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右左の幸せ

 今日は休日である。入学してからばたばたしていたこともあり、休日というのを実感したことがなかった。一応二回ほどはあったはずなのだが、やれ制服の調整だ、学習進度の確認だと訳の分からないことに身をやつしていた。

 朝起きて、まず掃除をする。上で寝ているかもしれない右左を起こさないように、ほうきと雑巾で床掃除だ。ほうきと雑巾は、昨日の内に用意しておいた。右左は相変わらず僕と共に食事を取ってくれないので、ある意味で好都合だった。

 部屋の隅から隅まで、溜まっていた埃をほうきでかきだす。ありがたいことに虫の巣はなかった。それもこれも、虫嫌いの母がセットしておいた、薬効切れと思しき数々の害虫退治アイテムのおかげだろう。

 もっとも、右左一人のおだやかな生活では虫も栄養を取れるわけがない。そこから考えて僕が騒ぐような生活をすればたちまち虫の巣になる。僕は一度気持ちを入れ直し、掃除する力を一層強くした。

 昼まであとわずかとなり、朝から始めた僕の掃除も随分と片付いてきた。自分の部屋はともかく、右左の部屋まで踏み入れるのは失礼だ。僕は残っている部屋がほとんどないのに気づきほっとしたと同時に物寂しさを覚えた。

「……兄さん、何してるんですか」

 階段から、呆れたような声が落ちてくる。目を上にやると、相変わらずのキャミソールタイプの上着に、寒くなってきたのかシャツのような上着を羽織った右左がいた。

 ここで動揺してはいけない。僕は笑顔を作り、右左に答えた。

「掃除だよ」

「その、掃除機……ありますけど」

「右左が寝てるの起こしちゃ駄目だろ」

「そういう気づかいをしていただかなくても……」

「父さんと生活してた時もそうだったんだよね。遅くに帰ることが多くてさ、だから掃除機より雑巾とほうき派なんだよ」

 勢いで押し切ると、右左はそのまま反論しなくなった。もっとも僕も嘘をついているわけではない。ただし、掃除機を使わなかったという点だけは嘘だ。父が起きていれば普通に掃除機も使っていた。就寝気味の際は掃除機ではなく、このセットを用いていたというだけである。僕も本当は掃除機の方が好きなのだが、右左を思えばこちらを取るというだけの話だ。

「右左、朝食は?」

「……部屋の冷蔵庫にあるコーラを飲んだので大丈夫です」

「はあ、右左は確かに細くて綺麗だ。でもそれじゃ体がもたない。いや、体はもたなくてもいい、糖分過多で甘味しか感じられない舌になる」

「そ、そこまででは……」

「うん、昼も近いし、昼食を食べてもらおう」

 右左が気まずそうに僕からそっと目を外す。だが僕がずっとにこにこしながら右左の目を捉えていることに気付くと、諦めたように肩を落とした。

 右左が食卓へ向かう。僕は雑巾やほうきを片付け、手を念入りに洗った。消毒用の石けんに除菌用アルコール、そしてまた石けんと念入りに手を洗った。

 昼食の定番、パスタの時間である。先日の夕食の買い出し時に、鷹の爪やベーコンなどを買い込んだ。この家に置かれていなかったオリーブオイルなんかも買っておいた。

 この材料から導き出されるのは、簡単な家庭の味、ペペロンチーノである。楽をしたい時ならコンソメスープを入れるという邪道もするのだが、右左には食べさせられない。僕は湯を沸かしながら、後ろにいる右左をそっと見た。

 思えば共に食事を取るのは初めてだ。何となく僕の気持ちもそわそわしてきた。

 ペペロンチーノは他人が思っているより簡単な料理だ。時間の大半が麺を茹でる時間といううことを、後ろでそわそわしている右左は多分知らないだろう。

 作り出して十分。多少手間取ったかなという印象を受けながら、僕は右左に皿に盛ったペペロンチーノを出した。

「凄い……いい匂いですね」

「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいよ」

 僕がにこりと微笑むと、右左も実はお腹が空いていたのか、少しずつ食べ出した。ただがっつこうとしない辺り、右左らしさを感じる。

 食べている間に、右左の顔にちょっとだけ笑顔が浮かぶ。こんなもの、僕は食べ飽きている。それなのに、右左は新しいものに出会ったような顔をしている。それが嬉しくて、僕は自分の分に手を付けるのを忘れていた。

「その、前から言おうと思ってたんですけど、兄さんは本当に料理が得意なんですね」

「そうだね。最初は父さんが作ってくれてたんだけど、ある程度教えてもらったら自分で作るようになってたよ」

「お母さん……母はそういうの、あまり教えてくれなかったから」

「あの人に生活性を求めるのは無理だよ。離婚の一端がそこにあったわけだし」

 僕が呆れた口調で言い放つと、右左は口元に手を宛て、ほんの少し笑った。母には悪いが、こうした共通の悪人がいて同じ認識が出来るというのは、人間関係を円滑にする上で非常にありがたい。

「兄さんは私が料理が出来ないの、どう思いますか」

 フォークを握ったまま、目を沈ませた右左が呟く。僕は天井を仰ぎ顎に手を宛てた。

「別にいいんじゃないかな」

「……そうですか?」

「出来なくても今の時代食べることは出来るし。それに僕がいるから、僕の作れる範囲で食べさせてあげられるよ」

「でもそれじゃ兄さんが……」

「僕の幸せは右左が幸せでいてくれることなんだ。それ以上心配されると、苦しくなる」

 右左の自責する表情を、僕は一笑に付した。それでも身につまされる部分があるのか、右左は黙っている。

 右左が自発的に喋るのを待とう。僕は自分の食事に手を付けだした。

 右左の皿が空になった。大食漢と思っていないので、量は少なめにしておいた。だがまったく食べていなかった僕と比べれば、完食までの時間は早かった。

「あの、ごちそうさまでした」

「いいよ。こんなのでよければいつでも作ってあげよう」

「あの……」

 右左が俯いたまま突然声を出した。それは絞り出すという表現が的確で、よそを向いていれば聞こえなかったかもしれない。

「どうかした?」

「兄さんは外、どうですか」

 少し息をつき、考える。右左の言う外とは恐らく学校のことだろう。というより、僕に直結する外の生活はそこしかない。そもそも休日に電車やバスに乗って遠出する、ということさえ経験したことがない。右左の言いたいことを何となく察して、僕は思うままに答えた。

「思ってたより悪くない」

「……そうですか。その、以前の学校の人とか」

「んー何て言うんだろ。付き合いはあったけど、そこまで深くないって言うか。こっちへ来るって決めた時点で全部置いてきた」

 僕の言葉に右左は声を失っていた。普通に考えれば、引っ越し一つで人間関係をまっさらにしてくる人間などそういないだろう。だが以前の街に親友と呼べるほどの存在がいなかった僕は、それを簡単に出来た。

「ここには右左がいる。以前の街には右左がいない、その違いだよ」

 そう説明しても、右左は苦しそうに自分の胸元を強く握る。

「……私、変ですよね」

「何が?」

「いじめられてたわけでも、成績が落ちこぼれでもなかったのにこんなことやってて」

 右左の言葉に僕は首を傾げたまま黙った。少し何か言えば泣き出しそうな宇佐を刺激しないようにするのは、綱渡りのようで難しい。

「誰か、まだ私のこと言ってる人いますか……もう誰も覚えてませんよね、私のことなんて」

 自虐的に右左が呟く。僕はくすりと笑い、両肘をついて右左に答えた。

「覚えてない人もいるし、覚えている人も実際いるよ」

「……そう、ですか」

「人間なんてそんなもんだよ。何週間か経ったけど、以前の街で僕のことなんてもう忘れている人間なんてたくさんいる。覚えてくれてる人もいる」

「それも……そうですよね……」

「肝心なのは、誰に覚えていてもらいたいか、誰にどうしてもらいたいか、それだけ。僕は右左が幸せだったらそれでいい。分かった?」

 僕の言葉に右左は反論しそうに体をもぞもぞさせていた。だが結局それが口に出ることはなく、最終的に「はい」という言葉で落ち着いた。

 僕は大きくのびをして、満面の笑みを見せた。それが不思議だったのか、動きに釣られて僕を見た右左が目を丸くした。

「今日は初めて右左と一緒に食事が出来た。小さいけど、とてつもなく大きな一歩だ」

「……兄さん、お父さんみたいです」

「父さんと同格扱いは嫌だなあ。僕は右左の兄さん、その立場を崩したくはない」

「そうですね……私にとても優しくしてくれるところ、お父さんともお母さんとも違います。こうしてくれるの、兄さんだけですから……」

 右左は噛みしめるように呟いた。その顔に照れなどが混じっていれば僕もうきうき出来たのだろうが、そうでないところに右左の今が見え隠れする。

 僕は黙って冷めたパスタを食べた。右左はその途中で、食器を流しに持って立ち上がった。

「僕が片付けておくよ」

「……その、いつもありがとうございます」

「気にしなくていい。右左から兄さんって呼ばれるだけで、僕は充分幸せなんだ」

 説得するように告げると、右左は一礼して去った。

 薄幸の美少女。その憂いを帯びた横顔の秘密は何か。

 僕は首を捻って考えたが、やはり右左はもうちょっと元気である方が魅力が増す。

そのために僕が出来ることは何か。考えても考えてもそれが浮かぶはずもなく、ペペロンチーノにかかったオリーブオイルはひんやり冷たくなっていた。

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