3/22 大事な妹のこれからに感じる欠片ほどの不安
その日の授業中、僕は目の前の黒板に集中出来ず、あれこれどうでもいいことを考えていた。
神様さんと恋人になったのはいいが、何かすることはあるのだろうか。
相変わらず電話はしている。ただ何か変わった点があるかというと、今のところまだ何もない。お互いに何か変わったことを、というのを意識すると、ちょっとばかり無言になって、いつもの雰囲気に戻そうとしてしまう。
色々したいことはあるが、口に出すにはちょっと性急すぎる。
距離が縮まったのは確かなのだが、縮まったならまず何をするか、そこが分からない。
ここで妄想王こと野ノ崎に一つ訊ねてみるというのも手なのだが、神様さんと付き合いだしたなんてことを告げれば、したり顔で下品な事を色々言ってくるのは間違いない。僕と神様さんの関係は茶化されても仕方ない部分はある。
とはいえ、僕もここに来て彼女のことを自慢したくなっていた。客観的に見ても可愛いし、スタイルもいい、性格だって穏やかで優しい部分がたくさんある。
と考えてみると、本当に僕と付き合ってくれるようになったのが奇跡と言える人だ。
ここはデートか。デートしか局面打開の術はないのか。ぐるぐると回る思考に頭を痛めながら、僕は強く注ぐ窓際の日差しを見つめていた。
授業が終わり、僕は席を立った。何だか考え込み過ぎて、視野が狭くなってきている気がする。もう少し、大きな視点で物事を見るべきだ。
とはいえ、僕に出来ることって何だろうか。人に溢れた廊下を進みながら、僕はぼんやり天井を見上げる。
「あの、兄さん……?」
ん、何だろうか。聞き覚えのある声が響いた。僕は目をこらした。そこには右左が立っていて、僕の顔を見つめて困惑していた。
僕は「あれ?」と思いながら周囲を見た。どうやらぼけっとしている間に一年の教室付近まで来ていたらしい。
ただでさえ三年が一年の行動範囲内でうろついていたらおかしいのに、それを僕は何度も繰り返している。ここは素直に立ち去ろう。僕は右左に苦笑いを浮かべながらくるりと回った。
「右左、何かぼんやりしてたらここに来てた。ごめん、右左に迷惑かける気はなかった。帰る」
僕がそう言って手を振ると、右左は咄嗟に僕の側に付いた。
「兄さん、私も行きます」
右左は小さな歩幅を必死に伸ばして、僕と歩み出す。何か悪いな、そう思い僕も歩幅を狭くして右左に歩調を合わせた。
しかし、家で何度も会っているのに、学校で面と向かうと感じるものが違う。右左が通るだけで、たくさんの視線を浴びているのを感じる。学園一の才媛かつ美少女。片方だけあっても騒がれるのに、両方あるのだ、出来すぎだ。
「右左、学校戻って二ヶ月経ったけど、慣れてきた?」
「はい。周りのみんながよくしてくれるから、自分でも驚くくらいうまくいってます」
右左の笑顔に、僕もつられるように笑った。
右左は自分で気付いていなかったのかもしれないが、人に好かれる才能を持っている。本人のメンタルの弱さがそれに付いていけるかどうか、そこが問題だっただけであり、メンタル面で多少強くなった右左なら当たり前に見える光景だ。
「右左にもだいぶ世話になったなあ」
「私が兄さんの世話? 何かしましたっけ?」
「僕の中の話。色々あったけど、それも右左のおかげだったってところがあるんだ。分からなくていいけどさ」
と、僕が笑うと右左は不安そうに凝視しながら、口をへの字に結んだ。
右左がいたから、僕はこの街に戻ってきた。右左が悩みを抱えていたから、僕は街で神様さんと話すことを選んだ。色々あるけど、右左が軸になって、僕と神様さんの恋愛を成就させてくれたことは確かなのだ。
「右左、クラスの方はいいのか」
「みんな優しくて。私が一人になりたい時を察してくれて、ふらっとしてても声とかかけてくることがないんです」
その割には、周囲から視線を感じる。右左の言うことが本当なら、今見ているのはよそのクラスの人間だろう。
右左は僕にぴったり付くように歩く。野ノ崎から聞かされた。右左に恋人がいるのではないかという噂だ。それも色々と辿っていくと、僕が恋人だということになっている。しかも悪質なのは、僕が兄だと知っているのに、名字が違うので血の繋がりのない兄妹なのではないか、だから付き合っているという話だ。
何とも荒唐無稽な話である。しかし、そのとんでもない話で右左が守れるなら、それでも構わないかなとも思った。
僕と右左が、のんびりと校舎を眺めるように日差しを浴びながら廊下を歩いていると、「あら」と聞き覚えのある声が響いてきた。
「どうも」
僕は頭を下げた。そこにいたのは、右左の担任の土川先生だ。
土川先生は柔和な顔つきを見せると、僕達の側に近づき右左の頭を撫でた。
「右左ちゃん、髪さらさらね。シャンプーとかリンスとかこだわってる?」
「そ、そういうのはこだわってないです……兄さんと同じの使ってますし……」
「先生、こいつの場合は遺伝だと思いますよ。母が同じように髪さらさらでしたし」
とぼやくと、土川先生は「そう」とくすりと笑って一歩退いた。
この人が何のこともなしに話しかけてくるとは思えない。何か言いたいことでもあるのだろう。僕は彼女を見つめながら、次の一挙手一投足を見守った。
「右左ちゃん、生徒会の方、前向きに考えてくれた?」
「右左、確かにちょっと前に先生と面談した時に聞いたけど……」
「いえ……その……」
確かに以前、右左に生徒会の話が来ているとは聞いたことがある。だがそれが実現するかもしれないことになっているとは思わなかった。
今の右左じゃ無理だ。僕は慌てて止めようとした。だが右左は土川先生に笑顔を向け、そうですね、と前置きしながら軽く答えた。
「今の私じゃちょっと無理かもしれませんけど、来年なら大丈夫かもしれません」
「そう、入ることを考えてくれること自体ありがたいわ。なかなかなり手がいなくて。右左ちゃんなら立派な生徒会の一員になれると思う。じゃ、私授業に遅れるといけないから、またね」
と、彼女は明るい面持ちを崩さないまま、そこから立ち去った。何というか、彼女はいつも明るい顔をしている。曇った表情をあえて見せないとも考えられるが、健康的な笑顔は生徒に活力をもたらすだろうというのは容易に推測が付いた。
とはいえ、右左が生徒会の一員になることを前向きに捉えているのは驚かされた。家でもそんな話は一言も出てきていない。しかも生徒会といえば学校の顔だ。その投げ出すことが許されない仕事に、右左が耐えられるのか、それが心配だった。
「右左、僕が言うことじゃないかもしれないけど、生徒会の打診、本当に受けるつもりか?」
「……今のところ、少し興味があるかなってくらいです。凄くやりたいって程じゃないです」
「ならいいんだけど。大変だよ、生徒会。それで勉強持ち崩したら何にもならない」
僕の声のトーンも下がる。生徒会の打診をされたのは右左だけではない。過去には僕も打診された。それを断ったのも、また僕だ。だから右左がどんな気持ちか、少しばかりは分かるつもりだ。
「私、自分の限界を見てみたいっていう欲が芽生えだしたんです」
「自分の限界……」
「勉強も頑張って、生徒会も頑張って。色んなことに全力で取り組んで、どこまで行けるのか、そんな自分を俯瞰的に見たいって思うんです。そんな私、駄目ですか?」
右左は上目遣いで僕を見てきた。その目は少し潤んでいて、僕を困惑させるには充分だった。
限界に挑みたい右左。なるべくセーブして、安定した生活を送ってほしいと願う僕。今ここで結論が出るほど、簡単な話題ではない。
僕は軽く笑って、土川先生が褒めた右左のさらりとした後ろ髪をぽんと叩いた。
「まあこの話はまた家に帰ってしよう。もうそろそろ授業だからな」
「分かりました。兄さん……済みません、余計な話持ち込んじゃって」
「気にしてない気にしてない。右左が右左らしくいれば僕は幸せだから」
と、最後に笑い声を残して、僕は足早に自分の教室に逃げた。あのままあの場にいれば、右左に動揺している自分を見透かされる気がした。神様さんのために、強くなりたいと願う僕が崩れてしまう、それだけは避けなければいけない。
僕は窓の向こうに広がる広く澄んだ青空を見上げた。この空を見上げていると心地いい。でもそれ以上のものは何も与えてくれない。人はどうして、迷った時に空を見上げるのか。迷いを払拭するものを伝えてくれると思うのか。
右左の人生のふらつきに、僕は僅かばかりの悩みを覚えた。




