔が綺麗に出ている写真。そこに写っている彼女は活き活きとした眼差しで、とてつもなく魅力的に見えた。
ただ、今は右左をどうするか、そんな問題だって付き纏う。右左が元気でいてくれればそれでいいんだが。
僕の悩みは尽きない。というよりも、先送りにしていたことが、自分の手で少し進めただけで一気に押し寄せてきたというところだ。
ここが勝負所だ。僕は気合いを込めて、もう一度スマートフォンに写るあの人の写真を眺めた。




