3/16 妹のための代理保護者面談
中間が終わり、期末までの間怠い時間がスタートした。
よその学校はどうか知らないが、この学園においては、三年の今頃は入試対策の勉強をすることがほとんどだ。
教室を眺めていると、疲れているのか眠っている奴もいる。それでもそれで成績が下がるのは「自己責任」とでも言わんばかりに教師は無視して授業を続ける。
一年の教室を眺めに行くと、右左が時の人となっているのを何度も見かけた。
美少女、成績優秀、おしとやか。モテない理由がない。
二年の人間も去年のアドバンテージで接近してくる……かと思えば、右左は二年の人間をほとんど知らず、一年の人間ばかり接して、そちらの顔を覚えたため去年同じ学年だったはずの二年とほとんど会話をしていなかった。
僕と右左の関係を知っている僕と同学年の一部の人は、右左に関して色々聞いてくる。勉強法、どのくらい告白されたか。そして下世話なことに、これから三年やっていくのにうまくいくかなど、だ。
お前には関係ないだろ、そう言いたくなったが、反論するのも面倒なので適当に嘘を織り交ぜながらいい加減な返事をしていた。
右左は、ここにいるより大学に行ったあとの方がもっとモテるのではないか。そう思うのだが、右左は高校で頑張る、それを第一目標としている。それが悪いというつもりはないのだが出来ればその熱量を大学まで保って欲しいと、兄の目線では考えていた。
そして僕は今、だだっ広い教室で、席に着いていた。僕の前にいるのは、右左の担任である土川先生だ。そう、今日展開されているのは保護者面談である。
彼女は僕の以前の担任経由で、僕の家庭環境を知ったのか、最初に親のことは聞いてこなかった。あんな親の話なんて聞いても、何一つとして面白くないだろう。
土川先生は僕を緊張させないためか笑顔を絶やさない。僕も付き合うように、苦笑めいた顔を作っていた。
「えっと、それじゃ楠木さんの成績については以上ね」
十分ほどに渡り繰り広げられた、右左の成績の話。今の時期から進路の話が出るのは驚きなのだが、右左の高得点に目を付けた教師陣からは、早速どこの大学がいいとか、そんな話が出ているらしい。
「楠木さん……右左ちゃんの方がいいかしら」
「どちらでも、先生のお好きな方で」
「じゃあ右左ちゃんで。うさって響き、うさぎみたいで可愛い名前よね」
「親は右も左も受け止めて真ん中を進め、という思いで付けたって言ってますけど、多分それ嘘で、先生の言う通りうさぎみたいな可愛い小動物であれと思い付けた名前だと思いますよ」
僕の真顔で淡々と告げる言葉に、先生はくすりと一度だけ笑った。
「今のままの成績を保っていれば、生徒会に入らなくても指定校推薦でいいところに行けるんだけど、うちの指定校推薦ってやっぱり限界があるから」
「まあ、本人もあんまり推薦は興味ないと思います。いつも自分の実力の限界でやりたいって言ってますし」
「それね……。端から見てると気負いすぎてる気がして怖いのよね。そのために、生徒会に入ってもらえたら嬉しいんだけど」
始めて聞く話。右左が生徒会というのは、僕の耳には入ってきていないことだ。どういうことだろうと身を乗り出してしまう。
「生徒会、ですか」
「生徒会で役職付きになったら、自然と交友関係が広がるでしょ。塚田君のいなくなったあとの二年間、そこで知り合った子達とうまくやれたら右左ちゃんにとってプラスになるかなって思ったのよ。駄目かしら?」
駄目かしらって言われても、そこは本人じゃないから分からない。
ただ、右左が生徒会に入ること自体は、マイナスというものを感じることはなかった。ただプラスになるかどうかまでは、ギャンブルに近い。僕の顔は、自然に硬いものに化けていた。
「そう言えば塚田君も生徒会に誘われてたんでしょ?」
「さすがに家事と学業がある中で生徒会までは無理ですよ。家事がなければ、生徒会には入れたと思いますけど、家事自体もう体の一部みたいなものですから」
「そういう風に、身の世話をしてくれる人がいるから、右左ちゃんの成績が伸びるんだと思う。あなたは自分のことをよく卑下するけど、もっと誇った方がいいわよ、自分自身のありきたりでいそうで、ありきたりでない努力を」
彼女に諭され、僕は黙った。家事も右左のサポートも、自分が出来る範囲でやることだ。そこに何かあればいいかななんていう色目はない。だが土川先生はそれを受け止めた上で自分を認めろと言う。
難しい話だね。右左が隣にいたら、そう告げたに違いない。
「先生、右左、クラスに友人が出来ましたか?」
「そうね、難しい判断になるけど、出来てないっていう方が正しい」
「……ですか」
「みんな、右左ちゃんに憧れて側にいたいと思ってるのよ。でもやっぱり、一度人と付き合うのに距離を取ってしまったから、相手の懐に入ることを忘れたのね。彼女がはいって一言言えば誰だって友達になれるのに、それが出来ない。彼女を預かっている身としては見てて辛いわ」
右左は苦労人だ。僕と離れた小三の夏から、僕の知らない右左の時間が始まった。
母はいたはずだ。だが僕がいた頃でさえ適当な生活に身をやつしていた母に、右左の面倒を見られたとは到底思えない。そして、僕は父から離婚した母が仕事の都合上転勤したとも聞いた。
あの人は母になれなかった。キャリアウーマンとしての自分を誇りにしていた。だから、娘が辛い思いをしても、鈍感そのもので構ってやることをしなかった。
そこからの右左は知らない。ただ反抗期になって、学校に呼び出されるなんて話は聞かされなかったので、何もかもを我慢していたのは間違いない。
そんな右左が、小さい頃から好きだったビーフシチューに逃避し、ついでに受験で勝ち抜いた高校からも逃げ出したのは、仕方ないと思う。むしろ、高校受験に立ち向かえたなと感心するほどだ。
同じ頃の僕は、虚無そのものだった。右左のように閉じこもるわけでもなく、友人なんていらないと開き直った。家事をやって、勉強をして、褒められても何とも思わない。考えてみれば、右左同様、僕もあの頃自分の人生に光を見出すなんてなかった。
この街に来て、神様さんと知り合うまで、恋愛なんていう一般的な感情さえ覚えることがなかった。いや、それ以前に人に優しくするという感情さえ忘れていた気がする。
神様さんのことは大事だ。ただ、それとは別に、保護者として右左を大事にする必要があると、土川先生との話で僕は痛感させられた。
「塚田君」
考え込んでいた僕に、土川先生の高い声が響いた。思考に頭を奪われ、周囲が見えなくなっていた。彼女の声に不意を突かれたようで、僕はしまったと感じた。
「何ですか」
「塚田君は今、右左ちゃんの面倒を見ながら生活していて、楽しい?」
彼女が何故そんなことを聞いてきたのか分からない。少なくとも「保護者面談」でする話ではないだろう。
ただそこに、他意はなかった気がする。僕はそうですね、と一拍間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「楽しいこともあります。でも、苦しいことの方がまだ多いです」
「そう。ありがとう」
彼女はそれ以上追求しなかった。何が聞きたかったのか、僕にはまったく分からない。ただこの人は無意味に人を詮索するような下世話なタイプではない。
……人に心配されるほど、僕の横顔はやつれて見えるのか。悲哀の中の自嘲。何も言えず僕は無言のまま空笑いを浮かべていた。
「とりあえず、今日のまとめを言っておくと、右左ちゃんは推薦は要らないのね」
「現在のところは。ただ人生何があるか分かりませんから、考えが変わるというのも可能性としてはあります」
「そうね。あと、あなたが家事全般を担ってくれてるおかげで、あの子の成績が維持出来ているというのも分かった」
「……まあ、そう言ってもらえるとありがたいです」
と、彼女は一度首を傾げてから、僕の目を恥ずかしいほど真っ直ぐに捉えてきた。
「でも、あなたも右左ちゃんも、いずれお父さんやお母さんと和解しなくても、話さなきゃいけない時が来るわ。その時に、自分の身の振り方をしっかり考えておくことはとても大事。それが私からのアドバイスね」
最後の最後に、嫌な一言を告げられた。あんなの親とも思っていないのに、血を分けた親子というのは最後の最後まで逃げることが出来ないのか。僕はただ苦しく口を結び続けた。
土川先生が立ち上がった。僕も同じように立ち上がり、礼をする。先生が扉を開けると、次の面談に臨む親がいた。
そして、その少し離れた階段の踊り場に、右左が壁にもたれかかりながら、俯いていた。
「右左、まだ帰ってなかったのか」
僕が声をかけると、右左はようやく笑って顔を上げた。右左は僕に一礼し、側に寄ってきた。
「面談のこと、気になって」
「家に帰ってから話せばいいのに。心配性だな」
「……今は、少し不安が先に来てますから。周りにはそれは悟られてないけど、いつも心の中でびくびくしてるんです。いつまた不安が襲ってくるか分からないって」
右左は――強くなったと僕が勝手に思い込んでいただけだった。いや、以前に比べれば格段に強くなったとは思う。だが、その内実にあるものは、恐怖と必死に戦う弱気な少女だった。
右左を守るために全力を注ぎたい。でも僕は、生まれて初めて、自分のための我儘とも言える神様さんとの関係も縮めたいと思っている。
何とか両立出来ないだろうか。足りない頭で考えても妙案など浮かぶはずもなく、窓から見える緑陽から覗く光が、僕の背後に生まれる影を強くしているように見えた。
「右左、どうしてあんなにビーフシチュー好きなんだ」
僕が訊ねた時、右左の声が一瞬詰まった。
「美味しいからです」
「それだけじゃないんだろ」
「……はい。お母さんが時々作ってくれたこと、それがずっと思い出に残ってて、一人で生活してた頃、ずっとずっと、色んなところで食べてました。あ、お母さんの作ってくれたのが一番美味しくなかったです」
右左は笑った。だがそんなまずいビーフシチューでも、右左にとっては大事なものだった。
右左からビーフシチューを引き剥がすのは簡単だ。だがそれに付随するメリットデメリット双方が考えられる。それは先に進むことと現状を大事にすることと同じだった。
「右左、僕はこの街に残ろうと思ってる。でも右左は、今までの分、我慢しない生き方をしてほしい。極端なことを言えば、大学に入って、勉強もしなきゃいけないけど、サークル活動に熱中したっていい」
僕の提言に右左は色よい顔をしない。右左はこの学園に入ってから、部活に所属していない。部活に誘われたこと自体はあるが、苦笑いと勉強が忙しいという言葉で逃げたのは知っている。
少し強めの言葉。それに右左が返したのは、僕の手を握るということだった。
「兄さん、兄さんの方こそどこか好きな街に行ってもいいんですよ。まだ一年ないくらいの日にちしか経ってないですけど、兄さんが支えてくれたから自分一人でも何とかなるって思ってるんです」
右左の優しい言葉に、僕は難しい顔しか出来なかった。そんなことを言っても、右左の現状においての張り詰めた感情がいつ爆発して、悪い方向に進むか分からない。右左は変わった。だが一年経たない程度の時間で、何年もかかって作られた右左の鬱屈した感情が収まるとは思えない。
出世欲も名誉欲もない僕に、どこか有名な大学に行きたいという気持ちはない。それが右左との関係を築く上で唯一運がいいと思うことだった。
「なんか、こういう話してると保護者面談したって気になるな」
「ですね。兄さんがお母さんの代わりに色々聞いてくれるの、本当にありがたいです」
「土川先生、右左の成績すごく褒めてた。推薦もどうって。右左は推薦嫌がってるけど、推薦も悪くないと思うけどな。半年遊べるし」
僕が冗談めかして言うと、右左は苦笑しながら首を横に振った。
「推薦で行っても、持続しなきゃ意味ないじゃないですか。さっき話しましたけど、まだ不安があるんです。四年ストレートで大学を卒業出来るか……」
「学費のことなら心配しなくていいのに。まあ、留年はちょっと印象悪いか」
僕は笑った。右左は同じようにはにかんだ。
「右左に似合う仕事かあ。飛行機のCAとか、医療関係とかそういうのもいいかもな」
「……今はまだ、そこまで考えられないです。でも、出来るなら人の役に立てる仕事をしてみたいです」
「人の役に立つ仕事、か」
そう呟いて、僕は自分が目標としている仕事が何か分からなくなった。最近担任から色々大学進学後のことを言われることがある。そんなことのために勉強をしているわけでもないのに色々言われる自分が、恵まれているのか面倒なのか分からなくなっている。
「右左、今度のシチュー、ビーフシチューじゃなくて、シーフードシチューにする。いつもの味と違ってクリームシチューだ」
「え、ええ……それは……」
「右左の栄養が偏っているのは僕の心配事でもある。だから少しずつ、変えていこうかなって思う。ただ、右左が絶対に無理だって言うなら、ビーフシチューのままにするつもりだ」
僕がきっぱり言い切ると、右左は項垂れながら「はい」と力のない返事をよこした。
緑陽の光が僕達兄妹を包み込む。太陽の日差しは平等だけど、人生に降り注ぐ光は完全にランダムで時に意地悪に進む。
右左はずっと優しい子でいられますように。
僕は空に昇る白雲を見つめながら、心の中で祈った。




