2/16 過去と食卓と思い出と
結局、あの日の人葉さんは、それから後、変なことを一言も言ってこなかった。
どこかお姉さんぶっているところのある、僕の知っている人葉さんではなく、神様さんのような等身大の女の子がそこにいた。
戸惑わなかったと言えば嘘になる。ただそれでも、彼女が最後は笑顔でいてくれた、そのことに喜びを感じたのは確かだった。
そんなことを思い出しながら、僕は鍋で炊かれるビーフシチューの火を止めた。一週間に一度はこいつが顔を現すのだが、右左は飽きないのだろうか? 少なくとも僕は飽きている。
「右左、出来たよ」
「ありがとうございます。兄さんの作るビーフシチューは本当に美味しいですから」
そう言ってもらえるとありがたいが、僕はこいつからそろそろ離れたい。普通のシチューでは駄目なのか。ビーフシチューでなければいけない理由はあるのか。色々考えるが、右左にとって一番好きなメニューはこれであるというのは厳然たる事実で有り、覆しようもない。
フィッシュシチューとかないかな。あっても作る気がしないか。僕は淡々とした表情で、ビーフシチューを入れた皿を右左に渡した。
「兄さん、この間、友人の方と遊びに行ったって言ってましたけど、どうでした?」
右左が静かに訊ねてくる。気にしないとばかり思い、右左に「今日は友人と遊んでくる」と日曜遊園地に行ったことを軽くぼかしたのだが、右左はそれを気にしていたらしい。
そうだな、と前置きして、僕は右左に返した。
「誰と行くか、そういうのが一番重要なんだって思ってたけど、どこへ行くかってのもかなり重要だって理解させられた」
「……そうなんですか、大変だったんですね」
右左の変わったリアクションに、呆然としそうになると同時に、おかしな笑いが漏れそうになる。右左は天然の小動物だ。そりゃ、こんな子が学校にまた通うようになったら、交際の申し込みが殺到するのは間違いない。
「そう言えば右左、学校に戻るイメージは大分出来てきた?」
「そうですね、少しずつですけど、寝る前にイメージトレーニングって言うんでしょうか、色々考えたりして頑張ってます」
右左がにこっと微笑む。その笑みを見て、僕は以前の右左を思い出していた。以前の右左ならどこかしら影の差した笑顔だったのに、今の右左はこんな自然な、明るい笑顔を見せることが出来る。
年中明るい顔をしてるミミのような笑顔はどう頑張っても無理だろうけど、右左のそれは魅力的なものに変わっている。僕の心配事も、そろそろどこかに消える頃なのかもしれないな、と少しため息をこぼしかけた。
「右左って中学の頃、どんなのだったの?」
「私、兄さんからそういう話教えてもらってません」
右左がむくれながら僕に反論する。いや、そんなこと話す機会なかったじゃないか。そう言いたかったがそれを言われると仕方ないので、僕はおもむろに返答した。
「まあどんなって言われるとなあ……。父さんが忙しかったし、夕食作りも一人でやらなきゃいけなかったし、冴えない学校生活だったな」
「兄さん、モテそうな感じがするのに不思議ですね」
「今もそれ周りに言われるけど、全然実感沸かないんだよな。むしろモテないオーラが漂ってるって思うんだけど」
僕が真顔で言うと、右左は硬い表情のまま、スプーンを握った手を止めていた。
何だろう、悪質な冗談だと思われているのか? 本当にそうとしか思えないのに、右左には僕がどんな兄に映っているんだろうか。
そこを気にしていても始まらない。僕は言うだけ言ったぞという態度で、右左を見つめた。
「私……ですよね。兄さんの思ってる通り、誰かに告白されたりとかありました。でも自分のメンタルを支えるので精一杯で、気付けばずっと一人でいる子になってました」
右左は視線を落としながら、寂しげに語る。そんな右左の姿はすぐに想像できた。何故ならそんな右左を、僕はここへ帰ってきてすぐの頃、ずっと見てきたからだ。
先日の父との話し合いを思い出す。父の話では無く、その中で出てきた右左の生き方を僕は思い出していた。右左のこれまで、そしてこれから。僕が支えるか否かは大きな問題だ。今の右左なら全てサポートしなくても充分にやっていけるだろう。でも、世の中に万全はない。
僕はこの街に、帰るべくして帰ってきたのかもしれない。僕は、あの日から強ばっていた顔を少しだけ崩すことが出来た。
「それで、話を元に戻しますけど、お友達とどこに行ったんですか?」
右左がそわそわした様子で僕の顔を覗き込む。嘘を吐いてもいいのだが、相手は神様さんでもないので、その必要もない。というか、神様さんも人葉さん経由で聞いているかもしれない。それよりも、メイドカフェ通いよりかは健全だろう。僕は素直に話すことにした。
「遊園地行ってきた」
「遊園地……ですか」
右左の目が少し鋭くなる。何か勘ぐられている感じがするが、僕はいやいやいや、と言葉を返した。
「友達が行きたいって行ったから付き合っただけだよ」
「そのお友達って男の人ですか、女の人ですか」
何だろうか、いつも穏やかで優しいイメージのある右左が、とてつもなく恐ろしく見えてきた。ここは嘘で切り抜けよう。僕はにこりと笑って答えた。
「グループで」
「そうですか」
右左はまたにっこり微笑んだ。何だろうか、嫉妬でもしたのだろうか。ここまで追い詰めるような感じだとまったく嬉しく思えない。
これと別口で委員長と映画に行くなんて話をしたらどうなるのか。右左を振り回した僕が言える立場でないのは分かっているが、ちょっと疲れる。
「でも遊園地、いいですね。私、最後に行ったのいつかな……」
「僕も久しぶりだったから、結構新鮮だった」
「最近の遊園地って凄いって聞きますけど、どうでした?」
「いや、ごくごく普通。昔ながらのって感じのとこ行ったから」
「有名なとこだとアトラクションに何時間も待ちますもんね。友達同士で行くなら普通のところの方が、確かにいいかもしれません」
右左はその点は素直に納得して、遊園地の話題に食い付いていく。行く前に期待していなかった僕でさえ楽しいと思ったのだから、右左の中にある憧れが強いのはある種当然だと言えた。
喋りに興じてしまい、シチューが冷めだした。僕はゆっくり、食事の方に意識を向ける。
時計は八時を示していて、今日の終わりを静かに告げつつあった。
「右左もその内、どっか行きたいところがあるなら連れて行くけど」
「本当ですか?」
「嘘吐いても仕方ないだろ」
「……ありがとうございます。でもそれは、学校に戻るまではありがたい話としてしまっておきますね」
そうか、と僕の目がわずかに細くなる。右左は自分の目標をきちんともてる子なのだ。そしてその目標を果たすまで、脇目を振るということは考えない少女でもある。
右左が元気でいること、それはとてもとても大事なことで、僕にとって何かに換えることの出来ないものだと、改めて痛感させられた。
右左が今大事にしていること、それは学校に戻ることで僕と戯れることではない。そしてその先に新しい出会いが待っている。
僕も頑張らないと。かなり冷えたシチューをかき込み、僕は気合いを入れ直した。
「兄さん、ごちそうさまでした」
「なあ、右左、シチューそんなに好きか?」
「はい、週に二回でも食べたくなります」
右左は可愛い妹だ。だがシチューは所詮メニューの一つである。僕にとってシチューはまったく可愛くないメニューでしかない。さすがに週に二回もこんなのが出てきたら辛すぎる。
シチューに似たもの、カレーでは駄目なのだろうか。いや、カレーも週に二度も続いたらうんざりする。
やはりまず、健康的な学校生活に戻すには偏食を直すべきなのではないだろうか。欠点がほとんどないのに、そこだけはどうにもならない欠点だという気がした。
「兄さん、何か考え事ですか?」
「ああ……ちょっと大切なことを色々考えてて……」
当の右左を脇に置き、僕は頭を抱えながら呟いた。一方の右左はその原因が自分の偏食にあると分かるはずもなく、にこにことした顔で僕を見つめていた。
料理下手というつもりもないし、ビーフシチューもそれなりの味で作れると思っているが、週に何度も食べたくなるような味で出せるとは思っていない。右左は子供のような味覚をしているのだろう。さすが、僕が帰ってくるまでコンビニ弁当やファミレスで過ごしてきた子だ。
人葉さんではないが、魚の量を増やしたり、他のメニューを増やす必要がある。僕は気合いを込めて、シチューの入った鍋を見つめた。
「兄さん、食器、流しに置いておきますね」
「ああ、右左、勉強頑張れよ」
「はい!」
僕が最後に励ましの言葉をかけると、右左は格段に嬉しそうな声で部屋へと戻っていった。
しかし偏食か。難しい問題である。これで嫌いな野菜があるとかそうなるとますます大変なのだが、幸いなことにそこら辺の好き嫌いはない。
シチューと勉強に身をやつす数ヶ月か。色々な意味で僕には堪えられそうにない。
それに堪えられるから、右左なのだろう。僕は流しに置かれた食器を洗いながら、右左の歩み出す四月、そして先の見えない人葉さんの瞳に思いを馳せていた。




