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神様の白い尻

 帰路の途中、駅前のドラッグストアに寄った。自販機で飲み物を買ってもいいが、わずか十メートルそこらの差で値段が大きく変わるのは、ちょっとしゃくにさわる。

 それを言うなら、家に帰って水を飲むのが一番安上がりだろうとも思うのだが、何となく口当たりの良い飲み物が欲しかった。

 甘い紅茶を手にレジへ行く。目薬が売っていた。

 野ノ崎は昔、よく泣いていたな。そんなことを思い出し、僕は店員に声をかけた。

「あの、すみません」

「はい。何かお探しでしょうか?」

「目薬探してるんです。泣きまねがよく出来る目薬。やっぱりこの刺激の強い方が泣きまね出来ますか」

 僕がとつとつと訊ねると、店員は顎に手を当て、何種かの目薬を指さした。

「クールタイプは刺激が強いんですけど、染みこむ感じというか清涼感があって、泣きまねに適してるかどうか……どちらかといえば、刺激のないこれなんかが」

 僕は分かりましたと言った後、今日はやっぱりいいですと返答した。僕には野ノ崎のように人を笑わせるセンスがない。それを痛感したので目薬はいらない。

 飲み物を買って、帰宅する。歩いている途中で飲もうかと思ったが、歩きながら飲むのは息苦しい。かといって休んで飲むほどのことではない。

 結局家に着いてしまい、紅茶を飲んでも家で水を飲んでも大差なかったなと、悔し紛れに門の前で飲み物を開けた。

 庭先にあるクヌギはまだ夏気分なのか、綺麗な緑陽を付けたままだ。庭には他にも雑草とそれすらないプランターが存在しているのだが、どうにも僕の視界にはクヌギしか映らない。

 飽き性の母が花を育てると意気込んで、世話を出来なくなったのが目に浮かぶ。右左に世話をしろと言って、右左が四苦八苦した末にこの惨状にありついたのも十分理解できる。

 せっかくだから、今度雑草を取ろう。家がこれだけ綺麗になっているのに、庭がこの有様ではさすがに残念だ。

 昨日手に入れた鍵を手にする。以前のマンションで生活していた時よりも、ちょっと大きくて一瞬違和感を覚える。何度も触って以前の鍵の感触を消さなければいけない。

 扉を開けると「あ……」と小さな声がいきなり飛び込んできた。キャミソールのような薄手の格好をした右左と、偶然鉢合わせた。

 右左は一瞬僕を見るが、すぐさま視線を下にそらす。視線が重なり続けているとこちらも気持ち悪くなるので、むしろ都合がいい。僕は右左の姿を眺め続けた。

「ただいま」

「……お昼、ですよ。学校はいいんですか」

「今日は挨拶だけだったから。すこぶる穏やかだ」

 僕の言葉さえ右左は辛いのか、黙ったまま細い二の腕をもう片方の手で掴む。

「右左、昨日のごはん、おいしかった?」

「あ……はい、いただきました。上手……ですね」

「そうか、よかった。シチューは今も好き?」

「……ええ、まあ。時々食べます」

「じゃあ今度作るね」

 僕はそれだけ答え、靴を脱ぎ階段へと踏み出した。すると、僕の背に右左のか細い声が投げられた。

「あの……私がどうとか、干渉とかしないんですか」

「それが右左の幸せにつながるならするよ。つながらないならしない、それだけだ」

「……そう、ですか」

 落胆にも捉えられる、低いトーンの反応。でもその後に、わずかな吐息の音が聞こえた。

「そうだね、干渉もしないし、会話を強制する気もないけど、右左と一緒に夕食を取れるような生活はしたい。僕からはそれくらいかな」

 僕からの提言に、右左は答えなかった。だが代わりの言葉を僕に先ほどよりはしっかりした言葉で返してきた。

「あの、兄さん、でいいですか」

「僕の呼び方?」

「……はい。昔はお兄ちゃんって言ってたけど……離れすぎてたからちょっとまだ距離感が掴めなくて」

 そうか。やっぱり右左はいい子だ。僕はこの子を大切にしなきゃいけないんだ、そう強く再認識させられた。

「そうだね、綺麗な響きだし、いいと思う」

「……そうですか。それじゃ兄さん、その……はい」

 言葉の末に行くにつれ、右左の声は小さくなった。右左から兄さんという呼び名をもらえた。それだけでも今の僕には手に余るほどの幸せだ。

 もっと手を大きくして、腕も太くして、いやここは金だらいやカゴ、とにかく入れられるものをどんどん用意しよう。そこに僕は、右左から与えられるたくさんの幸せを詰め込むのだ。

 たぶん過保護。野ノ崎とミミの前で変なことを言ったな。僕は自省するように、こめかみを少しかいて、部屋に戻った。

 鞄をベッドに投げ捨て、詰め襟の制服を脱ぐ。今日校舎で見た男子達はブレザーだった。季節柄上を羽織って向かったが、天候の良い日はやはり暑い。ミミの着ていた女子の制服も、体のラインが綺麗に出るいいデザインだった。スレンダーな右左なら着こなせるのになあと、僕はほんわりと妹の制服姿を想像した。

 なるほど。この思考は自分でもかなり気持ち悪い奴だと分かる。ここのラインはちょっと死守する必要がある。いやはや、真剣にどのラインが危険かを指摘する野ノ崎は立派な常人ではないか。僕は成長したあの男への敬意を改めて感じた。

 ただ右左が僕の作ってくれた食事を上手だと言ってくれたのは素直に嬉しい。次はおいしいと言わせようと、心の底から意欲がわく。冷凍庫に数十秒入って頭を冷やした方がいいくらい、頭の中に熱が渦巻く。。

 善は急げ。僕はワイシャツ姿のまま、街へUターンするように食事の材料を買いに出た。

 昼の陽気な世界に僕はまた戻る。右左は夕暮れ以降街に出ると野ノ崎が言っていたが、昼の世界は出歩くのだろうか。

 もっとも、僕は青色を見て澄んだ色だと思うが、右左は悲しい色だと思うかもしれない。

 右左が元気であれば、何でも構わない。僕はそうだろうと横切った三毛猫に目を重ねた。三毛猫は馬鹿にするようにあくびをして、すととと向こうへ駆けていく。僕の意見を否定したかったのだろうか。

「嫌われてるねえ」

 前からのんびりした声がかけられた。おやと顔を上げると、そこには見覚えのある姿があった。あまり人の顔や名前を覚えるのが得意な方ではないが、昨日の今日、そして強烈なインパクトを残した人物となると話は別だ。

「ああ、神様さんか」

 僕の言葉に彼女は満足げに頷く。立派に発育した胸肉を押し上げるように腕を組む。またねと言った知らない人と再会した試しがないのだが、彼女はこの地に根ざしているのだろう、また会ってしまった。

「きみ、制服着てるけど、脱走したのかな?」

「まさか。そういう神様さんは?」

「神様は俗世に縛られないんだよ。ていうか、本当に私のこと信じてないんだね」

 彼女は相変わらず自分を神様扱いしない僕に不満をたれる。そうは言っても、彼女が神であると信じる要素がない。

「あの僕、今買い物に行く途中なんだけど」

「暇だしついてくよ」

 ついてきてくれても構わないが、彼女もよほどの暇人なのだなと感じる。

 彼女は胸を張り、元気に軽いステップを踏みながら歩く。短いスカートの端がひらひらする。彼女はちょっとした段差があるとそこにのぼり、少しでも高く景色を見ようとする。それでも僕の背には届かない。

「お、ここなら行けそうかな」

 と、神様さんは、駐車場の一メートル以上の高さがあるコンクリートの仕切りに手をかけた。危ないからやめた方がいいと思うが、彼女は挑戦をやめようとしない。

「手でしっかり塀を掴んでおいて」

「どうかした?」

「僕の腕を踏み台にして。そしたら上れる」

 彼女はそれに「よし!」と答え、僕の用意した腕の踏み台を一気に駆け上った。普通の人間はこういった提言をされても躊躇するのだが、そうしない辺りに彼女らしさを痛感する。

 さすがにそれくらいの高さがあると、当然僕よりも頭の位置は高い。どんな景色が彼女に見えているのだろうか、少し気になった。

「天気いいねー」

 神様さんは塀の上をバランスよく歩きながら言う。日差しの中に溶けた、下着が食い込むスカートの中の豊かな尻を後ろから眺め、僕は訊ねた。

「神様さんは天気がいいのが好きなの」

「日照りになるくらいだったら嫌いだよ。でも基本的に快晴はいいと思うけど、きみは?」

「どっちでもないかな。両方メリットデメリットがあるし、その時次第で自分がどう対処するかだから」

 彼女は嬉しそうに、両手を広げながらブロック塀の上を歩く。その度に僕の眼前に広がる尻肉が柔らかに震え、感嘆の息を漏らしたくなる。

「神様さん」

「何?」

「神様さんが神様だとして」

「うんうん」

「どこの神様?」

 僕の質問が不意打ちに近かったのか、彼女は足を一瞬止め、僕へと振り返った。

「どういう意味?」

「ほら、神様って言っても色々あるじゃない。三大宗教の神様だとか、八百万の神様だとか、知らない秘境の民族が信仰してる神様かもしれないし」

 僕の言葉に彼女はむくりとふくれた。

「私はここの街に根ざしてる神様だよ」

「ふーん、じゃあ結構長い時間生きてるの?」

「まあ……駆け出しだけど。でも神様は神様なんだから」

 彼女はどうしても偉ぶりたいらしい。いやはや、困ったものである。では、と僕は腕を組み少し高い位置にいる神様さんにお願いしてみた。

「神様さん、その持ってる力で僕に一生楽して暮らせるだけの大金をください」

「ああ、それ。出来るよー」

「本当に?」

「今、財布の中に少しはお金入ってるでしょ?」

「うん」

「で、川でも道路でも家でも好きな所で死ねっ! 今すぐ死ねば、持ってるお金が一生暮らせる金ってことになるでしょうがっ!」

 神様は口角泡を飛ばし僕に怒鳴ってきた。

「お金が欲しいのは人類共通の欲望だよ。それを否定されてもなあ」

「自分の努力もなしに人の力を頼らない。当たり前でしょ」

 昨日人に賽銭代わりのジュースをねだってきたとは思えない人物の発言である。しかしその発想はなかった。僕は得心し、彼女に核心を突いてみた。

「実は神様さん、そんな力ないだけでしょ」

「あのねえええええ! あんたは天満宮に行って金運のお願いする? 学業のお願いするでしょうが! 得手不得手があるのは人間も神様も同じなのっ!」

 まあ確かに、そう言われてしまうとこちらもこの願いを引っ込めざるを得ない。

「神様さんが神様らしいところをみせてくれないと、僕も神様だと思えないんだけど」

「といっても、別に神様だから何だって出来るわけでもないし。人間ではないけど」

 どう見ても彼女は人間なのだが、神様というアイデンティティにこだわる。塀の下から訊ねる男と、塀の上から語る少女という奇異な光景の中、彼女は持論を展開した。

「まあ正直言えば、まだ駆け出しだから人間よりちょっと出来るってだけだし」

「これから力をたくわえるの?」

「そんなとこ。この街は信仰の力が弱いから困るよ」

 僕はそれを聞きおかしな話だなと思った。願いを叶えるのが神様の役目なのに、神様自身が力を蓄えたいと願いを持っている。もし仮に彼女が本当に神様だとしても、本当に微弱な存在であるのは間違いない。僕は逆光に照らされる彼女のむくれた顔を見つめ続けた。

「まあでも、力を得たら、知り合った色んな人をたくさん幸せにするんだから」

「……神様さんは人の願いを叶えるわけじゃないの?」

「そりゃ願いを叶えるのが一番だよ。でも、やっぱり願いが叶うよりも、その人が幸せになることが、神様としては一番だから」

 彼女はまた真っ直ぐ歩き出しながら、明るいトーンで告げた。純白の下着に負けない真っ白な心に、僕の汚れた心が蝕まれそうだった。

 コンクリートの壁が終わり、家の壁が目の前に立ちふさがる。彼女は立っていた壁に腰掛け、軽いステップで道路に降りた。スーパーまではまだもう少し距離がある。だが彼女は、踵を返し、僕の肩を指先で軽くつついた。

「私と会ったんだから、幸せになってもらわなきゃ。きみも元気にするんだぞ」

「いや、君に僕が幸せがどうか分かるなんて到底思えないんだけど」

「ふふん、神様を侮ってもらっちゃ困るな。幸せかそうじゃないか、何となく分かるんだから」

 それはもしかすると、右左のことだろうか。僕が訊ねる間もなく、彼女は駆け足で現れた方向へ逆戻りしていた。

 神様か。うさんくさいし信じる気もないけど、彼女が人を幸せにしたいという気持ちだけはおぼろげに分かる。

 でも、僕がそれを頼ることはないだろう。一時の哀愁に流されて、見知らぬ誰かに右左の抱えたものを語ることほど、大きな裏切りはない。

 彼女は僕と知り合ったことを喜んでいるのだろうか。僕はふと考えた。そして僕は頷いた。彼女がどう思っているかは知らないが、僕はあのしっかりとした肉厚の尻肉を拝めただけで僥倖である。

 僕は彼女を追うこともなく、本来の目的であるスーパーへと歩んだ。

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