3/1 陽春の中、帰る
玄関の戸を開けると、まだ少し残る寒さをまとった風が肌を突いてきた。
気付けばこんな季節になっていたか。色々あった半年あまりを思い返し、息をこぼす。
「兄さん、ごめんなさい、遅くなって」
「いや、いい。それより、桜が綺麗に咲いてる」
思ったままの言葉を告げただけなのに、後ろから来た妹はおかしそうに笑っていた。
行こうかなんてことも言わず、僕は戸の鍵をかけ、歩き出す。その後に、あの止まった時間から進もうとする妹が共に付いてくる。
昨日始業式があり、新しい担任から頑張ってと励まされた。頑張るのは僕じゃなくて、妹なんだけど、と苦笑しつつ、ありがとうございますと頭を下げた。
そこかしらにある桜が芽吹いて、その合間合間を小鳥が駆け抜けていく。気持ちのいい陽春の温かさと寒さの入り交じった日差しに、今日という日を感じる。
ここからがスタート、そう分かっているのに、今日という日が一つのゴールのようにも思える。
振り返れば短い日々だった。でも、僕はここへ戻ってきた時、本当に今日のような日が来ると信じていただろうか?
いや、思っていなかっただろう。妹が引きこもっていても、それはそれで個性的な生き方だからいいとうそぶいていた。でも今、こうして新しい一歩を踏み出した妹を見て、人は進むことが出来るんだと心から信じられる。
「右左、今日から学校生活に戻るわけだけど、大丈夫?」
「……正直、怖さはあります。でも、それに負けてちゃ駄目だから」
僕の妹――楠木右左はそう答えた。塚田一宏、楠木右左。兄妹なのに、名字はまだ違う。父と母の仲は元通りになってきたのだから、そろそろ再婚を考えればいいのにとも思うが、あれはあれで気を遣っているのか、逆に籍を入れないという選択を取っているのかもしれない。
しばらく歩いていると、学校へ向かう新入生の姿が次々と見えた。僕は保護者として、右左の姿を見に行くという形だ。
明らかに学年が違うのに、制服姿で入学式に向かう僕が珍しいのか、周囲からたくさんの視線をもらう。一方の右左も、自然と主に男子からの興味深げな視線を浴びていた。
そう言えば、友人の野ノ崎が言っていたか。来年は大変なことになる、と。確かにその片鱗は感じる。右左は兄である僕が言うのも変だが、かなりの美少女だ。
その右左の争奪戦が起こるなんてことまでは信じていないが、かなり大変なことになるのは目に見えている。
それでも、人に求められるということは幸せなことだと思う。自ら孤独の沼に入り込んだ少女が、ようやくそこから抜け出して自分の道を行こうとしている。それを応援せずに何を応援するのか。
それにしても、先ほどから向けられている視線がかなりきつい。
「兄さん……」
右左が急に僕の名を告げる。どうしたのだろうと振り返ると、辛そうな顔で息が上がっていた。
僕は思わず右左の側に立ち、その肩を支えた。
「大丈夫か?」
「……ちょっと、久しぶりに人がたくさん来るところに来たから、緊張しちゃって」
と、右左は一度止まって、大きく深呼吸した。
青空が、僕達を飲み込む。
しばらくして右左は再び笑顔を見せた。
「兄さん、心配かけました。大丈夫です」
「本当だな」
「はい。頑張ります!」
右左は強い声で僕に返した。本人がそこまでの決意を持っているなら、僕が止める理由もない。僕はあえて何の反応も示さず、右左の進む道を共に歩んだ。
学校の正門は、いつもに増して賑わしい。子供の晴れ姿を見ようとする親、浮かれ調子ではしゃいでいる新入生。
右左がこれからまず行かなければならないのは、久しぶりの職員室である。そこで先に挨拶などを終え、入学式を終えた者達に混じるのだ。
右左はどんな顔をしているのだろう。ふと横目で右左を見た。
少し緊張はしているけれど、懐かしげで、緊張と安心の入り交じった、複雑な顔だ。
僕は靴箱に行き、右左に「ちょっと待ってて」と告げて靴を履き替えた。そこから戻ると、右左はあちこち見て、僕に指さしてきた。どこのクラスか割り当てている掲示板に貼り出された大きな表を見つめている。
1ーC。それが右左に割り当てられたクラスだった。
どんな人がいるか分からない。それでも、右左にとってはいざ挑戦する時間であり、これから先の未来に思いを馳せる時間でもある。
「とりあえず、職員室に行かなきゃな」
「はい」
僕は右左を連れ、この数ヶ月で否という程顔を出した職員室へ向かった。
教師も今日が一年の重要儀式の一つと認識しているのだろう、慌ただしく動き回っていた。
扉を開けた僕は、頭を下げ近くの教師に声をかける。
「済みません、三年の塚田です。今年から復学することになった、妹の楠木右左の挨拶に来ました」
僕がそう言うと、一瞬教師はきょとんとした顔をしたが、すぐ側にいた別の教師は話が分かっていたのか、横から「中に入って」と言ってきた。
失礼します。僕は礼をして、中に入る。その際、すぐ後ろにいる右左の顔を覗き込んだ。緊張で、足が震えているくらいだ。
それでも右左は、必死に自分の両足を信じて進んでいく。休学から戻るって、こんなに大変なことなんだな、と僕は難しくなる気持ちを心の中で必死に抑えた。
「校長先生に挨拶して。担任との挨拶は、入学式の後でいいから」
「分かりました。右左、そういうことだから」
右左は声にならないほどの微かな音で「……はい」と返答した。少し先が心配される。でも僕の知っている右左はこんな所で負ける少女ではない。僕はそれを信じ、右左を校長室へ連れていった。
「失礼します」
「どうぞ」
重厚長大な扉を開けると、柔らかな背もたれのついた椅子に、校長が座っていた。校長は柔和な笑みで僕達を受け入れてくれた。
「楠木さん、久しぶり。いや、初めましての方が正しいかな?」
「……済みません、あまり記憶に残らない人間で」
「いやいや、そんなことはないよ。ここへ戻ると決心しただけでも凄いことなんだ、誇りにしていい。私もこの職について長いが、君のように一旦休学を決めて、戻ると決めた子は十年に一人いるかいないか位だと記憶している。楠木君、改めて言おう。復学、おめでとう。そして、この学園を代表するような生徒になれるよう、頑張ってくれ」
校長の言葉が胸にしみたのか、右左は目元を覆って、嗚咽を漏らしていた。僕はそんな右左の肩を叩き、これから先に待ち受ける困難を、少しでも払ってやれればと痛感した。
話は終わった。あと少しで入学式だ。右左は入学式を一度受けている。そのため入学式の参加は免除らしい。先に教室に行くことで話はついている。
僕は右左を連れ、1ーCの教室がある二号棟へ向かった。
「右左、久しぶりの校舎。何か覚えてる?」
僕が静かに訊ねると、右左は辺りを遠い目で見回していた。
「覚えてるような……覚えてないような感じです。でも、やらなきゃ駄目だって感情があるのは確かです」
そうか、そう答え僕はまた歩く。
しばらくして着いた、右左の教室。そこに人は誰もいない。右左は座席表を見て、自分に割り当てられた席に着いた。窓際の、日差しが強く降り注ぐ席だ。
「一番乗りです」
右左は嬉しそうに言う。このペースをあと三年続けられるのか。不安もあるが、そこは右左の努力次第だと、僕は自分に何度も言い聞かせた。
今の時間だと、丁度入学式が始まった頃だろうか。壇上で色々な話をしているだろう。
右左はまだ誰も来ないことに気を許したのか、座ったままぽつぽつと喋りだした。
「私、今でも信じられません」
「何が?」
「こうしてここに戻れたこと。これからやっていくこと。全部知らないことで、大丈夫か心配になることもあるんです。でも今年一年は、兄さんがついててくれるから、大丈夫かなって、それが心の支えになってる部分もあるんですよ」
なるほどな。右左をこの学園生活に慣れさせるためには、僕が一年支えて、そこで慣らして二年目へと繋げていくことが重要なのかもしれない。
そう言えば僕も年明けには受験か。色々忙しいと言えば忙しくなるな。
ただ今気になるのは自分のことではなく右左のこと。そしてもう一つ、自分の中に隠し持っている恋愛のことだ。
今日くらい、そっちのことは忘れて妹の晴れの舞台に注視してやるのも悪くない。僕は頭を切り替え、教室の一番後ろに下がった。
それからどれくらいだっただろう。ほんのり射していた光が、強く眩しく教室を照らし出すものに変わっていた。
チャイムの音を聞いてからしばらく経った。そろそろ教室に人が来るだろうか。そう思っていると、突然人の声が複数聞こえてきた。同時に足音も響いてくる。
入学式が終わったらしい。右左はごくりと息を飲み込んでいた。
ざわざわと教室にたくさんの人が入ってくる。その大半が、すでに椅子に着いていた右左に目を奪われていた。
右左を遠巻きにして彼らが見ていると、担任が入ってきた。見たことのない若い女性の教師だ。新任だろうか。彼女が来ると、好き好きにしていた新入生達が一斉に自分の椅子に着席した。
「皆さん初めまして。これから1ーCの担任を行わせて――」
担任の自己紹介が始まった。それから順に、これからの心構えや何とか、色々な場面で聞いた憶えのある言葉が並べ立てられた。
「それじゃ、自己紹介してもらいましょうかね。まず……えーっと、阿津君? アツ君でいいのかな。自己紹介をお願いします」
少年が立つ。後ろでそわそわしながら見ているのはきっと彼の保護者だろう。
少年は親がいるということもあってか、変なことは言わない。彼は無事拍手で着席した。
次の少年が立つ。今度は親がいないということもあってウケ狙いの挨拶をする。周りが爆笑する中、右左は苦笑していた。
「それじゃ、次は、楠木さん、よろしくね」
「はい。あの、楠木右左と申します。この学園で、一年生をやるのは二度目です。皆さんからしたらちょっと変な感じかもしれないですけど、普通に接してもらえたら何よりです」
その右左の告白に、周りは驚いたような声を上げる。あんな可愛いのにとか、どうしてなんだろうとか、推測するような言葉が次々浮かぶ。
「はいはい、黙って黙って。楠木さんは本人も言った通り二回目の一年生だけど、成績は凄くいい人だから、皆さんに取っては高い壁になる人です。そこら辺、注意してね」
担任のフォローに右左は頭を下げた。僕は少し微笑んで、右左のこれからを静かに祈った。
「楠木さんの将来の夢は?」
「えっと、そういうのはまだ決めかねてて、まず学校をきちんと卒業出来るように頑張りたいと思います」
「はい、ありがとうございました。それじゃ次――」
右左は自己紹介を終えたあと、僕の方へ少し振り向いた。その顔は真っ赤で、とてつもなく緊張していたことが手に取るように分かった。
でもよかった。右左は何だかんだでうまくやれそうな気がする。こういう直感は割と当たる。僕は右左の姿を見て、そんなことを思った。
新章、スタートです。前回が毎日更新とか色々無理をしていたので、今回は(書きながらだったりするので)時々2~3日お休みを頂く時もございます。もちろん余裕のある時は毎日更新です。一週間休みを取ったらよっぽど書けてないのか病気で倒れたかとか適当なことを思っていて下さい。エタりはしない! ……多分。




