3/17 伝えられなければ簡単に終わる恋はどこにでもある
その日、僕は休み時間、暇つぶしに教科書を眺めていた。周囲とコミュニケーションを取るのが面倒というのもあるが、教科書を眺めているのも意外に楽しい。特に、教科書の柱に書かれている細かな豆知識を眺めていると、自分の学力向上というより、役に立たないかもしれない知識がほんのわずかに自分を満たしてくれる気がするのだ。
この和歌の作られた時に起こった事件は……と柱を読んでいると、僕の肩がぽんと叩かれた。
何だと顔を上げると、名前を覚えていないクラスメイトが立っていた。
「塚田、客」
僕に客? 誰だ? と思いながら顔を上げると、あの問題だらけの二年、木島さんが僕に会いに来ていた。
悪い子ではないのだが、何も知らない中で付き合い続けるというのも困ることは困るのである。
とはいえ、邪険にするのもそれはそれで問題がある。僕は立ち上がり、扉近くで僕の動向を覗き込む木島さんに会いに行った。
「こんにちは」
挨拶をすると、彼女は声も無く頭を下げた。心なしか彼女の頬が赤い。
「あ、あの、こんにちは! 今日はちょっと来てみたくなって」
「……熱心なのはいいけど、ちょっと今、妹のこととか忙しいんだ。だから、少し抑え気味にしてもらえるとありがたいんだけど」
と、僕が困ったような声で答えると、彼女はしょんぼりとした顔で項垂れた。
右左にもこの位の精神の強さがあれば、きっと人生はもっと面白くなるのにな、と僕は彼女の背に広がる、窓から覗く青空を見つめていた。
「あの……先輩、私、この間同級生の子から告白されたんです」
その言葉を聞いて、僕はほお、と思った。別にもてなさそうな顔でもないし、むしろ可愛い部類に入るのだから、それはそれで喜ばしい話だと思えた。
だが彼女の顔は晴れない。どうしたのだろうと思って眺めていると、彼女は硬い口をゆっくりと開いた。
「私、好きな人が今いるんですって言って、断りました」
「……それが、僕」
「はい。やっぱり先輩を諦めるの……難しくて」
そうは言われても、僕の感情が揺れ動くことはない。僕にも好きな人がいて、右左という守らなければならない存在がいる。その中で、彼女に関わることがプラスになるとはどうしても僕には考えられなかった。
「そろそろきっちり言わなきゃいけないかな。……僕は、君と付き合うことは出来ない。僕にも好きな人がいるから」
僕ははっきりと言い切った。彼女も落ち込む表情を見せるかな、と思ったのだが、意外にも彼女は少し寂しげではあるが、笑みを浮かべて首を縦に振っていた。
「分かってます、それくらい。でも、私、自分の気持ちが収まるまで、遠くから先輩のこと見ていたいんです」
「木島さん……」
「ご迷惑おかけしました。これからもお元気で頑張って下さい!」
彼女はそう言うと、そこから走り去っていった。その一瞬見えた横顔に、涙が浮かんでいたのを、僕は見たくなかったのに見えてしまった。
「そういう関係だったの」
背にふっと吹きかけられるような声。はっと振り向くと、委員長が苦笑を浮かべながら腕を組んでいた。
「ああ……見てたの」
「見てたっていうか、たまたま通りがかったから、話し終わるまで立ち止まっておこうって思ったんだけど。やっぱりあなたはモテるわね」
あなたがそれを言いますか。僕は「はは……」と堅苦しい笑顔を見せるのが精一杯だった。
「あの子、あなたに紹介された時から何かおかしいと思ってたけど、やっぱりそうだったのね」
「悪い子じゃないよ」
「いい悪いで判断するほど私も子供じゃないわよ。ただあの子、塚田君の妹さんの友達っていうのは嘘じゃないかって思ってたところ」
そこまで見抜かれていたなら、言うことはない。彼女は嘘を吐いていた。それは間違いない事実で、覆しようがない。
「でも、可哀想だと思ったんだ。せっかく勇気を振り絞って、僕のことを好きだって言ってくれて」
僕が小さな声でしみじみ呟くと、委員長は淡々とした声で返してきた。
「ねえ、塚田君。二宮さんに同じことを言われたらどうするの?」
僕はその一言にはっと息を飲んだ。この人は何を言っているんだろう、そう思うほど一瞬自分が錯乱する一言だった。
そうなってほしいと今まで願い続けてきた。でもそれが可能性として浮かんできた時どうするか、まったく想定していなかった自分に遭遇した。
委員長は薄く笑っている。でもその笑顔がとてつもなく恐怖心を煽って、僕はただ視線を反らすしか出来なかった。
「……委員長が気にすることじゃないよ」
「そう。でも二宮さん、以前会った時あなたと親しくしてた感じだから。ただの友達にしては違うかなって思っただけ」
「たまたま……知り合って気が合うだけだよ」
僕がもぞもぞと切れの悪い答えを返すと、彼女は長い髪をその細い指でさらりとすいて、僕に更に問いかけをしてきた。
「二宮さん、私が見た時学校の頃と違って大分綺麗になってたけど、あんなのだったら好きな人がいて声をかけたらすぐに恋人になれるわね」
「え……?」
「塚田君、考えたことなかったの? 二宮さんに好きな人がいる確率。更に言うなら付き合ってる確率。もっとも、そうであってもあなたには関係ないかしら」
その言葉に、僕の胸は止まりそうだった。あんな綺麗な人が、喫茶店で接客業をしている。人に声をかけてもらえない能力があるとは言っても、彼女が心を開けばその力は弱くなる。その心を開いた相手が、店の常連にいたって、いや、僕の知らないところにいたって不思議ではないのだ。
どうしてそんなことに、僕は気付いていなかったのだろう。いや、知らない振りをして目を逸らしていただけかもしれない。
僕が無言になっていると、委員長は少しだけ笑って、僕の脇を通った。
「そろそろ教室に戻らなきゃ。また暇が出来たら一緒に映画行きましょう」
そして彼女は迷うことのない足取りで、無駄な音を立てず人混みで溢れる廊下を去っていった。
考えてみれば神様さんだって、神様であったとしても、感情を持った存在なのだから、好き嫌いはある。今のところ僕に嫌悪感を覚えているようには見えない。僕はクヌギの精霊に愛された、神様と接することの出来る存在だ。
でも神様さんが、そんなのを無視して、力を封じて好きな人を作っていたら。
そんなのを考えるだけで僕の心拍数が一気に上がっていって、得も言われぬ不安感が僕を襲っていった。
彼女が心を開いて、接する。クヌギの精霊に愛されなくても、結ばれる可能性があるのではないか。
僕はどうすればいいのか。彼女の本心を聞ければ一番楽なのだが、僕の心を教えていないのに自分のことを教えろというのは虫が良すぎる。
やっぱり、そろそろ自分の気持ちを伝えなきゃ駄目だ。それがあの人を好きになった僕の最大限の敬意だと思う。
思いを告げる。それを思っただけで、呼吸が苦しくなる。今が中間や期末の季節でなくて良かった。こんな状況で試験を受けたら死亡間違いなしだ。
……右左のことはどうしよう。僕に両立出来るのだろうか。
今まで考えたことのなかった不安が一気に押し寄せる。でも、進まなきゃいけない。自分の弱さが嫌になる。これで一番嫌いな父や母に反抗しようというのだから、まったくもって情けなさしか感じられない。
弱さを捨てるしかない。頑張ろう。僕は生徒手帳を取り出し、その日をいつにするか、日取りを見ていた。
それにしても、こんなことの第一歩を後押ししたのが、委員長と木島さんというのが、何とも言えない人生の複雑さを感じる。あの二人に影響されることなんてそんなにないと思っていたのに。
でも、委員長に言われて決心はついた。進むしかない、僕が迷って他の誰かの人になる前に。口元をぎゅっと締めて、自分に気合いを入れる。何事もまず自分が一歩を歩み出さなきゃ進めない。
神様さんに振られたらどうしよう。そこを考えるとますます気が沈みそうだった。浮き沈みの激しい日にちがしばらく続きそうな気がする。
僕は吐きそうなほどの緊迫感に立ち向かうため、胸に手を当て、深呼吸をしながら必死にこらえて、また自分の席へと帰っていった。




