3/18 好きという気持ちを伝えることの意味
六月を前にして、僕は神様さんにメールを入れていた。
「明日お店に行きたい」
と。彼女は僕の中にある気持ちを知らないせいか、気軽に「いいよ」と答えてくれた。
僕の思いは彼女に伝わるのだろうか。僕は心臓をばくばくさせながら、夕食造りに勤しんでいた。
「……兄さん、今日のビーフシチュー、どうしたんですか?」
食卓を囲んでいた右左の一言で、僕ははっと顔を上げる。右左は好物のビーフシチューだというのに、硬い顔をしている。
「どうって、どうかした?」
「いえ……そのいつもよりかなり塩味が濃いっていうか……ジャガイモとかも煮崩れてますし、兄さん、どうかしたのかと思ったんです」
僕は咄嗟に自分の皿を見た。確かにそこにはお世辞にも出来がいいとは言えないビーフシチューがあった。
こんな失敗をするような間抜けだったか? 僕は明日のことに囚われて、普段通りという言葉を見失っていたようだ。
「まあ、色々あるんだよ」
「そうですか。そういえば、お母さんからメール来てました」
「僕には来てない……というか、あの人僕のメアド知らないか」
「私が学年で一番の成績を取ってること、これからも続けなさいって」
ああ、ここに家族の歪な部分が現れてるなと思った。せめて良かったね、よく頑張ったねとか一言添えればいいのに、それを取って当たり前のように話す。右左が歪んで育たなかったのが奇跡のようだ。
そういえば、父から最近連絡は来ない。僕の進学についていちいち口出しするのをやめたのだろうか。ただ油断は出来ない。その点だけは、神様さんのことがあってもまったく気を抜くことはなかった。
「でも兄さんみたいな料理の得意な人でも、失敗する事ってあるんですね」
「まあ……なんでこんな失敗したのかはちょっと分からないけど」
本当は理由など分かっている。ただ、自分でも一つのことに囚われるとこんな無様な失敗をするということに驚きを覚えていた。
「兄さん、学校で色々噂になってるみたいですね」
右左が頬杖を突きながら笑って話す。あれも噂、これも噂。噂だらけで困ることだらけだ。
「私が兄さんと兄妹だって知った子が、兄さんみたいな格好いい人が兄でいいねって言ってくるんです」
「そんないいものじゃないと思うけどな」
「そうですか? でも成績もよくて格好いいから、逆に声を掛けづらいって言ってました。あ、それと野ノ崎さん、一年の中で隠れ人気なんですよ」
その言葉を聞き僕は目を皿のように丸くした。まさか野ノ崎が人気ランキングに躍り出る日が来るとは。今のボロが出てない状況ならそりゃモテるだろうな……と僕はしみじみ感じた。黙ってれば格好いいのだが、喋らせるととにかくまくしたてるように話して、ちょっと馬鹿な側面が見えてきて一気に離れていくのだ。あれさえなければ……と思うことが何度あっただろうか。
「兄さん、今度ビーフシチューの作り方、教えて下さい」
笑っていた右左が、その表情のままに僕に頭を下げてきた。ビーフシチューなんて簡単な料理だ。僕も同じように笑って「いいよ」と答えた。
食事が終わり、僕は自分の部屋に戻る。
右左の前で作っていた笑顔が嘘のように、固まりっぱなしの難しい顔になった。
明日のことに対して対策を立てなければならない。僕の気持ちが確かなのは分かっているとして、神様さんがどう返答するかだ。
僕が今まで他人にしてきたように、一旦保留で、と告げられるのか、それともきみみたいなふざけた人と付き合うのは嫌だと言われて付き合うのは拒否されるのか。
何を考えてもネガティブな方向にばかり進む。ここまでネガ思考に陥ったことなんてあっただろうか? なるようになる、今までその思考でばかり進んでいたのに、ここに来て自分で選んだ道で進むということを始めて選んだことが、こんな思考に突き落としているのだ。
どんな言葉を言おうか。格好つけた空気をまとわせて、彼女をくらくらさせてみるか。
……馬鹿らしい。そんなのに引っ掛かる人だったらとっくに恋人作ってるよ。
ストレートに行こう。でも、そのストレートに言う気持ちに、どれだけ勇気を持たせられるか、自分自身との戦いに思えてきた。
結局思考がまとまらないまま、僕は眠りに落ちた。
一晩経ち新しい日差しが生まれた。勝負の日だ。
ラッキーカラーは赤。普段朝のニュースの占いミニコーナーなんてあてにしないのに、今日はうっかり目に入ったそれに気を取られて、赤いハンカチをポケットに入れた。
学校内では至って静かに。野ノ崎やミミには悪いのだが、今日はまとまらない思考を出来るだけ冷静に持っていきたい。僕は昼休み、失踪にも似た形で、校庭をぐるぐる回っていた。
結局、学校内にいる間は誰にも捕まらず、何の変哲もない授業が終わると、僕は一直線に神様さんの働くメイドカフェへ向かった。
ここからは電車に乗らなければならない。僕は切符を買うために財布を取り出した……のはいいのだが、手が震え、財布を地面に落とした。それどころか、券売機に硬貨を入れようとした時に、十円玉を一つ地面に転がしてしまった。先行き不安、そんな言葉が脳裏に過ぎった。
それでも今日引くわけにはいかない。僕は列車に乗って、自分の気持ちを何とか奮い立たせようと色んな言葉やシチュエーションを思い浮かべた。
駅に着くと、僕の胸の心拍数が一気に上がるのが分かった。
彼女は今日起こることを何も知らない。いきなり言われたらやはり困惑するだろうか。僕は不安なまま、辿り着いた店の扉を開けた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
扉を開けてくれたのは、神様さんだった。
「……」
「ご主人様?」
黙り込んだ僕が不思議なのか、神様さんは僕の顔を何度も覗き込む。僕は慌てて作り笑いを浮かべ席に着いたが、神様さんの疑ってかかるような目が何度も僕の体に突き刺さった。
「ご主人様、何かお飲み物やお食事はご所望ですか?」
「……アイスティーを」
「はい、承知致しました。すぐにお持ち致しますね」
彼女は軽いステップで店のカウンターへ向かう。
これから彼女が退勤する一時間後、僕の命運が決まる。どうなっているだろう。今まで感じたことのない不安という感情が僕を飲み込んでいた。
「ご主人様、ご注文のアイスティーでございます」
「……あ、ありがとう」
僕がしどろもどろになっていると、彼女は僕の顔を怪訝そうに覗き込んだ。そして、客が誰も見ていないことを確認してから、小声で僕に訊ねた。
「今日なんか熱でもあるの? ちょっと調子悪いよ」
「……そういうのじゃない。退勤まで待つから」
「それはいいけど……アイスティーだけで足りる? あと一時間退屈な時間過ごすよ?」
「それでもいいんだ」
「分かった。じゃ、私仕事に戻るね」
と、神様さんは仕事に戻っていった。
そう言えば、人葉さんに自分の心の整理がつくまで諦めないで下さいって言ったな、と過去のことを思い出した。僕と神様さんが付き合えることになれば、諦めもつくのだろうか。それはそれで、不思議な気分だ。
いつもより時間の流れが遅い気がする。神様さんの一挙手一投足が気になって、体がそわそわする。
こんな時、冷静になれる精神があれば。そう思うが僕の何事にも他人事で過ごしてきた罰がここに来て現れているだけだ。僕は黙って、店の中をあちこち行きながら、色んな人に愛想を振りまいている神様さんを眺めていた。
アイスティーは減らない。飲もうと思っても、喉で引っ掛かる。彼女が他人に見せている笑顔も仕事のものだと分かっているのに、嫉妬ではなく不安に駆られる。ここにいる客の中に、神様さんを狙っている奴がいたり、もしかしたら神様さんが思っている奴もいるかもしれない。どうしてそんな思考になるのか、自分でも本当に分からない。高くなる心拍に、落ち着け落ち着けと必死に告げていると、少しだけ時間が進んだ。
不安を抱えたまま動悸と戦っていると、ようやく神様さんの退勤の時間になった。いつものようにメールでやりとりして、僕は会計を済ませて店を出る。彼女を外で待っていれば合流出来るはずだ。




