2/17 悩みの向き合い方
新年に入ってから早いもので、もう二月の足音が聞こえ始めてきた。試験はこの間やったというのに、二月末の進級試験に向けて授業が粛々と進められている。
野ノ崎は僕にあれだけ言った手前か、目を皿のようにして勉強に励んでいた。それが成績に結びつくのか結びつかないのかは、もう少し先の話だが、出来るなら結果を出してほしいと僕は願っていた。
そして、右左が学校へ戻るまであと数ヶ月。教師から授業用のプリントだけでなく、復学の手続きの書類などを、僕は受け渡されていた。
これが意外と面倒なもので、事務的な手続きのものから宣誓書のようなものまで色とりどりである。一度休んで復帰するだけ、という理屈は休学という特殊な人生においては通じない理屈らしい。
とはいえ、この手のプリントを渡されると、いよいよ本当に右左が学園復帰する日が近づいてきたのだと実感する。どんな光景を見て、どんな風に笑うのか。悲観的な意見はどこかへ消え失せ、僕には楽しみばかりが浮かんできていた。
今日は時間に余裕がある。僕は久しぶりに神様さんの働くメイドカフェへ向かっていた。
あの人、うまくやれてるのだろうか。ナンパとかされてないだろうか。されてなびいてないだろうか。右左のことはまったく心配していないのに、そんなありもしないことが妙に心に引っ掛かる。
電車を乗り継いで店に着く。夕方の店内は、いつも通りコーヒーを飲みながらノートパソコンを広げているお客さんや、ぼんやり天井を眺めているだけのお客さんなど、ただゆっくり出来る喫茶店を求めてきているお客さんで溢れていた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
僕が扉を開けると、軽やかな声が聞こえてきた。聞き間違えるはずもない、神様さんの声だ。
「どうも」
「……こちらへどうぞ」
彼女は余計なことを言わず、営業スマイルのまま僕を奥の席へ連れて行く。なかなか板に付いてきたじゃないか。僕はそんなことを思いながら、席に着いた。
先日は体調不良で休んでいた執事長こと店長は、サイフォンを前にして悠然と立っている。
今日は元気らしい、何か料理も出せそうな感じだ。
「ご主人様、何かご所望の品はございますか?」
伝票を持った神様さんが僕に訊ねてくる。僕は真顔を作って、彼女をじっと見つめた。
「注文は君を」
「……ご主人様、あまりイタズラが過ぎますと、どうなるか存じ上げてますよね?」
彼女は作り笑いのまま怒りを隠そうとしなかっった。
ごめんなさい。一度頭を下げて僕は改めて注文した。
「ハーブティーとシフォンケーキで」
「ハーブティーとシフォンケーキですね。了解いたしました。少々お待ち下さい」
彼女はそれだけ告げ、店の奥へ小走りで消えていった。
普段着ている服も似合っているが、清楚にまとめたここの制服もよく似合っている。天性の才能だ。
しばらくして、神様さんではなく、もう一人のメイドさんであるきみかさんが僕に注文の品を運んできた。
「ご主人様、ご注文の品です」
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。……双葉ちゃんのことが気になるんですか?」
彼女は僕に耳打ちするようにささやきかけた。否定する所以もない。僕はええ、とはっきり答えた。
「双葉ちゃん、あんなに可愛いのに、あんまり誘いかける人いないんですよね。時々突破しようって頑張る人もいるんですけど、すぐに諦めるっていうか。そういう意味ではご主人様は貴重な存在ですよ」
彼女はふふ、と笑って席から離れた。
誰かが話しかけても、近づけない存在。それは先日人葉さんの言っていた人を遠ざける力が働いているのだろうか。いや、そうとしか考えられないだろう。
僕はクヌギに見出された。だから神様さんと親しく出来る。いや、ちょっと待てよ。僕がそんなに選ばれた存在なら、付き合うことも出来るし、将来を見越すことも出来るのではないか。
……と考えて、自分が相当気持ち悪い考えをしていることに気付かされた。まずは彼女の感情だ。付き合う資格があっても付き合いたい人間であるかどうかは別だ。
右左の前で見せている姿よりしっかりしなきゃいけないな。僕は天井に取り付けられたエアコンを見つめながら、呆れたように吐息を漏らした。
ゆっくりと、周りの人達と調和するようにハーブティーを飲む。そんなにこれが好きというわけではないが、ここで飲むこれは気持ちを落ち着けてくれるものだった。
シフォンケーキもふんわりと仕上がっている。そういえば、菓子作りはそんなにしたことがないな。今度右左のために作ってみるか。
と、僕が落ち着いていると、携帯が震えだした。そっと誰からか確認する。
『神様』
予想通りの人で安心した。すぐに僕は中身を確認した。
「来るなら来るで連絡くれたらいいのに。あと三十分くらいしたら上がりだから、それまで待っててね」
僕はそのメールに「了解」とだけ返し、もう一度シフォンケーキにフォークを伸ばした。
彼女から連絡が来ると、さっきまで普通の味に思えていたハーブティーとシフォンケーキがこの上ない味に感じられた。こういうのも、悪くない。
しばらくして、彼女の退勤時間が迫ってきていた。僕は席を立ち、レジへと向かった。レジを担当するのはもう一人のメイドさんであるきみかさんだ。
「ご主人様、ご出発ですか」
「ええ、まあ」
「双葉ちゃんを待たせちゃまずいですもんね」
「……あの、あんまりそれ言わないでください。やっかみ食らうの嫌ですし」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっとイタズラ心が出てしまって」
彼女は軽く笑いながらレジをこなす。僕は丁度の金額を払って、店を出た。
外はビルに煽られたきつい寒風が吹いていた。ただでさえ寒いのに、建築物の隙間で圧縮されたそれは体のかじかみを覚えさせてくる。
今年は例年より寒い。嫌な感じだ。僕がため息をこぼすと、白いもやがふわりと広がった。
「ごめん、待った?」
店から少し離れた場所で、僕に声がかけられる。ああ聞き慣れた声だ。僕は安心した顔で振り向いた。手袋にマフラー、コートという防寒着一式で身を包んだ神様さんが、僕の前に現れた。
「さっき出たとこでそんなに待ってないよ」
「……ねえ、きみのその格好、寒くない? 雨降ってないけどマイナス行ってるよ?」
「寒さは割と平気な方なんだ。まあ寒いか寒くないかで言えば、やっぱり寒いけど」
と、僕が笑うと、彼女は自らのマフラーを取って、僕に渡してきた。
「神様さん?」
「今度返してくれたらいいから。さすがに私のせいで風邪ひかせましたなんてなったら悪いし」
その一言に僕は何も返せなかった。彼女は聖母か何かだろうか。いや神様なのは知っているが、普通自分が寒いのにそんなことは出来ない。
だがここで返すのも彼女の面子を潰す。僕は素直に受け取り、彼女の残り香が漂うマフラーを首に巻き付けた。温かさより、彼女の身につけていたぬくもりが僕を包んでくれる。ああもう僕はヤバい奴の一線を越えた。ヤバい奴ではなく変質者だ。それでもいい、このマフラーがあるのなら。
「……あの、何か気持ち悪い目してるんだけど」
「え、え? そんなことはないけど……」
「まあ人が着けてたマフラーなんて、普通着たくないよね、ごめん」
何故か彼女が謝ってきた。謝るべきは僕の方である。ただ僕の中に生まれた思惑を知られると、もう二度と口を利いてもらえない恐れがある。僕は黙って彼女に頭を下げた。
ただ一分もすると、普通の思考が戻ってくるもので、僕は彼女と共に歩く道のりを、いつもと大して変わらない顔つきで歩いていた。
「バイト、板に付いてきたね」
「まあちょっとだけ。慣れないことの方が多いよ。コーヒー入れるのだって一人じゃなかなかスムーズに出来ないし」
彼女はくすりと笑いながら、僕にささやいた。あれだけ本格的な機材が揃っているのだ、慣れるのに時間がかかっても仕方ない。
「お姉ちゃん、きみに何か相談したんでしょ?」
え、という声が漏れる。遊園地に行ったことは内緒にしているのだが、まさか人葉さんがそのことを漏らしたのだろうか。
だが真相は違ったらしく、明るい顔の神様さんが僕に続きを語った。
「お姉ちゃん、かなり元気になったから。あ、これ話したんだなってすぐに分かった」
「僕は何か言った憶えはないんだけど……人葉さんが元気になったんだったらよかったかな」
「お姉ちゃん、きみを私から取るって言ってた。そういうこと言う人じゃないって思ってたんだけど、きみにはそう言わせる魅力があるんだろうね」
僕の所有権の話を、いつの間にか人葉さんはしていたようである。その所有権は元来僕の手元にあるべきもので、人葉さんがどうこう出来るものではないと思う。彼女の思考体系がますます分からなくなってきた。
寒空を見上げれば、星が光っている。白いもやのような吐息が、この寒い季節を彩っていた。
今こうして、神様さんと並んで歩けること。当たり前のようだけど、信じられない運で出来ていることに、僕はほんの少し、色々なことに感謝したくなった。
神様さんは笑っている。何か笑えるような話をしているわけではない。ただずっと、軽い雑談をしているだけなのに、微笑み続けている。彼女に相応しい人間になりたい。そう思っても方向性すら見えてこなくて、自分自身への苛立ちが募る時もある。
本音を知りたい。でも本音を知りたくない。今まで生きてきて、色々なことを適当に流してきた。でも右左のことに始まり、神様さんと出会って、臆病な側面を否という程見せられるようになった。こんなに弱い人間だったのか。なら一歩踏み出そう、そう自分に言い聞かせても神様さんとの距離は縮まらない。
今出来ることは、遠く離れないように、ただ側にいられるようにと願うだけだ。
「人葉さん、結構悩んでたよ」
「やっぱりそうか。私には何にも教えてくれないもん、あの人。でもきみに話すってことは、それくらいは信用してるってことだよね」
「まあ……そうだね。相談内容秘密にしてくれって言われてるから、教えられないのが残念だけど、神様さんのことも心配してたよ」
僕がそう言うと、彼女はくすぐったそうに笑った。それは一応知っていることなのだろうがこうして口に出されると、不思議な感じがするのだろう。
神様さんは、暗闇の広がる空を見つめていた。彼女は神様だ。しかし神様と言っても駆け出しのほとんど力の無い少女で、神様としての素養を除けばごくごく普通の人でしかない。そんな彼女の目に、夜空の星々はどう映っているのだろう。それが知りたくて、僕は彼女の横顔をずっと見つめていた。
「でもお姉ちゃんが元気になってくれてよかったなあ」
神様さんが明るい調子で笑った。あんな返答でよかったのか、僕の中に迷いが過ぎった。
「人葉さんとあんまり仲良くないんでしょ?」
「そりゃちょっとはね。でもやっぱりお姉ちゃんだし、学校でトップ取り続けてる私の自慢の人だから。学校で疲れてヘコんでるのかなって思ってたから、元気になったのは嬉しいよ」
彼女の笑顔が僕の良心に突き刺さる。人葉さんは神様になりたいと言った。そこに恨みはない。けれども絶対に届かない憧れがある。それが辛くて、僕はそうだね、と適当な相づちを打つしか出来なかった。
「人葉さん、前に話した時神様さんが店に来るなって言ってくるのが酷いって」
「そりゃ嫌だよ。家族に見せるために働いてるんじゃないんだし。本当は知り合い全員お断りにしたいくらいだもん」
「じゃあ、僕が来ていいのは特別ってこと?」
「……ま、まあそうかな。ていうか、断る知り合いも特にいないし! 誰も来ないのは寂しいなあって思って君くらいならいいかなーって、あはは」
彼女の声がワントーンどころかツートーンくらい上がっている。僕はそんなに否定されるような人なのか。マフラーの下の肌に、切ない寒さが過ぎった。
「ねえ、神様さん」
「な、何?」
「この間さ、新しい一歩の次を踏み出すきっかけが出来たって言ってたじゃない。それって、どんなこと?」
僕が訊ねると、彼女は浮かれた顔から一転、真面目な横顔で静かに俯いた。
「まだきちんと言える段階じゃないかな」
「それって大変なこと?」
「大変だと思う。でも努力して出来ないことはないって、お姉ちゃんときみに教えられたから。だからそのために、今はメイドを頑張ってるってところ」
彼女は静かに語る。そこに過去の悲哀はない。前へ向いて進む勇気を持った、今の力強い神様さんの姿だ。
それなのに、僕は父に言われたことで動じている。僕だけの問題じゃなくて、右左が絡んでいるというのが大きな悩みであることも分かっている。ただそれに僕は屈するわけにはいかなかった。右左の理想の兄で、神様さんに見合う男になるには、この難問を乗り越える必要がある。
僕もまだまだ負けてられないな。自然と笑みが浮かんだ。
「僕の悩みはまだ解決出来そうにないけど、前に向かって進むのをやめるのはよくないって、神様さんと人葉さんに教えられた。僕も、頑張る」
「悩みっていうのはね、頑張らなくていいんだよ。頑張るってことは百パーセントか百二十パーセント。それが必要な時もあるけど、悩みが遠い時は、五十パーセントとか八十パーセントで向かうの」
やっぱり、ただ屁理屈をこねるだけの僕じゃ、この人には敵わないな。言ってることの的確さだけじゃない、人を思いやる優しさが根底になきゃ、こんなこと言えない。
改めて、好きになれて良かったと思う。こんな人の側にいられたら、人生どれだけ喜びに溢れるだろう。
「じゃあまあ、ちょっと出力下げて、三十パーセントくらいでやってみる」
「そうそう、それでいいそれでいい」
彼女のふふと笑う姿に、僕も笑う。
そう言えば、今度の休みは委員長と映画を見に行く予定だ。こっちの方もどうなるか分からない感じだが、何とかしないと。
「あんまりはっきりしたことは言えないけど、神様さんと知り合えて良かった」
「私も良かったと思ってる。君と出会ってなかったら、今もぶらぶらしてたと思うし」
「そうかな……。僕は神様さんと知り合えたから、妹のことを解決できたと思ってる。もし知り合えてなかったら、僕は妹といい関係を結べなかったんじゃないかって、そんな気がする」
僕の言葉に彼女はくすりと少しだけ笑う。でも、そんな関係が今は心地よく、踏み出せない関係でもいつかは、という気持ちにさせてくれる。
「でもお姉ちゃんいいな」
「何が?」
「きみに相談したら、ちゃんと答えが返ってくるところ。私なんか、何か悩みがあるのかないのか分かんない状態だから、話をする以前の話だもんね」
彼女は頬を少し膨らませ、不満の吐息をたっぷりと吐き出した。
「いや、悩みなんてない方がいいよ。悩みがあったらいくらでも聞くし」
「色々言えない悩みもあるんだよ」
「仕事のこと?」
「バイトの方は特に不満はないよ。まあ、いつか言う時も来るんじゃないかなって思ってる」
彼女は膨らませていた頬を元に戻し、僕にいつものにっこりとした笑みを見せてきた。そうだ、この表情に僕は何度も励まされ、生きていく強さをもらった。
やっぱり、何だかんだで僕はこの人に敵わない。勝ちたいとも思わないし、僕はこの人に諭される瞬間を心待ちにしている。
いつまで続くんだろう、この関係は。出来ればずっと続きますように。でもそれを叶えるのは他人の力じゃなくて、自分自身の力だ。今まで他人のために力を使おうと思ったことのない僕に、それはとてつもなく高い壁で、それを意識する度に息をぐっと飲んでしまう。
「またお店に行ってもいいかな」
「いいけど、店の中ではべたべたしないよ」
「それでいい」
僕が頷いた理由を、彼女は分からないと言った面持ちで目を逸らした。
店の中では一人の客でいい。外で、友達で大切な人に戻ってくれるなら、僕はそれで充分満足だ。
駅が近くなる。今日もそろそろ終わりだ。家に帰って、またメールして、終わりだろうか。
こんな日々はいつまでも続くわけがない。それでもそれがいつまでも続きそうな錯覚に囚われて、僕は今日もゆっくりとこの時間を楽しむ。
雪が降ってきた。僕は彼女の貸してくれたマフラーの端をきゅっと握り、二人で駅に入っていった。




