2/26 簡単なことを簡単にするために必要なこと
勉強会も数回こなし、僕達はいよいよ期末試験と向かい合うこととなった。
野ノ崎は結局、数学ばかりに手を取られ、他の苦手とする科目に手を着けられなかったが、それでも本人曰く自習で頑張ったとのことなので、それを信じ送り出した。
ミミはこつこつやったのが功を奏したのか、国語の苦手が少し取れた感はあった。
ただ、僕の頭の中には、あの光景がいつまでも脳裏に焼き付いていた。
人葉さんを泣かせるつもりなんてなかったのに。あの人は馬鹿なことを言って、僕をからかってお姉さんぶる人だったはずだ。それなのに、僕は彼女に悲しい顔をさせてしまった。
気がつけば、神様さんのことより考えている日もあった。神様さんに電話をしても、そのことを話すことは出来ない。
迷いが試験に出なければいいが。僕は気持ちを切り替えて期末試験に挑んだ。
試験が全て終わったその日、担任がホームルームの時間にやってきた。
「はいみんな、期末試験ご苦労。これで赤点取らなかった奴は安心して三年になれるな。赤点取った奴は気合い入れて三年に上がることを考えろ」
いきなり厳しい言葉だ。
「採点が終わって通知表を返したら、このクラスでやってくのも終わりだ。新しい奴とも知り合うだろうし、知ってる奴とまた一緒になることもある。次のクラスでも、頑張れよ」
担任が笑った。思えばこの人にも嫌悪感を覚えたことがあったが、右左の復学におけるサポートや、色々面倒な手続きをこなしてもらった恩もある。
そう、この学園の人達は、神様さんのことさえ除けば、いい人達ばかりなのだ。そこが僕とみんなのかみ合わない一番の原因だとも分かっているのだが、なかなか思考のギャップを取り除くのも難しい。
担任が挨拶を終えて教室から去る。そして、教室には安堵のため息と歓喜の声が溢れた。
これから試験休み。そして通知表が返ってくれば春休みだ。
それが終われば、右左が帰ってくる、この場に。
でも僕は、それに集中していたはずなのに、右左のことを思えていなかった。人葉さんの涙の意味を知りたくて、僕はそればかり考えていた。
まるで、神様さんと別れていた時のような、胸に強い焦燥感を覚える。
「塚田君、お疲れ様」
椅子に座ってぼおっとしていた僕に声が掛けられた。顔を上げると、委員長が僕の顔を覗き込んでいた。そんなのにも気付かないくらい、僕は意識をあの人に奪われていたのかと、自虐の笑みを浮かべたくなった。
「ほとんど今日で、あなたと一緒のクラス、終わりね」
「いや、次も一緒かもしれないし、悲観的な予測はやめよう」
「ふふ、次も一緒だといいんだけど、どう振り分けられるか分かんないし。でも一緒になれたら嬉しいわね」
彼女は僕の真顔の返答が面白かったのか、くすりと笑って返した。
確かに来年同じクラスにまたなる可能性はある。ただそれなりに人数の多い学校だ、どうなるかは分からない。
「塚田君はこの休みの間何するの?」
「何か……何も考えてなかった」
「一緒にどこか行く?」
彼女が僕の目を捉えて笑む。僕は一笑に付した。
「いや、妹の世話とかあるから」
「そうね。妹さん、最後の総仕上げの時期に入ってるもんね。本当に楽しみ。妹さんが登校してた頃、凄く美人の子が来たって噂になってたんだけど、私、見られず終いだったの。だから余計に気になっちゃって」
その言葉を聞いて、先日の野ノ崎の騒ぎようを思い出す。学校中で右左争奪戦が始まるというあり得ない話だ。
……あり得ない話なのか?
そうとは言い切れないのが自分でも情けなかった。僕は一度、不幸な楠木右左に恋をして、その流れで出会った神様さんに右左へぶつけられない気持ちを仮託した。でも結局、僕は不幸な楠木右左が好きだっただけであり、幸せに向かう右左を思っていなかった、人でなしだった。
そんな僕を支えてくれた神様さんが、とてつもなく愛おしくなって、いつの間にか僕の恋愛対象は彼女にすり替わっていた。
でも、今難しい局面に来ている。神様さんの姉である人葉さんにあんなことを言われて、何も出来ない男になってしまったのかと、自分を責めるような言葉が連なっていく。
久しぶりにメイドカフェにでも行ってみるか。そこで何も言わず、神様さんの働いている姿を見て、気分を落ち着かせよう。
僕は席を立ち、そのまま駅へと向かった。
何回か来ただけなのに、気分の落ち着く街だと感じさせられる。ここには右左もいない、委員長もいない、人葉さんもいない。神様さんと僕だけがいる街だ。それがリラックスするような気持ちを与えてくれているのだろう。
「お帰りなさいませ――」
店の扉を開けると、神様さんがにっこりと微笑んでから、大きな目を皿のように丸くしていた。
「帰ってきました」
「どうぞ、こちらへ」
彼女はすぐに切り替え、接客モードで僕を席に連れていく。今日は試験終わりの日なので、ここには日の高い内から来られた。周囲を見回しても、お客さんは僕だけだ。
「これはこれは、どうもお帰りなさいませ」
実年齢五十歳、見た目は三十半ばの執事長が現れた。僕ににっこりと微笑みながら、何故か僕と同じ席に座っていく。
「いつもお帰り頂きありがとうございます」
「いえ……何か用ですか。出禁にするとか」
「あはは、旦那様のような模範的な方を出禁になんて致しませんよ。今日は少々、旦那様のお顔にお疲れが見えましたので、よければ私に話して頂けないかと思いまして」
この人、以前から不思議な人だと思っていたけど、やっぱり変な人だ。
でも、こういう時に話をした方が楽になれるのかもしれないな。と、僕が考えていると、神様さんがメニューを持ってきた。
「お昼食べたかったんですよね。いつも気になってた、この執事長の情熱プレートで」
「承知致しました。それでは、メニューが出来ましたら、カウンター席でお話をお聞かせ願えますか」
「はい」
と、答えると、神様さんが僕の顔を覗き込んできた。
「あの……執事長と何話すの?」
「分かんない。……ただ最近、ちょっと迷ってることがあって」
「……私じゃ駄目?」
「神様さんにも近いうちに話すよ。これは、僕がけりをつけなきゃいけない話なんだ」
そう言うと、彼女は少しだけ寂しそうな顔を見せたが、すぐに明るいいつもの笑顔に戻ってごゆっくり、と頭を下げて立ち去った。
しかし写真で見ると凄い大盛りの定食といった感じのメニューだったけど、食べきれるだろうか。僕がそわそわしていると、執事長が「出来上がりました」と、声をかけてくれた。
僕はカウンター席に移動し、執事長の情熱プレートというメニューを目にした。
タコライスがかなり盛ってあって、その隣にナポリタン、フランクフルトにでも使いそうなソーセージ、そして謎の赤いソースがたっぷり入った小鉢。
この赤いソース、ヤバい感じがする。僕はフォークの先に少し付けて、それを口にした。
……辛い。激辛。これはたっぷり付けると後悔するとすぐに分かるレベルだ。
「タコライスにかけてもよし、ソーセージに付けてもよし、ナポリタンに混ぜるもよしの万能調味料でございます」
「……出来ればかけたくないんですが」
「いえいえ、せっかくですので。この辛みが癖になるんですよ」
執事長にしつこく推され、僕はタコライスに激辛ソースをかけ一口食べた。……辛い。
それでも仕方なく色々食べていく。ただ癖になる味というのは嘘ではなく、段々と食べている内にこの辛みがなければ物足りなくなってきたのが、逆に怖かった。
「食べた……」
執事長の情熱プレートは、その名に違わず情熱の集合体だった。山盛りの炭水化物に僕の胃袋は限界を叫んでいた。
そんな僕を見て、執事長はふと笑いながら、カウンター越しに頬杖をついて僕を眺めてきた。
「完食頂きありがとうございます。それでは、お話でも致しましょうか」
「そう、ですね……」
何から切り出そうか。僕が迷っていると、執事長はくすりと微笑みながら、腕を組んだ。
「私も迷っていた時期がありました。ゲーム業界で働いていて、それなりの地位にも就いた。でも当時の私は周りが見えていなかった。人を駒のように扱った。そのことに気付いて、会社を辞めました」
執事長の静かな言葉が僕以外客のいない店に響く。きみかさんは、その言葉を聞きながら何度もこちらを見てくる。
「一度やったメイドカフェもよかったのですが、なんとなくコンセプトと合致しない。そしたら昔の名前で町おこしの話が来て。それが終わるのに三年ほどかかって、またメイドカフェをやりたくなったんです。今度は、自分の人生の終わりのための仕事として」
執事長はそれを淡々と語る。そこになんの迷いもなかったように。
でも分かる。この人がここに店を開けるまでに、相当な悩みがあったと。
僕は、静かに自分の悩みを語り出した。
「僕は、何も守れない人間なんです。執事長さんと同じで、守りたいって思っている人がいるのに、いつもいつも、守りたい人を逆に傷つけてる。そんなつまらない自分が嫌で嫌でたまらなくて、どうしようもなくて、嘆いてばっかりなんです」
自信のない言葉が辺りに響く。店の奥から、神様さんが心配げに覗いていた。
すると執事長はくるりと後ろを見て、彼女に一言告げた。
「双葉くん、バックヤードの掃除お願い」
「え、もう片付いてますけど……」
「細かい埃がちょっと残ってたよ。頼むね」
と、彼に指示され、神様さんは不承不承といった面持ちで店の奥に消えていった。
「単刀直入に訊ねましょうか。旦那様の悩みは、双葉くんにあるのではないのですか」
「……分かりますか。そうです。あの人に何も言えてないけど、好きです」
好きです。その言葉だけは小さく呟いた。だが執事長はそれを笑うこともなく、ふむと一つ頷いてから、また優しい笑顔を浮かべだした。
「ふふ、見てて分かりますよ。ただ、勇気がないのは正直、困ったものですね」
彼は天井をおもむろに見あげ、ふう、と息を吐いた。
「勇気なんてそう簡単に出るものではありません。私も昔の仕事仲間に過去のことを謝る時、前日になっても緊張しました。気にしてないよ、その一言をもらった時、涙が溢れ出ました。勇気というのは自発的に出せるものではありません。その時になれば、自然と生まれるものですよ」
執事長はコップを拭くと、僕にもう一杯、ハーブティーを差し出してきた。
「これはサービスということで」
「でも……僕が聞いてもらっているのに……」
「いえいえ。人と話すことでこちらも勉強になるのです。旦那様のような方は大切な存在です」
人柄の良さをふんだんに表しながら、彼は僕に微笑みかけた。横で聞いているきみかさんは僕の本当の思いを聞いて、くすりと笑っていた。
「でも、いつかは言わなければなりません。苦しいことを避けていれば、痛みはありませんが先に進むこともありません。旦那様がどのような決断をされるのか、最高の結果を見つけられることを、私はいち個人として、望んでおります」
世の中には色んな人がいる。冷たい人、温かい人、世話焼きな人、妄信的な人。でも、こんな風に、店に少し来ただけの客へ温かな言葉を告げてくれる人がいることが、今の僕にとってこれほどない幸せだと思った。
執事長は笑って、きみかさんに目配せをした。きみかさんは奥へ走っていく。そして神様さんを連れ戻ってきた。
「じゃ、僕は今から調理の準備を調えるから、後のことは君たち二人に任せるよ」
「あ、はい」
去る執事長を見て、神様さんは少し俯いている僕をじっと見ている。どうやら小声で呟いた「好きです」という声は聞こえていなかったらしい。
神様さんは僕の横について、心配げな表情で僕の横顔を窺ってきた。
「ねえ、守りたいのに傷つけたりとか言ってたけど、大丈夫?」
「……執事長の言葉にちょっとだけ励まされた。でもそれは、僕が解決しなきゃいけない問題なんだ」
「お姉ちゃんのこと?」
神様さんは核心をついてくる。僕はどう返答したものかと悩んで、静かに返した。
「人葉さんのこと、妹のこと、学校のこと、どれもこれも今、中途半端な状態で何やってるんだろうって思ってる」
「私のことは中途半端じゃないの?」
「……一番中途半端かな。でも今は分かる。一歩踏み出すのがこんなに難しいことなんて、知らなかった。今まで本当に感覚だけでやってきた、いい加減な人間だったんだって」
僕は項垂れながら、サービスで出てきたハーブティーに口をつける。
神様さんは、くすりと笑って、僕の額を小突いた。
「君、何歳だっけ?」
「……十七だけど」
「で、そんな年齢で人生達観しちゃってるわけ? 達観出来るほど何か掴めてる? まだまだ修行中の身でしょ。考える前に、ぶつかってみなよ」
その言葉に僕は黙っていた。嫌で黙っていたわけではない。その言葉が心に沁みて、どう返事をすればいいのか分からなかった。
でも僕がすべきことは、確かにぶつかることなのかもしれない。
そうだ。人葉さんにもう一度きちんと向かい合おう。そうじゃなきゃ、神様さんにも不義理を働くことになる。
弱い自分を肯定していちゃダメだ。強くはなれないけど、向かい風に真っ向から進んでいく気持ちくらいは持ちたい。それが、執事長の言っていた勇気なんだと分かる。
「ありがと。ここに来てよかった」
「そう。そろそろ他のお客さんも来る頃かな。また電話で話そうね」
彼女は最後にくすぐったそうな笑みを残し、客席のテーブルを拭き始めた。確かに、そろそろ常連客が来る時間帯ではある。
『勇気』
簡単に使ってしまう言葉だが、いざ本当に使おうと思うと難しい言葉だと強く意識させられる。執事長も、昔のその瞬間、本当にきつかったのだろう。
僕に必要な勇気。それはまだはっきりとは見えないけど、少しずつ形作られてきた気がする。
色んな人が応援してくれているんだ、負けていられない。頑張ろう。僕は自分に強く誓った。




