人生の列車は途中下車出来るの?
それからしばらく、平穏と喧噪の境で僕は日常生活を過ごした。
授業は何事もなく終わるのだが、終わってから何故か周りに人だかりが出来る。いわゆる転入生補正という奴だが、自分がその立場に置かれるとは思ってもみなかったので、正直面食らっていた。
「授業お疲れ様」
僕の横から、ししおどしのような優雅な声が響く。僕はその声に頭を下げながら、そっと言葉を返した。
「そろそろ教科書届くって。ありがとう」
「別にいい。私がクラス委員長であること、あなたの隣の席であることは変わらないんだし」
僕の机の上に置かれていた教科書を手にしながら、彼女はくすりと微笑んだ。
現在教科書のない僕に、授業の進度や面倒など、一切合切を引き受けてくれているのがこのクラス委員長にして学園の委員会所属の長瀬由佳だ。本来の委員会活動が忙しいのに、彼女はこと僕の面倒に対し「クラス委員だから当然」と、そちらを置いた発言をしてくれる。席も担任が取りはからい、隣にしてくれたおかげで僕のここまでの学園生活に不自由はない。
彼女は自分の席に座りながら、先ほどの授業の片付けを終えた僕を頬杖をついて見つめる。
「前の制服も悪くないけど、今の方が似合ってるかな」
「そうだね。詰め襟ってそんな好きじゃなかったから、ブレザーになって少し嬉しいよ」
僕が静かに返すと、彼女はおかしそうに笑いながら席を少し近づけてきた。
「入試、余裕だったって先生に聞いた」
「余裕ってほどじゃないよ。今までの資産があっただけっていう言い方でいいかな」
「そういうのを余裕って言うの。妹さんと同じで、成績いいのね」
彼女の言葉がわずかに突き刺さる。僕は顎に指を当てて、しばらくして頬杖をつきながら彼女と向き合った。
「委員会の方で妹の話題出ることあるの?」
「一応ね。先生達はもういいってことにしようとしてるけど、委員会は放っておくわけにはいかないっていう立場だから」
「そっか、大変なんだね」
「……私は彼女に関して構わないと思ってるんだけどね」
伏し目がちに彼女が呟いた。僕は彼女の右左を肯定する言葉に、思わず目を丸くした。ここに来てから右左の生き方を否定する人ばかりに出会ったせいか、こういった言葉は少し驚く。ましてや右左とそれほど繋がりが強くない人からこうした言葉が漏れるというのもまた驚きである。
「委員長さんはどうしてそう思うの?」
「だって本人が選んだ生き方じゃない。レールに沿って正しく生きて、降りた先の駅でどうするかはその人次第でしょ。だったら途中下車でも何の変わりもないじゃない」
彼女の遠回しな擁護に、僕は少しだけ微笑んだ。彼女は僕と同じような考えをしている人だ。
「委員長さんは駅で降りたあとどう行きたい?」
「今はみんなが降りそうな駅に向かってるけど、降りた後は分からない。もしかしたら何となく南国に行ってる可能性だってあるしね」
彼女はおかしげに笑う。彼女は僕の面倒を見てくれるが、余計な一線を越えようとしない。この学園に来て知り合えてよかったと思える人の一人だ。
彼女は僕の目を見据え、微笑む。どうやら僕の答えも求めているらしい。僕はそうだね、と前置きして気の赴くままの言葉を流した。
「僕は森に行きたい」
「森に?」
「静かで落ち着いた、クヌギのある森。前に住んでたところ、自然がなかったから」
彼女は僕の意とすることを理解できないのか、小首を傾げた。それでも無駄に追求せず、目元を細めるのが、彼女の流儀だ。
「これから先の話もいいけど、今の話も。ここには慣れた?」
彼女の少し温かな吐息が僕の肌に触れる。僕は彼女から少し目を反らし、喧噪にまみれた教室内を見回した。
「慣れないことの方が多いかな」
「だよね。一週間そこらで適合出来る人間の方が気持ち悪いし、素直でいいと思う」
彼女は僕の意見に同意すると、細くすらりとした足を組んだ。きめ細やかな肌色に、太もものこすれていく姿が僕の視線を暫時奪う。
「以前の友達とはどこかに行ったりしないの?」
「ここで会ったら適当に話す程度かな。普段はまだちょっと」
「嫌なの?」
「そうじゃないよ。家事とかあるから、外出る余裕はあんまりないんだ」
「……大変ね」
「いや、家事は好きなんだ。だから大変とかそういう意識はない」
僕のその言葉を聞くと、彼女はしばらく考え込んだように黙り、突然自分の席に向き合った。
彼女はバインダータイプの小さな手帳から紙を一枚抜き出すと、そこに何やら書き記した。
「はい」
彼女は僕にそれを笑顔で渡す。電話番号と携帯のメールアドレス。僕はそれを受け取っていいものかどうなのか分からず、しばし無言に陥っていた。
「手伝えることがあったら手伝いに行くから」
「クラス委員って大変なんだね」
「まあ……委員会ってこともあるけど、個人的な興味も半分ってとこ。それとも、これ破って捨てちゃう?」
うまい躱し方だ。さすがにそう言われると、いや結構ですと突き返せなくなる。僕は困った末、もしかしたら何かの救いになることもあるかも、と自分に言い聞かせ、丁寧に手帳に閉まった。
「困った時のお悩み電話、そういうのでもいいんだけど」
「考えておく」
「考えてくれるだけで充分。私、塚田君みたいな生き方してる人見てると、ほっとけなくなるから」
彼女はそう告げ、足を組み替えた。僕のこの無関心を装う顔に、生き方が表れているのだろうか。それとも無関心を装う顔が生き方を推測させるのだろうか。表情の作り方もなかなか難しい。僕はしばし口を結び、今後についてわずかながら思案にふけった。
昼休みに入り、僕は約束通り、野ノ崎とミミに会うべく食堂へ向かった。一週間で出来た友人が、結局旧友であるというところに何とも言えない僕らしさを覚える。
食堂の端ではすでに二人が昼食を取りながらおしゃべりを繰り広げていた。野ノ崎はうどんとおにぎり。ミミはサンドイッチとジュースという組み合わせだ。
「お、来たか」
僕が声をかけるより先に、野ノ崎が僕に声をかけてきた。手作りの弁当を手に座ると、野ノ崎もミミも随分と嬉しそうに僕を覗いてきた。
「カズくんお弁当派なんだね」
「右左の生活に干渉する気はないけど、あいつの栄養状態は危ういと感じたから」
「で、昼食を作って置いておくか、いい奴だなあ、お前」
別に善人ぶるつもりでも何でもないが、右左の昼食を作っておくなら自分の昼食もついでに作った方が手間がかからないというだけだ。料理という物は一人前を作るより大量に作った方が楽という、基本の基本を野ノ崎は知らないらしい。
僕が箸を手にすると、野ノ崎はやけににやついた顔で、向かいから前のめりになってきた。
「何だよ」
「何だよじゃねーよ。早速学園中の噂になってるじゃねーか」
何の事だろうか。思い当たる節がない。僕は分からないといった素振りで、そのまま弁当の白米に手を伸ばした。
「おいおいおい! 俺を無視するのかあっっ!」
「いや、無視とかそうじゃなくて、単純に何の話か分からないってだけだ」
僕が淡々と返答すると、横からミミが申し訳なさそうな苦笑で、口を挟んできた。
「委員会やってる、長瀬さん知ってるよね?」
「ああ、教科書見せてもらったり、授業の進度教えてもらったり凄く助けてもらってる」
僕の言葉が想像以上にがっかりするものなのか、二人は思いきりため息をこぼし、同じように腕を組んだ。
「野ノ崎くん、カズくんのこれどう思う」
「こういう駄目な奴だから、委員長が惹かれたという説を俺は推したい」
僕を話の外に追いやって、二人は好き放題に話をしている。
さすがに何がどうなのか分からなくなり、僕は頭を下げて上目を向けてみた。二人も自分達の世界に没頭していたことに気付いたのか、ごまかし笑いを浮かべて僕に接してきた。
「委員長さんと僕に何かあるの?」
「はあ……お前、委員長からメアドと電話番号教えてもらっただろ」
「ああ……それか」
「それかって……。見てた奴がすげー興奮しながら話してたんだからな」
やはり僕には解せない。僕はメールアドレスを交換したわけでもないし、彼女からそれを受け取っただけだ。それが大騒ぎになるのは、特殊な事情でもあるのか気になり、野ノ崎の言葉の続きを待った。
「長瀬って今まで彼氏作ったことナシ、告白全部お断りって奴なんだぞ」
「はあ」
「もちろんそういう奴だから、メアド聞かれても断るし、全部切ってきた奴なわけだ。そんなのが自発的にメアドだけじゃなくて電話番号渡しましたってなったらどうなる?」
なるほどなあと僕はぼんやりと頷いた。
野ノ崎が騒ぎたい所以も分かる。しかし彼女がそうであると思う節は今のところないし、僕自身が彼女に大きな感慨を抱くには今一つ時間が足りない。何より彼女は委員会として、僕の妹である右左の心配のためにそれら連絡する術を教えてくれたのだと信じている。
「長瀬さんってすっごく綺麗だし頭もいいから、人気あるんだよ」
「うーん……」
「ミミ、駄目だ駄目だ。重度のシスコンのこいつに、普通の恋愛とか押しつけても悲惨な未来しか待ってない」
野ノ崎が大仰に手を上げてわざとらしくぼやく。確かに重度のシスコンである自覚はあるが普通の恋愛が出来ないとまでは思わない。
と思ってみたが、存外に野ノ崎が言っていることは間違いではないかもしれない。僕は右左の幸せを一番に考えすぎて、他のことが頭に入らない状態になっている。事実、長瀬さんがどうだとか、他人に言われてもまだ人ごとのように俯瞰している自分がいる。これではさすがに一般的な恋愛は無理かもしれない。
「長瀬の自業自得だな。やっぱり男は俺のように愛想とか人を思いやる気持ちとか――」
「野ノ崎くん、長瀬さん好きだったの?」
「あ、あっ! ミミっ! 余計な突っ込み入れんなっ! 関係ない、関係ないからな!」
と、野ノ崎はミミに大きく叫んだ。
ミミは野ノ崎に苦笑気味に謝りながら、僕へ笑顔を向けてきた。
「妹さんのことは大変だけど、カズくんはいい運勢巡ってるみたいだね」
ミミの告げたその「いい運勢」という言葉が、道路に吐き捨てられているガムのようにびったりくっついた。僕は右左を幸せにしたい。右左は幸せかどうか分からない。右左の幸せが僕にとって幸福だ。右左の幸福=僕の幸福という式が成り立つなら、僕の幸福は今のところないと言えるはずだ。
こんな僕であっても、他人にから見れば幸福なのだろうか。
僕の脳裏に神様さんの笑顔と、純白の下着の食い込んだ柔らかな尻が思い出された。
白米はやっぱり、おかずあってこそだ。僕はまだ委員長さんの話を続ける二人を脇に置き、そっと食事にありついた。