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2/14 たくさんの秘密と少しだけの約束

 いつもと変わらない昼が終わり、午後の授業もクライマックスを迎えていた。

 あと二分、一分……。

 聞き慣れたチャイムの音がそこらに響く。教師も特に問題がなかったことに気を許したのか何も言うことなく立ち去った。

 しばらくして、入れ替わりで入ってきた担任が今日一日のまとめを告げる。ああ、いつものことだが面倒毎の多い世の中だ。右左もこんな世界に帰ってくるのを選ぶなんて、僕よりよっぽど強いんじゃないかと思える。

 そして、今日という日に課せられた課題の全てが終わり、全員無事解放という幸運を得ることが出来た。

 僕はいつもと変わらず、一人で帰ろうとした。そんな僕の近くに、一つ、人影が近づいてきた。

 すっとその方へ目を滑らす。僕に近づいてきたのは委員長だった。

「塚田君、授業お疲れ様」

「ああ、お疲れ様」

 僕が軽く返答すると、彼女も同じような温度の笑顔を返す。彼女は妙に笑顔だった。

「どうかした?」

「映画の試写会の抽選、当たって。二人分のチケット」

 はあ、なるほど。いつも思うことだが、彼女は国語が苦手と言う割に、本にも造詣が深いし映画もよく見る。いわばサブカル系の人で、趣味のない僕からすれば感心を覚えるレベルだ。

 試写会なんて珍しいものが当たったなんて、羨ましい話だ。

「どうかした?」

「せっかくだから、いつもみたいに見に行かない? 多分、面白いと思うけど」

 なるほど、そういうことか。別に断る理由もない。僕は二つ返事で首を縦に振った。

「いいよ。いつ?」

「再来週の日曜。映画館のあるとこの駅で待ち合わせ、それでいい?」

「ああ、構わない」

「ありがとう、いつも付き合ってくれて」

 彼女は最後にはにかむと、「委員会の仕事があるから」と言って立ち去った。

 映画、去年から今年に入ってやたらと見る本数が増えた。傾向も偏っていればまだ面白いのだが、アクション、ホラー、ヒストリーとばらばらだ。

「いいねいいねーまたお誘いか」

 向こうから冷やかすような声が聞こえる。そっちを見ると、今度はまた別の見慣れた姿が僕の目に映った。

「……何だ、野ノ崎、お前見てたのか」

 僕をからかってきたのは野ノ崎だった。野ノ崎は薄い鞄をぐるりと回して、僕の方に近づいてくる。

「委員長と映画良く見に行くって話は聞いてたけど、マジだったんだな」

「いや、別に僕は隠してないけど」

「あの委員長が自分から外に連れ出してんだぞ? なあ、実はもう何かあったんだろ?」

 野ノ崎が声を潜めて、くだらない勘ぐりを入れてくる。どうしてお前はそう下品な話題になるとウキウキし出すんだ。男だからなんて言い訳はするなよ、そう言いたくなる気持ちさえ浮かばず、僕はほとほと呆れたような顔で答えた。

「何もない」

「まさか、本当は?」

「何もない、それが全部だよ」

 僕の答えに野ノ崎は絶句した。

 そんなの予想出来る答えだっただろう。そう言いたいのに、野ノ崎は頭を抱え続けていた。

 野ノ崎は鞄を脇に置き、窓ガラス側の柱にもたれかかった。

「お前さあ、何かこう欲とかないわけ?」

「そういう考えで接するのは失礼だと思うけどな」

「委員長に対してそれならまあ分かるけど、他の全員にその態度だったらお前はヤバい」

 つまり何だろうか、野ノ崎の中にある僕のイメージは右左に対してのことだったり、神様さんに対してのことなのかもしれない。

 そりゃ神様さんに関しては特別だ。うまくいくなら今日にでも結びつきたいという欲求は普通にある。

 ただそういった情欲で繋がる仲じゃなく、流れの中で自然とそうなってくれればいいという思いが今は勝っている。それだけの話である。別に僕は無欲な人間ではないということを、野ノ崎は理解してくれないのだ。

「まあお前がいいならそれでいいけど、勿体ない……」

「だからそれが失礼なんだよ」

「向こうの気持ちを反故にしてるお前の方が俺には失礼に見えるけどな。まあ同好の士として友情築くのも別に悪いとは言わねえけど」

 野ノ崎は口ではそう言うが、口調が明らかに投げやりなものだった。

「野ノ崎も委員長と同じくらい大事にしてるんだけどなあ」

「俺を大事にする前に何を大事にすべきかお前は一度よく考え直せ」

「そうは言ってもなあ……」

「あれか? 別れたように見えて実はまだ二宮と接点あるからか?」

 野ノ崎の確率一パーセントで発動する妙な直感が僕の心臓ギリギリをかすめた。とはいえ、こんなのはミミに何度も言われて慣れたことである。躱し方も心得ているつもりだ。

「そうだとして、野ノ崎には関係の無い話だし、委員長にも関係の無い話だと思うけどなあ」

「おいおい……俺はともかくあいつと委員長の確執、お前知らないわけじゃないだろ。それ知った上で委員長と適当に付き合ってるんだったら、お前の人間性ちょっと疑う」

 確かに野ノ崎の言葉に理はあった。右左のことに関して恩があるとはいえ、因縁のある神様さんと委員長の双方にいい顔をしているというのは、ちょっと常識がないかもしれないと思える。

 委員長は僕が神様さんと親しくしていることを知ったら激怒するだろうか。それとも幻滅して離れるのだろうか。どれもあり得る未来だが、僕はそれほど悲観するようなことでもなかった。神様さんに見放されることは想像したことがないが、そうなってしまうことの方が、よほど辛い。

 最近、二者択一を迫られてばっかりだ。何か悪いことでもしたのかな。そう思っても答えが出るわけでもなく、僕はただ野ノ崎の肩口から見える、窓の外の別棟を見つめていた。

「ところでお前、このあと何すんの?」

「家帰って家事。野ノ崎は?」

「真っ直ぐ家帰るか、部活の助っ人か。そういうのも結構面白いもんだけどな」

 なるほど、時々野ノ崎が真っ直ぐ自宅に帰らないことがあると思っていたが、そんな活動的な部分があったのか。

 ああ、そうか。僕の中で得心したことが一つ生まれた。野ノ崎は面白キャラとして扱われているから、女子からのアプローチがすぐに途絶えるのだ。きっと大学に入って先入観が抜けたらこいつ、かなりモテると思う。逆に言えば高校時代中はそのイメージが覆ることはないだろう。今は雌伏の時だぞ、野ノ崎。

「部活の助っ人とか結構格好いいイメージあるけどなあ」

「だから……俺のモテない話に結びつけるな」

「いや、お前のそういう献身的な姿勢は偉いと思う。頑張れよ」

 僕の言葉に野ノ崎は少し照れたのか、表情を若干崩しながらそこから立ち去った。さて、僕も帰って夕食作りをしなければ。

 僕は委員長から試写会に誘われたことを多少忘れながら、駅前へとふらふら歩き出した。

 それほど時間が経っていないのに、冬の空はすでに赤く色づいていた。この景色が、明るくなる季節になったころ、僕は右左と共に学園に行く日々を迎えているはずである。

 この半年の自分の環境でさえ目まぐるしく変わったのに、これから先半年なんて更に想像が出来ない。

「何々? 悩んじゃってる? 青春、青春かな?」

 ぼけっとしていた僕の脳がいきなりぐらっと掴まれ、大きな音で叩き起こされた。

 何だと思いはっと振り向くと、そこには春日第一の制服を着た人葉さんの姿があった。

 ふう、と息を吐くと人葉さんは僕のリアクションが納得できないのか、こつんと握りこぶしを僕の額に当ててきた。

「いや、いきなり現れられても僕も困るんですけど……」

「一宏君を待ってここで張ってたんだぞ。しかも、双葉のことがあるから隠れながらで大変だったんだから」

 そうですか、と告げたあと、僕は「そこまでするくらいなら電話で呼び出してくれればいいのに」と思った。もっとも、そうしない愚直さが人葉さんの一番の魅力とも言える。僕はあえて何も言わず、彼女の側についた。

「今日は何しに来たんですか?」

「それこっちの台詞。双葉が何か、一宏君落ち込んでるっぽいからちょっと会ってきてって言ってきたからわざわざ来たんだぞ」

 えっ、そんな声が思わず漏れそうになる。神様さんが人葉さんに頼み込むなんて、何というかどこまで心配させてたんだろうと思ってしまう。

 やっぱり、僕がもうちょっとしっかりしないと、結びつく以前に離れてしまう関係に思える。

 改めて気持ちを込め直して、僕は人葉さんと向き合った。

「何か聞いてます?」

「男としての欲求が溜まりすぎて、そこら辺の女の子手当たり次第声かけてるとか聞いた」

「って嘘つかないでください!」

「もーただの冗談じゃない。何なら私とどっか行く? 楽しいこと出来るとこ」

 僕は黙り込んで、彼女の目をじっと見た。すると彼女は大きく笑って僕の背を叩いた。

「何考えてんの?」

「こっちが言いたいですよ」

「私が行こうって思ったのはカラオケでストレス発散でもしないってことだよ? 君は何想像したのかなー。もしかして変なこと想像したのかなーそんな人に全然見えないのに幻滅しちゃうなー」

 僕が罠に引っ掛かったとばかりに、彼女は僕をさんざんにからかってくる。さっきの話の流れだったら、誤解して当然だろ、と言えるはずもなく、僕は顔を真っ赤にして俯いていた。

 すると、彼女はまるで猫のような変わり目の早さで、僕の腕に絡みついてきた。

「……双葉に内緒で、限界超えちゃう?」

「カラオケで何の限界超えるんですか」

「カラオケじゃ超えられない限界。……君がさっき想像したとこの限界」

 彼女の甘えるような言葉に、僕は首を捻りながら腕を振りほどいた。

「そういう冗談、あんまり好きじゃないです」

「冗談かー。そう取られると残念だね」

「……まあ、僕も人のこと言えない部分はありますけど」

 考えてみれば、以前この駅前で神様さんにそんな冗談を言ったことがあった。言うのはよくて言われるのは嫌いというのは、身勝手が過ぎる。

 でも、僕よりも頭一つ分小さい人葉さんは、口元だけ緩めて、寂しげな顔で黙り込んでいた。

「そうですね、機会があったら。それでいいんじゃないですか?」

「本当に? そういう機会作るために本気になるよ、私」

「……やっぱり撤回していいですか。双葉さんに悪影響及ぼしそうで凄く嫌なんですけど」

「大丈夫大丈夫。双葉にある程度譲って、私は愛人ポジでいいからさ」

 何だか話が高校生の会話とは思えないものになってきた。流石、神様さんをして嫌な姉と言わせるだけの面倒くささのある人だ。僕は舌を巻きながら、機嫌の戻った人葉さんを上から眺めていた。

「で、今日何しに来たんですか。僕の相談に乗るのか乗らないか、はっきりしてください」

「おお、忘れるところだった。一宏君なんか悩んでるんだってね。どうした?」

「話せば色々長くなるんですけど……」

「じゃあファミレスでも行こうか。お姉さんが奢ってあげるよ」

 軽い調子で彼女は言う。その神様さんと正反対の反応が、面白くもあり、疲れる部分でもある。ただそれが嫌というほど、精神の閾値を超えるというわけではない。あくまでからかわれてる自分の対処しきれない様に、おたおたしてるというだけだ。

「奢りはいいです。自分で出します」

「なるほど、その財力で双葉を籠絡させたというのは本当か」

「って神様さんから何聞いてるんですか!?」

「仲良くなってからのことだよー。一宏君は色々食べさせてくれるけど、お姉ちゃん私に冷たいよねってそういう話」

「それを籠絡というのはあまりにも話が飛躍しすぎではないでしょうか」

「そうかなあ? 割とそういう側面あると思うけど」

 彼女は悪意なく笑い続ける。これで悪意があれば僕も付き合いきれんとばかりに離れられるのだが、この人の場合好意の塊でこんなことを言うから余計にたちが悪い。

 結局僕は、彼女に連れられ駅近くにあるファミレスに入った。

「何かがっつり食べたかったら言ってね」

「……僕、夕食作りしなきゃいけないの分かって言ってますよね?」

「あ、バレたか。まあ軽く食べなよ。でなきゃ店にも迷惑だし。私ポテトとドリンクバー。君は?」

「じゃあ僕はチョコレートパフェで」

「へえ、甘いもの好きなんだ」

「いえ、普段食べないからちょっと手を出してみようかなって思った程度の話です。気にしないで下さい。ていうか夕食近いからそんなに食べるわけにもいかないんです」

 ふむふむと彼女は頷き、呼び出しのボタンを押した。しばらくしてウェイトレスさんが来て注文を取っていく。そこでハンバーグとか言い出さないかと思っていたが、ウェイトレスさんに話しかける彼女の顔は淡々としていて、普段のテンションの高さが嘘のように見えた。

「見とれちゃってどうかした?」

「……いえ、ちょっと考え事してただけです」

「双葉とそっくりだから双葉の代用品でもいいんだよ?」

「そういう考えはやめましょう、冗談だとしても」

 僕が切々と解くと、彼女はふふと少しだけ笑って頬杖を突いた。

 しばらくの無言の中、僕は先日のことを話すべきか、話さないかで迷っていた。ここへ来たということは、話すつもりがあったからなのだが、どうもその直感が鈍っている。人葉さんの言葉に惑わされて、話す必要がなくなってきたような気もしていた。

「ねえ」

「何ですか」

「悩み、解決できた?」

 僕の胸に、その一言が突き刺さった。野ノ崎の惜しいところをかすめた一言ではない。確実に一突きで仕留めた一言だった。

 彼女は知らない。僕と右左と、父の間に何があったかを。家庭環境に関しては知っている。でも先日起こったことに関しては知らないはずだ。それなのに、彼女は軽く喋った。そして的確な「解決した」という答えを寄こした。

 そう、彼女が色々冗談を言っている間に、僕は考えるという行為を忘れた。それが一番の解決法だと、彼女は知っているようにあえて道化を演じていたのかもしれない。

 この人の真意はどこにあるんだろう。僕はまったく見えない彼女の感情に、暫時無言になっていた。

「まだ悩み、話してないですよ」

「でも顔つき変わったもん。その顔は、悩み事が少しは晴れたって顔だな」

「……そうかもしれません。人葉さん見てたら、考え事とか馬鹿馬鹿しくなって」

「あはは、それでいいんだよ。悩み事なんか抱えるだけ無駄。私も出来るだけ自分のこと考えるようにしてるしね」

 彼女の高笑いは、心を安らかにさせてくれる。右左のことは右左のことだ。それを解決できるのは最終的には僕ではない、そう、それも右左なのだ。

 でも、やっぱり大切な妹を支えてやりたい。そう願う僕の前に注文したチョコレートパフェが置かれた。値段相応の、小さなパフェは夕食前にはありがたい。

「まあ何だか分からないけど、悩みが解決できてよかった。ね? お姉ちゃんに相談してよかったでしょ?」

 人でごった返すファミレスの中に、間抜けな言葉が溶けていく。僕はそこまで思ってないのに、ということを口にも出来ず、ただ空笑いを浮かべていた。

「ところで人葉さん」

「ん、改まってどうかした」

「あの、神様さんから人葉さんが結構悩んでるって話聞いたんですけど」

 僕が思いきって口を開くと、彼女はふっと笑って唇を閉ざした。

「僕が頼りないのも分かります。でも人葉さんには色々助けられてますし、僕が手助け出来る領分があるなら助けたいんです。何かあるんでしたら教えてくれませんか?」

 僕がそう告げると、人葉さんは頬杖を突きながら首を傾げた。

 さっきファミレスの店員に告げた時と同じ、真顔で淡々と告げる時の顔だ。

「君が私の悩みを知っても何の得もないし、私もそう簡単に話す気もない」

 エアコンの風が頬を切る。そんなに僕は信頼に値しないだろうか。いや、愚問か。僕は手元のパフェに視点を落とした。

「……ですか」

「でもま、一つ頼みたいことはあるかな」

 彼女が途端ににまあと顔をほころばせた。どういう内容が飛び込んでくるのか。僕は胸の高ぶりを必死に抑えて彼女の次の言葉を待った。

「遊園地一緒に行ってほしい。双葉抜きで、二人で遊園地、どう?」

 それが何を意味するのか、僕には全く分からなかった。二人で一緒にいるならファミレスでも充分だし、むしろ話をするのに遊園地というのは適した場所ではない。

 それでも彼女の目は、下から覗き込んできて、見事にねだってくる。

 ここで断るのは簡単だが、相手は人葉さんだ。恩義もある。僕はしばらく悩んだ後、分かりました、と返答した。

「お、いいねいいね。いつ行く? 再来週の日曜とか?」

「済みません、その日はちょっと所用があって……」

「夕食作りで所用はないな。なんかクラスの子にちょっかいかけられてる?」

 僕はその言葉に絶句した。何でこの人はそういうことを当てるのがうまいのだろうか。直感なのか、洞察力なのか、どちらか分からないがあまりうかつなことは言えないな、と僕は改めて彼女に対する向かい合い方を考え直した。

「再来週の日曜は無理ですけど……今度の土曜か日曜なら」

「土曜はうち学校なんだよねえ。今週の日曜か、ちょっと早いけど、楽しみにしとこう」

 人葉さんは満足げに語ると、手元にあるポテトをつまんで一口頬張った。そして次の瞬間「熱っ」と顔をしかめた。だから揚げたて持ってこられてるんだから気をつけなきゃ。

 しかしやはりそこは人葉さんで、彼女はポテトの山を気にすることなく、頬杖を突いてにこにこと僕を見据える。

「ポテト、ほしい?」

「いえ」

「そこはさあ、食べさせて下さい、人葉さん、だろ? 君はそういうところ融通効かないよね。というか双葉ってそこまで入れ込むほどかあ? 顔は私に似てるから可愛いとしてもさ」

 僕の冗談が通じない性格を彼女は理解してくれないのか、むくれっぱなしだ。ただそのむくれる度に神様さんを引き合いに出すのは正直止めて欲しかった。

 すると、僕の機微に気付いたのか、面白くなさそうに頬杖を突いていた人葉さんの顔がにやついたものに化けた。

「双葉のこと知りたい?」

「知っても知らなくても僕の中であの人の価値は変わりませんよ」

「じゃあ、昔の男のこととか」

 たった一言。それだけで人間は残酷に人を殺すことが出来るのだ。

 僕は息を飲んだ。僕の表情に満足したのか、彼女は少し冷えたポテトをひとつまみして、悠然と「昔のこと」を語り出した。

「双葉に男がいたと思う?」

「……正直、あんなに綺麗な人だからいない方がおかしいと思います」

「でしょでしょ? でもいなかったんだよな、あの子」

 その一言に、僕は深い安堵を覚えた。彼女は無事で何でもなかった。自分が彼女の初めての男になりたいなんて気持ち悪い欲求を持っていることも同時に気付かされるが、今はそんなことに構っている余裕はない。

「どうしていなかったんですか?」

「……あの子が正真正銘の神様だから」

「あの……言ってる意味がよく分からないんですけど」

 僕は困った。パフェもあまり減っていない。それどころか上に盛り付けられたチョコレートのアイスが暖房で無様に溶け始めてきていた。

 目の前の人葉さんは、遠くの子連れの席を眺めながら、何の感慨もないようにとつとつと語り出した。

「あの子ね、普通の人間を避けさせるんだ」

「避けるんじゃなくて、神様さんが避けさせる?」

「そう、神様は汚れちゃいけない。そのための力が双葉には備わってたの。だから小中誰も友達なし。高校入ってはっちゃけるのかと思ったらその逆で学校やめる羽目になるし」

 その話を聞いて、僕は悲しくなった。あんなに明るくて、人当たりもいい彼女が、誰からも避けられる。それも自分の本意ではなく、ただ生まれ備わった力によってなんて、馬鹿げた話すぎる。

「その双葉に初めて出来た友達ってどんなのだろうって気にしたら、かなりのイケメンだもんなあ。顔で選ぶタイプとは思ってなかったのに裏切られた気分だ」

「いや、そういうのじゃないと思いますよ」

「分かってるって。ただの冗談。ま、双葉が寄れるくらいだから君も何かしらクヌギの精霊に愛されてるんだろうね」

 彼女はふっと笑うと、真顔になって横を向いた。どうも今日は、人葉さんの真面目な顔を見る機会が多い。いや、もしかするとこれが人葉さんの本当の姿なのかもしれないが、そこがどうにも分からない。

 神様さんを語る時に見せる、情熱と無情。どちらが真でどちらが偽か分からなくなる。

 僕が黙っていると、彼女は冷笑を崩さぬまま、横を向きながらポテトをつまんだ。

「私と双葉、同じ時に生まれて、同じ顔して、体系もそんなに変わらないのに、何が駄目なのかな」

「人葉さんが駄目ってことはないと思いますよ……高校もちゃんと行って成績も上位だし」

「双葉には出来ないことだからね。でも双葉が努力したら私よりもっと凄いことになってる。双葉はそれくらい、特別な子なんだよ」

 人葉さんの口調は諦めにも似ていた。その諦めの僅か数パーセントに嫉妬に似た色が混じっていたのも、僕は気付いていた。

「まあ双葉がいい子なのは分かるけど、姉としては目の上のたんこぶってわけさ」

「……本当にそれだけなんですか」

「それだけそれだけ。気にしないでくれた方が気が楽」

 彼女はようやく僕に向かい合うように前を向いた。その顔は、いつもの太陽より眩しい真っ直ぐきらきら光った笑顔だった。

 ただ先ほどから話を聞いていた僕としては、その太陽の輝きの端に出来た影の方が気になって、神様さんのことよりも人葉さんの不思議な一面に気を取られ続けていた。

 僕がそんな人葉さんに見とれていたのに気付いたのか、彼女は照れくさそうに口元を押さえていた。

「そういう風にじろじろ見られるの、得意じゃない」

「人葉さん、男がどうこうとか言ってたじゃないですか。付き合ってきた人くらいいるんでしょ?」

「そこは姉妹揃ってないんだよな、これが。人に避けられる双葉はともかく、私は男運ないのかなー」

 と、彼女は僕にちらちらわざとらしく視線を向ける。そう言ったって、僕には僕の事情がある。右左との関係だってようやく何とかなってきたところで、人葉さんとどうこうしている余裕はない。

「じゃあ聞くけど、双葉の何がいいわけ?」

 彼女の質問は唐突だった。けれど、答えられない内容でもなかった。僕はそうですね、と前置きしてから、静かに数ヶ月前の懐かしい日々を思い出しながら言葉を紡ぎ出した。

「あの人は僕にとって本当に神様なんです」

「あの半人前が?」

「たとえ半人前だとしても、人間だったとしても、僕は彼女の言葉、仕草で何度も助けられたんです。何か特別なことがあったわけでもないんです。それでも彼女は、僕にとってかげがえのない、一番の人なんです」

 よどみなく僕は言い切る。すると彼女は納得したのか、ほおと呟いた。そしてにやりと笑って僕の目を見据えた。

 パフェ、食べられないな。僕はちょっと困りながら彼女の言葉を待った。

「その言葉、双葉に言える?」

「……言えません。僕の片思いですし」

「そうか。片思いか。なら私が君の彼女になる選択肢は充分に用意されているわけだな」

 彼女は得意げに語るが、僕がその選択肢を採ると本気で思っているのだろうか?

 だが彼女のにこやかな顔に隠された、瞳の奥は何も教えてくれない。それは神様さんの直情的な表情とまったく違った、神秘的ななものだった。

 彼女の意としていることが分からない。それはきっと、付き合って一週間でも一年でも変わらないものだと、僕の直感が訴えかけていた。

 ポテトがなくなる。パフェは半分以上残ったままだった。外は真っ暗になっていて、僕の不安をかきたてるようだった。

「さてと、話も済んだ、遊園地行く約束もした。帰ろっか」

「あの、パフェ食べ終わるくらいまでは待ってもらえませんか」

「仕方ないなあ……」

「それをあなたに言われたくありません」

 僕がむっと言い返すと、彼女は冗談だと言わんばかりに笑う。多分、こんな関係が僕と彼女のベストな付き合い方なのだろう。

 僕は急いでパフェの残りをかきこんだ。それほど量が多くないおかげで、すぐに食べ終わることが出来た。

「じゃあ、僕が支払いに行きますね」

「いやいや、私におごらせてよ。遊園地行く約束までさせたんだしさ」

「それはそれですよ。パフェ代に困るくらいなら遊園地なんて行けませんし」

「分かった。それじゃ、ポテトとドリンクバー代渡すね」

「それもいいです。人葉さんから、神様さんの重要な話も聞けたんで。その分は秘密にしておいてもらうってことで」

 僕がそう言うと、彼女は「本当にいいの?」とにやにやと見てくる。それをネタにゆするとでも言いたいのだろうが、彼女の口の堅さはこの短くない付き合いで否という程理解させられた。だから大丈夫だ。

 僕はレジに行って会計を済ませた。傍目から見たら、僕と人葉さんはどう見えるのだろうか。ふとそんなことが胸に去来した。

「遊園地のこと、双葉には内緒にしといてあげる」

「そうしてもらえると幸いです。ていうかそうしてください。変な誤解招くのは嫌なんで」

「双葉がそれ聞いて誤解するかへえって思うかは別だと思うけどねえ。君も熱心だなあ。他にいくらでもアテがありそうなのに」

 彼女はそう言って店を出た。僕も後につくように店を出る。外は真っ暗なだけでなく、異様なほどに寒く、どうしようもない冬の頂を僕達に与えてきた。

 まだそんなに遅くない。けれど彼女はこの真っ暗な中、家に帰るため電車に乗りしばらく歩かなければいけない。

 せめて近くだったらよかったのかな。僕はそんなことを思いながら、彼女に頭を下げた。

「遊園地、楽しみにしてるよ!」

 ――彼女は最後に、元気な声を出して、僕の目の前から駆け去っていった。

 その目は今日見た中で、唯一真実と思えるような光を携えたものだった。

 彼女のその声、その目を捉えた時、僕の疲れる一日だな、と思っていた気持ちが失せていく。

 やっぱり、人葉さんは神様さんの姉だ。僕が敵うような相手じゃない。どんな遊園地での一日になるだろうか。気がつけば僕は、映画の試写会のことも、夕飯のことも忘れ、その後ろ姿の残像が映る街の日暮れを眺めていた。

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