2/28 それでもあなたを想いたくて
その日、僕がこの学園に転入して半年ほどの集大成を迎えることとなった。
「はい、お疲れ」
担任が一人一人に通知表を渡す。僕は中身をちらりと見た。
予想通り程度の成績で、何の問題もなかった。他のみんなはどうなのか、気にならないこともないが、それ以上に気になることが一つあった。
それは今、ここで出来ることじゃない。僕は強い決意を持って、それを実行しようと思っていた。
「それじゃ、お前らとの一年間も終わりだ。次の一年、人生の岐路に立つことになる。後悔しない選択をすることだけ、俺は望んでいる。俺からはそれだけだ。それじゃ、起立」
そして、全員が立ち、礼の声に合わせて頭を下げ、二年という学年の終了を告げた。
担任が出ていくと、皆浮かれ調子で春休みの話題をしている。僕はそんな光景をほがらかに見つめながら、自分の鞄を手にした。
「塚田君、とうとうこの日が来たわね」
去ろうとする僕の前に、委員長が現れた。
「そうだね」
「成績はどうだった?」
「まあ、大体予想通り。八から十が並ぶ感じ」
「凄いわね。私は平均したら九にちょっと届かない感じでちょっと残念だったかな。でもあなたに指導してもらって、この成績を残せたんだと思う」
彼女は感謝するように、しみじみと呟く。僕はありがとう、と一言答え、自分の通知表を取り出した。
この数字は僕にとって大きな意味を持たない。右左の側にいること、神様さんと離れないこと、そこにこの数字はそれほど影響はない。
「塚田君、私ね、来年の生徒会会長に内定してるのよ」
「そうなんだ、おめでとう」
「おめでたいのかしらね……。引き受けてくれる人がいなかったから私だったって話もあるけど。あなたに勉強を教わってなかったらこんなことにはならなかったとは思うわ」
彼女ははにかんだ。そうか、目の前のことばかりに囚われていて、何も感じていなかったけれど、色々進んでいたんだ。
僕はこれから、自分の人生をようやくつかみに行くことになる。右左を幸せにして、神様さんと幸せになりたい。
でもその前に、人葉さんのことがある。それを置いて無責任に過ごすという選択肢は僕の中にはない。
委員長は僕の机の前に少し手を置いて、僕の目をじっと見つめてきた。
「来年一緒のクラスかどうかは分からないけど、機会があったらまた映画、一緒に見に行ってくれるかしら」
「そうだね、それくらいは大丈夫かな」
「ありがとう。それじゃ、私今から来年の打ち合わせがあるのよ。また会いましょう」
そして、彼女は静かにその場を立ち去った。結局、嫌悪感だのと言ってたのに、彼女にも救われていた部分があったと、僕は過去の自分を恥じた。
僕はゆっくりとその場を立ち去る。その廊下に、いつものように野ノ崎とミミが僕を待つように立っていた。
「一宏、お疲れさん」
「カズ君、お疲れさま。成績どうだった?」
野ノ崎とミミは、相変わらずの調子で僕のバランスを調えてくれる。外の桜は、少しつぼみを付けて、あと少しの開花を待つばかりだ。
「まあ、いつもと変わらないくらい」
「お前、二学期ん時の期末、なんか少しだけヤバくなってたもんな。あれ、何かあったのか?」
野ノ崎に覚えられているとは癪だが、事実は事実である。神様さんと再会して、一緒にスーパーに買い物したあと、浮かれてファストフード店で話し込んでいたことが原因とは言いがたい。
僕は何があったんだろうねえ、という顔で誤魔化した。
「それより野ノ崎、特訓の成果は出たんだろうな」
「もうそれは。赤点全部回避したぞー!」
それ、自慢になることなのか。とはいえ、今までの野ノ崎の出来からすれば、赤点の回避は特筆に値する。
「ミミは?」
「私も赤点回避くらいかな。やっぱり進路まだ決まんない感じ」
ミミは深々とため息をこぼした。この時期になっても進路が未定なのは流石にまずい。
「だからミミ、俺が前から言ってるように大学行っとけって。四年間遊べるようなもんだぞ」
野ノ崎がフォローになっているのかなっていないのか分からない言葉を発する。僕は頭をかきながら二人のやりとりを見ていた。
「あのね、野ノ崎君、私ね、最近考えたんだ」
「何を」
「自分にもしやりたいことがあるんだったら、専門学校に行って、その道の会社に勤めるのもいいかなって。考えてみたら、小さい頃にやりたかった仕事もいっぱいあるし、今やりたい仕事も結構あるんだ」
ミミの優しい口調に、野ノ崎は圧されたのか黙っていた。
人の道は誰かの影響を受けることは多々あるけれど、誰かに強制されるものじゃない。野ノ崎もその辺は分かっているのだろう。難しい顔で「そうだな」と答えた。
「もしそうなったらミミは一足先に社会人かあ。寂しくなるな」
「いや、そんな永劫の別れでもないんだから時々会えばいいだろ」
「ありがと。私もあと半年で、後悔しない進路選択する」
そして、ミミが歩き出した。その後ろ姿からは、先日までの迷いが消えたように見えた。
「帰るか、一宏」
「悪い、ちょっと一人で行くとこあるから」
「一人で行くとこぉ? 二宮絡みか?」
「だとしても、別に僕は後悔しない。野ノ崎、悪いな」
「ってお前!」
野ノ崎の追求を吹っ切るように、僕は走り出した。
二宮は二宮でも、僕が関わりたいのは二宮人葉さんの方だ。彼女と何としてでも会いたい。春日第一の終業式や試験休みと被っていなければいいのだけど。
いや、一つだけ方法がある。僕はその方法を胸にしまって、駅まで走った。
駅まで走る間、僕は無意識の内に色々考えていた。
突然僕の前に現れた、神様さんそっくりの人。
一方的なアプローチはただからかってるだけだよと言い続けたこと。
そして時折見せた弱さ。
僕は彼女の何を知っていたのか? 何も知らないのに、僕は彼女にぞんざいな態度を取ってきた。
それが今更許されるわけでもない。許されたいわけでもない。
ただ僕は、彼女と会って、きちんと向かい合いたかった。
駅に着いた僕は、春日第一のある駅までの切符を買い、電車に飛び乗った。
それほど遠くないのに、異様に長い時間がかかっている気がする。僕は何を言えるのだろう。何を伝えたいのだろう。
そんなものは全く浮かばず、会って何とかしたい、そんな自分にあるまじき思考で電車の窓から流れる外の光景に目をやり続けていた。
春日第一の駅に着いた。辺りには、人葉さんの着ていた制服と同じ格好をした女子生徒が多数いた。
こんなところで待っていて、人葉さんが見つかるのか。不安ばかりが押し寄せて、僕は心配げに辺りを行き交う人々を見つめていた。
寒風が駅の中を一瞬吹き抜ける。僕の心の中さえも通りそうな風に、僕は黙って胸を張った。
三十分待った。でも人葉さんの姿は見えない。さっさと帰ってしまったのかな。
僕は仕方なく、携帯を取り出し、メールを打ち出した。
大丈夫かな。少しだけ不安が過ぎる。
しばらくして携帯が震えた。
「お姉ちゃんに連絡ってどうかしたの?」
と、短い返信だ。そう、僕がメールを送ったのは神様さんだ。
もしかしたら神様さんに関係を誤解されるかもしれない。でもそれを解く術はいくらでもある。今はただ、人葉さんに会いたい、それだけだ。
「人葉さんに春日第一のとこの駅前で待ってるって伝えてほしい。メールも電話も着信拒否されてるから」
このメールを見て、神様さんはどう思うだろうか。不愉快に思うか、仕方ないと思ってくれるか。
しばらくして、また携帯が震えた。恐る恐る中身を見る。
「伝えておいたよ。来るかどうかは知らないけど」
と、その文面の最後には笑顔の絵文字が付いていた。
どうだろう……来るだろうか。家にもう戻っていたら、これ意味ないよな。僕はそんな思いを抱えながら、駅の改札前でずっと待っていた。
人葉さんは、僕に会いに来た時、ずっとこんな思いで待っていたのだろうか。だとしたら、僕はかなり彼女を傷つけていたことになる。
今更だ。それでも彼女にもう一度笑顔を取り戻してほしい。僕はそんな気持ちのまま、昼日中の駅口で待っていた。
一時間が経った。来ない。
二時間が経った。やっぱり来ない。
二時間半が経った。それでも来ない。
やっぱり、拒否されたかな。僕は諦めがちに、駅口から去ることにした。
と、動き出した僕の視界に、難しそうな顔つきで俯いている少女の姿が見えた。
人葉さんが、柱の影からこちらを見ていた。
もしかして、もう着いていたのに僕の前に出てこられなかったということか。そんなこと、気にしなくていいのに。僕は笑いながらゆっくりと彼女に近づいた。
「待ってました」
僕が言うと、彼女は踵を返して駅に行こうとする。
「待って下さい! どうしても、僕はあなたと話がしたいんです」
その一言で、彼女は止まった。どうして止まってくれたのかは分からない。でも、何か響くものがあったのだろう。
「場所、移しますか?」
「……ここでいい」
そういう彼女の声に、力はない。元気だった最初の印象が嘘のようだ。
この人と知り合って、また三ヶ月ほどしか経っていない。でも、僕にとってかけがえのない人になったのは間違いない。
僕は彼女と向き合うように立った。彼女の視線は下を向いていて、僕を捉えようとしない。
「……何、呼び出してまでしたい話って。あ、先に言っておくけど、君と付き合う気はないから」
「別に、それは構わないです。でも僕は謝りたかったんです。あなたを傷つけたこと」
「傷つけた? 君に傷つけられた覚えなんてないけどなあ」
彼女は冷笑気味に答える。その姿が、とてつもなく無理に見えて、僕の目に痛々しく映った。
「僕は、人葉さんの言ってることが全部冗談だと思ってました。でも、人葉さんがこの間泣いた時、僕はようやく気付きました」
「何に」
「……僕は人の心を何にも考えずに生きてきた。それが本当だとしても、可能性の問題って言って逃げてきた。僕のうぬぼれかもしれません。人葉さんは、もしかしたら本当に僕のことを思ってくれてたのかもしれない。そう思った瞬間、凄く辛くなったんです」
人葉さんは黙ったまま、俯き続ける。僕は言葉をただ続けた。
「僕は神様さんが好きです。好きというより愛しています。だから、あなたと付き合うっていう選択肢は今はありません。でも、それでも僕にとってあなたが大切な存在であるのは何にも変わりません。あなたとすれ違って終わりなんて、寂しい関係で終わりたくないんです」
僕がその一言を告げた。すると彼女は顔を上げた。
彼女の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ち出す。それは、今まで見てきたどの姿とも違って等身大の二宮人葉が見えてきた。
「そんなこと……今更言わないでよ……!」
「確かに今更です。でも今を逃したら、本当にあなたと別れることになるから。あなたは、神様さん……双葉さんの姉なんです。大切な人なんです」
「……なんで、なんでそんな大切なこと、こんな遅くになっちゃったの?」
「僕が弱くて、逃げてばっかりだったからです。でも、僕はようやく、逃げない生き方を人葉さんから教えてもらったような気がします」
そう告げて微笑むと、人葉さんの涙は止まらなくなり、僕の胸元に抱きつき思い切り泣きじゃくった。
「好きだよ! 双葉がいるの知ってるけど、好きなんだよ! どうすればいいの!」
「……好きじゃなくなるまで、自分の気持ちに正直に生きればいいと思います」
「無責任だよ、双葉にまた負けるの、私……!」
「その答えは、僕が神様さんと付き合えるようになってから導き出せばいいじゃないですか。僕は神様さんを愛していますけど、人葉さんも好きですし」
「……ただのからかいだったのに、初めて私の目、真っ直ぐ見てくれた……だから本当に好きになっちゃって、どうしようと思ってたのに……」
「いいと思いますよ、それも。僕がついています」
僕の胸で人葉さんはずっと泣く。周りを通る人が、少しびっくりしたような目で見ていたりもするけど、それも悪くない。
結局、人葉さんは五分ほど僕の胸元で泣いた後、ゆっくり顔を上げた。
目尻を拭う仕草が、妙に色っぽい。ただ、その先にいた人葉さんの笑顔は、優しくて温かい作り物じゃない顔だった。
「……言っちゃったな、本当に好きだったって」
「それはそれで別に構わないと思いますよ」
「双葉から取っちゃって可能性は感じないの?」
「人葉さん、そういうことが出来る人じゃないと思ってますから」
僕の言葉に人葉さんは笑う。
「そんなことないぞー。取る時は取っていくのは人葉さんだからね」
それもどこまで本当なんだか、と僕は歩き出した。すると、人葉さんは僕の手のひらをきゅっと掴んできた。
「初めてだね」
「何が?」
「こうして自然に素肌同士でふれあうの」
そう言えば、いつも服の上からばかり腕を組んでたりしてたか。
人葉さんの手は、寒風に吹かれて少し冷えている。それでも内にこもった熱さが、僕の熱を少し上昇させていた。
「双葉にはちゃんと言うよ。振られたって」
「……そんなこと言う必要はないと思いますけど……」
「はははー冗談。まだ、私の恋は終わってないからね。頑張る」
段々といつもの人葉さんに戻っていく。それが僕はとてつもなく嬉しくて、温かな思いになっていくには充分だった。
三月の冷えた空に、薄明るい青空が広がる。
僕は人葉さんと手を繋ぎながら、駅の窓から見える光景に、明日の希望を見出していた。