3/15 彼女が喜ぶわけ
中間が終わった。しばらく自由の身だ。
体中に溢れる開放感を感じながら、僕は神様さんの働くメイドカフェがあるいつもの駅に辿り着いていた。
今回はいきなり来たわけではない。事前に連絡してからやってきた。
今日はどんな感じになるだろう、少しばかりわくわくする気持ちを抑えながら、僕はメイドカフェの扉を開けた。
「お帰りなさいませ」
扉の先には、接客時の笑顔を作った神様さんがいた。
僕も笑顔で返すと、彼女は特にこれといった特別なことはせず、僕を席に案内した。
「ご主人様、何かお飲み物やお食事などご所望ですか?」
「そうだね……サンドウィッチ、アイスティー。あとバニラアイスを」
僕がそう呟くと、彼女はおかしげに口元を押さえた。
「どうかしたの?」
「いえ、今日はご主人様、よくお召し上がりになるなと思いまして」
「まあ……ちょっとお腹すいてるんで」
「分かりました。急いでお持ちしますね」
と、彼女は最後に眩しいくらいの笑顔を残し、そこから立ち去った。
長いスカートに白のエプロンの姿は、古き良きメイドの姿を見せている。その中で、彼女は軽やかなステップで、踊るように店の中で働いている。
彼女と同じく、ここで働くメイドさんであるきみかさんも、店で一番の人気者らしく、色々声をかけ、かけられを繰り返しながら、お客さんの一時を充実したものに変えていく。その人を笑顔に変えていく姿は魔法のようだった。
人には色々な人生がある。辛いこと、楽しいこと、様々な思い出を抱えながら、今を生きているんだと思いたくなる。その生きているという実感を得る、いわば心の中にある渇きを潤すために、きっとこういう場所へ来ているんじゃないか、僕は他の客席を見つめながら、つまらない思索にふけっていた。
しばらく待っていると、注文していた一式が運ばれてきた。神様さんはひざまづきながら、食事を並べていった。
普段よりメニュー数は多いものの、一品一品がそれほど多いわけではないので、一気に食べることが出来そうだ。
「ご主人様、何か嬉しいことでもありました?」
突然神様さんが笑顔で訊ねてくる。何かあったかな、僕は考えを巡らせながら、ゆっくりと答えた。
「いや、特に。というかそう見える?」
「何となく、ですね。ごゆっくりどうぞ!」
彼女は嬉しそうにステップを踏みながら、調理場へ戻っていった。
ただ僕は、久しぶりにここに来て、彼女の笑顔を見られただけで幸せだった。その幸せな僕に、彼女はまた笑顔を向けてくれる。それは筆舌に尽くしがたいもので、何故かぼおっとしながらサンドウィッチを口に含んでいた。
今日はみんな忙しそうだ。気軽に声をかけられる雰囲気ではない。
あ、きみかさんまたナンパされてるよ。それと比べて神様さんの声のかけられなさっぷり。ある意味凄いとしか言い様がない。
食事を終えて、しばらく店をぼんやり眺める。すると僕の持つ携帯が音もなく振動した。
メールの送り主は神様さん。僕はメールを開いて中身を見た。
『今から退勤。待っててくれる?』
神様さんからメールが来るのはいつものことだ。ただこんな風に懇願されるような感じは珍しい。どうしたんだろうかと、僕は若干の不安を持ちながら、『分かった、店の角で待ってる』とメールを送り返した。
僕が会計に行くと、まだ働くきみかさんがレジに立った。
「ご主人様、今からご出発ですか」
「ええ、まあ」
「双葉ちゃんの機嫌がいいのが気になるんですね。私も気になるんですけど、教えてくれなくて」
彼女は微笑を浮かべながらレジを叩く。僕はお金を払いながら、くすりと笑った。
「ご主人様、お気を付けてお出かけください」
「はい。ありがとうございます」
そして僕は店を出た。
夕方の五時。五月のそれは、まだ空を明るく照らしていた。
待ち合わせの角に行こうとすると、すでに神様さんが店の先で待ち構えていた。
「お待たせ」
「遅い! って言うのは冗談。私もついさっき出たとこだから」
と、彼女はやっぱりにこにこした顔で告げる。何かいいことでもあったのかな。僕は思いきって訊ねることにした。
「ねえ、何かあった?」
「え?」
「何かニコニコしてるって言うか……恋人出来たとか?」
「ち、ち、違うよ! 恋人出来たとかじゃない!」
神様さんは必死になって否定する。僕の中にあった少しの不安は拭い去れた。
しかし、なら何が彼女の顔をここまで笑顔にするのだろう。僕は首を捻りながら彼女を見つめ続けた。
「あのね、私、日記を書き始めたんだ」
「日記……?」
「その日一日、何か楽しいことがあったかなとか、そういうのを振り返るために」
「それが、嬉しいこと?」
僕が聞いてみると、彼女はこくりと首を縦に振った。
日記を書くなんて、面倒事でしかないと思う僕にとっては、彼女のその姿勢は不思議なものだった。それでも、彼女にとっては刺激的なものなのかもしれない。そう思うと、僕の顔も自然に柔らかなものに変わった。
「今までね、あんまり幸せじゃないなって思ってた。でも日記を見返したら、案外そうでもない、結構幸せなんじゃないかって思えるようになって」
「そっか、そういう部分で嬉しくなれるんだ」
「……ページの最後に、夢を書いててね。何パーセントまで達成出来てるかってメモしてるんだ」
「今は何パーセントくらい?」
「十パーセント行かないくらいかな。まだ道は長いって感じ。でも、そうやって自分が少しずつ進んでるって目に見えてきたから、頑張ろうって思える。それが嬉しい理由」
彼女は笑う。無邪気に。その横顔の幼さは、守ってやらなければという庇護欲を強くさせる。
僕の夢は何パーセントくらい進んだだろう。右左のことや、その他のこともたくさんある。でも、一番大切にしたい神様さんとのことはまったく進んでいない。早く言わなきゃいけない、そう思っているのに、いつも「今日は日が悪い」なんて思う。じゃあ、最高の日っていつなんだよと思うが、それもまた分からない。
僕の中にもやもやした感情が浮かんでいると、神様さんがそっと話しかけてきた。
「ねえ、この間電話でも言ってたけど、中間一位だったんだね。おめでとう」
「いや、別に嬉しくないよ。妹が一位だったのは嬉しかったけどね」
「それと同じ。妹ちゃんからしたらきみが一位なのは誇らしいことだし、きみは妹ちゃんの一位を喜ぶ。お互いに支え合いながら、笑い合えばいいんだよ」
彼女の言葉に僕は救われたような気がした。僕は右左と僕自身の関係を不必要なほどにややこしくしている気がする。そんな必要はない、そう思っているのに、右左を頼りない少女に見てしまう。
もっと右左を信頼した方がいいのかな。僕は神様さんの透き通るような白い肌をした綺麗な横顔を見つめながら、ふう、と息をついた。
「しかし学校楽しそうだなあ。残ってたらよかったかな」
「神様さんみたいな人が学校に残ってたらずっとナンパされてたよ。それがない方が僕としてはいい」
「……きみは私がナンパされない方がいい人なの?」
彼女がぽそりと呟いた。僕はしまったと彼女を見た。
彼女は上目遣いで僕の瞳を捉えていた。そんな目をされたら誤解するじゃないか。僕は苦しい思いを胸に押し込めながら、神様さんに微笑みかけた。
「神様さん、ナンパされたら断られなさそうだし」
「そんなことないよ。私だって……本当は……まあ」
「何かあるの?」
「あるような、ないような。きみに言うような話ではないかな」
彼女はけろっと笑顔を見せて、何もなかったかのように僕を見る。先ほど見せた、どこか妖艶な横顔とは違う、明るい年相応の少女の顔に、僕はただ黙っていた。
「ねえ」
突然神様さんが声をかけてきた。何だと思いながら、彼女へ振り向く。彼女はもぞもぞしたような顔で、そっと僕に告げてきた。
「大学受験、まだ先だと思うけど頑張って」
「……そうだね、頑張らなきゃいけないね」
「その……きみの夢の先に……」
と、彼女はそれ以上告げようとした先で、言葉を詰まらせた。
何か言葉があるのなら、しっかり言ってくれてもいいのに。でも彼女はそれを告げない。その言葉にもどかしさを感じながら、それでも彼女の側にいられることに、少しばかり天運に感謝していた。
「最近ね、夜寝る前に、きみと妹ちゃんの勉強がうまくいきますようにって祈ってるんだ」
「それは……ありがとう、本当に嬉しい」
「私に出来ることなんてしれてるから。きみも妹ちゃんも立派な人になれればいって、他人のことなのに強く感じてる」
「そうだね。僕も頑張らなきゃ」
僕の笑顔を見て、神様さんは笑った・
「きみはよく、私がナンパされなくて不思議だって言うけど、お姉ちゃんみたいにやたら絡まれてるの見ると、ああいう風になりたくないって思うよ」
「それはそうかも。でも、そんな感じなのに、神様さんと仲良く出来るのは、いいことだなって思ってる」
「……そう?」
「うん。神様さんは、見た目だけの人じゃなくて、僕に色々言葉で与えてくれる人だから。それを伝えるのは……難しいけどね」
僕の言葉に、彼女が笑うと思った。けれど現実はそうではなくて、彼女は何も言わず、僕から目を逸らしていた。
何かまずいことでも言ったのだろうか。僕は得も言われぬ不安に襲われる。
すると、彼女は黙ったまま、手袋をした手を、僕の手に重ねてきた。
「ど、どうかしたの?」
「まだちょっと寒いから! きみはまだまだ学校があるんでしょ。風邪ひかせるわけにはいかないし」
彼女の強がりに似た言葉に、僕の顔には失笑が浮かぶ。でも悪い気はしなかった。
僕達は手を繋ぎながら、駅へ向かう。こんな姿を他人が見たらどう思うだろうか。恋人と見てくれるだろうか。
しかしそれはまだ現実ではなく、遠い未来の先に見える話だ。その未来だって確実なものじゃない。
複雑な思い。それを汲み取ってくれる神様さんの思いも、まだまだ遠い話だった。




